2011年09月29日

共依存とブラック企業   〜 適切な関係と「異常」な関係、適切な介入について


「自分の一番好きな人が」「自分の事を一番好きになってくれる」 たったそれっぽっちの条件なのに どうしてなの 永遠に揃わない気がする このままずっと ずっと (山田あゆみ/chapter.11)


どうしてこの世は「持つ者」と 「持たざる者」に分かれるのか どうして「愛される者」と 「愛されない者」が在るのか 誰が それを分けたのか どこが分かれ道だったのか (根岸達夫/chapter.55)


なぁ山田 何でオレなんかスキになっちまったんだよ オレは お前が可愛いんだ だからいつかお前に好きって言われたら ちゃんと断らなきゃって思ってた でも断ったらお前は どっか行っちまうんだって思って―――― だからずっと お前から逃げ回ってさ… (真山巧/chapter.13)


恋がこんなに つらいなら 二度としたくないと 本気で思った ―――なのに どうしたらいいの ぜんぜん もう わからないよ   この人が帰って来てくれて とても嬉しい ――そして とても苦しい (山田あゆみ/chapter.53)





ボクはこの人が苦手だ ボクはいつもコトバを選んで 選んでは 口をつぐんでしまうのに この人はこんなに たどたどしくても カッコ悪くても 一生けんめいコトバを尽くして キモチを伝えて あっという間に 母をさらって行ってしまった (竹本祐太/chapter.10)


オレは かしを作りたいんでも恩を売りたいんでもない 縁あって一緒になったんだ――だから ちゃんとあんたらの人生にかかわらせて欲しいだけなんだ そしてそゆことを 迷惑とは言わねんだぞ? (カズさん/chapter.32)



俺は はぐのこと精一杯大事にしようって そう決めてきた ――でも本当はどこかで不安だった こんな東京にひっぱり出してきて… 本当に良かったんだろうかって 本当にはぐの為になるのかって ただのオレのエゴなんじゃないかって… (花本修司/chapter.14)


何も返したりしなくていいんじゃないかな ………それは 先生が自分で見つけるべきものであって ――はぐちゃんがあげるものではないんじゃないかな そして先生は それを ちゃんと見つけられる人だと オレは思う (竹本祐太/chapter.64)





山田さん どうしようもなくなったら オレを呼びな (野宮匠/chapter.50)


バレちゃってる片想いって不毛だけどラクだもんね 罪悪感で相手は優しいし もうこれ以上ヒドイ事は起きないし 新しくキズつくこともない (野宮匠/chapter.35)


何が「ムリしちゃダメですよ」だ するっつの あっかるい声出しやがって ………信じらんねえっ 9時間かかんだぞ!? (野宮匠/chapter.48)


君の願いが どうか 粉々に 砕けますように きれいな思い出になんてすると 空にのぼって いつまでも 星みたいに輝くから (野宮匠/chapter.50)




他人から見たらどんなに情けなくても みっともなくても 真山を想う この気持ち たったひとつが 冷たくて明るい 私の宝物だった (山田あゆみ/chapter.53)


修ちゃんの人生を私にください ごめんね返せるかもわかんないのに こんな事言って でも でも… 私 描きたいのずっと だから 一緒にいて 最後の最後まで(花本はぐみ/chapter.61)


ただ あの時オレは 胸いっぱいに 幸せだと思ったんだ ありがとうって思った ――――でも あげられるものなんて 心くらいしかないから 君にわたそうと思った  (竹本祐太/chapter.47)





―――そうして 私は話しかけたのだ その光に 「もしも私が描く事を手放す日が来たら」「その場で この命をお返しします。」―――と……… あの時 私は「約束」をかわしたのだ ――たしかに 目には見えない 私の神さまと (花本はぐみ/chapter.60)


治らなくても 何も残せなかったとしても いいの わかったの 描きたいの これ以外の人生は 私には ないの ゆうべ言ってくれた事 ほんとに嬉しかった 忘れないね 私もずっと あなたの事見てる (花本はぐみ/chapter.61)


「努力する」か「諦める」か どっちかしかないよ 人間に選べる道なんて いつだってたいていこの 2つしかないんだよ (花本修司/chapter.30)








しっかり食べて ちゃんと寝て キチンと起きて せいいっぱい仕事して あなたが ほかの人をどれだけ大事にしていても それを見せつけられても ポキリと折れずに 生きて行けるように (山田あゆみ/chapter.47)





















▽「愛と依存ってどう違うんですか?」




恋愛というのは幻想で、病気みたいなもので、社会的に「これ!」って正しい形とか「ふつー」の形のものはなくて、人によってその目指すところや満足は違うわけだけど一般的に見て明らかに不具合が生じてることもある。


不具合というのはその関係の不健全さみたいなのから双方が一般的に健康な最低限の生活や満足を送れなくなってしまうような状態。



共依存……カウンセリングを受けたい - メンタルヘルス - 教えて!goo
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3172894.html

「恋愛も共依存みたいなもので、それが過度で将来性にとって不健全な場合は問題。実際に生じている不具合をお互いに認識させ、それをお互いの話し合いの中で自立的に解決させていくことが肝要」、と



おそらく、恋愛という感情に基づいたバンドリングな関係が経済合理性なんかを中心としたエゴイスティックなシステムを考えた場合ちょっと異常なものなのだろう。

たとえば性や金や子供を財としたとき、そのリソースに対してそれぞれがエゴイスティックにセルフュッシュに利益を追求していき、それを神の手が調停することによって需要と供給のバランスが自然にできていくのが恋愛や家庭を単純なシステムとしてみた場合の理想的な形だろうけど。でも、人は「愛情」という非合理な情緒を持つ。愛情に基づき、人はときに自身や種の保存といった観点における単純な利益からするとマイナスになるような行動選択をしてしまう。ロマン主義者ならば「その燃えるような愛の不条理さこそが人間だ!」というところだろうけど



そんな感じで恋愛は経済合理性だけでは割り切れない不条理を含む。だから依存も恋愛も果実と言えるだろうけど、それが過度になって明らかに不具合が出てくると困る。恋愛にaddict/abuseしてるウチはそういう不具合も気にならないのかもだし、それは個々人の自由な意思決定の領域ということで他人がどうこう言うのは大きなお世話(内政不干渉)ともいえるだろうけど




共依存が生じてしまうのは片方の「愛してほしい」って意識が「ふつー」より強い場合みたい。

「自己愛・自尊心が低いため、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、共依存関係を形成し続けることが多いと言われる」
http://bit.ly/niYXxi

「愛してほしい」という渇望と「自分は愛されない存在なんだ」という不安が「ふつー」より強いために「愛されてる?」という不安を絶えず持ち続け、より安定的で本質的な「愛」を求める


共依存という言葉は、学術的用語でなく、明確な定義はない。当初の定義としては、アルコール依存症患者を世話・介護する家族が、患者自身に依存し、また患者も介護する家族に依存しているような状態が見受けられることから見出された。これはアルコール依存症だけではなく、ドメスティックバイオレンス(DV)や虐待などにも見られる現象であると言われている。

この状況では、アルコール依存症患者が家族に依存し、また介護する家族も患者に依存するために、その環境が持続すると言われている。典型例としては、アルコール依存の夫は妻に多くの迷惑をかけるが、同時に妻は夫の介護などに自分の価値を見出しているような状態である。この共依存は、患者の自立する機会を阻害し、家族もまたアルコール依存症患者を回復させるような活動を拒んだりする。

現在では、単にアルコール依存症患者との関係だけでなく、「ある人間関係に囚われ、逃れられない状態にある者」としての定義が受け入れられている。例えば、暴力を振るう夫とそれに耐える妻の関係、支配的な親と愛情を受けたい子供の関係、相手から愛されることが目的となっている恋愛関係などがある。この観点からDVや虐待、自立できない子供や人格障害、それに恋愛における自己愛的な障害にまで共依存の概念が検討され、使用されるようになっている。


共依存の二人は、自己愛の未熟な人間が多いと言われたり、パーソナリティ障害であるケースが多いと言われているが、これはアルコール依存症やアダルトチルドレン、それにパーソナリティ障害の精神病理から導かれたところが多い。それは何故かと言えば、共依存者も被共依存者も、他者の価値に依存する傾向が多いからと言われている。

例えばアルコール依存症の家族では患者のアルコール依存を認めるような家族の傾向が認められる。それが患者のアルコール飲酒をさらに深める。またアダルトチルドレンにおいては、両親が自分の評価のために子供を利用したりする。そのため子供は大人になっても両親からの自立に困難が生じるようになる。自分自身の力のみで自立が出来ないのである。またパーソナリティ障害においては、そもそもの親が子供に依存的なケースであることが多い。アダルトチルドレンと同様、大人になると子供は他者に依存して、その他者に自分の要望を過度に期待するケースが見られる。

共依存の問題点は、被共依存者が回復する機会を失うことだけでなく、共依存に巻き込まれた者が、ストレスを抱え込み、精神的な異常を訴えたり、さらには関係性に悩み自殺する場合がある。よって、共依存を引き起こさないためには、医療関係者、専門家、援助者が、共依存を引き起こす者と接する場合には、一定の距離を取り、個人的な関係にならないことが必要である。



ぼへーっと自分とメンヘラのひととの付き合いを思い出す。


彼女もどこまでいっても根源的不安を抱えてるようで、いくら言葉を尽くしても、あるいは言葉を尽くそうと持ちかけても彼女自身が自分の根源的不安の理由をうまく捉え切れないようで、けっきょく二人の問題として解決できなかった。それを埋めるために体のつながりによる言外の説得力に頼ろうと思ったけど、それも自身の肉欲的エゴと半々な理由だったのかもしれない。


そして彼女はいまも無限の愛(甘え)を乞うているのだろうか……



そういった不健全な甘えに巻き込まれると付き合ってる人はバランスを崩してしまうのかもしれない。見えない不安が根底にあるからそれを解決するまで目の前の愛に納得することはないんだけど、往々にして愛を乞うひとは自身がなにを不安に思ってるのか?(どういった形でそれが根本的に解決されるのか?)ということに向きあうことができない。だから目の前の愛では足りなくて、常に不安をもたれてしまったパートナーや家族はバランスを崩してしまうのかも。その時点で依存者が求めている甘い愛はアルコールのようなもので建設的ではないのだろうし。


だから本当にきちんと付き合う場合は、問題解決のために一緒に不安に挑む決意のようなものが必要なのだろう。

そういった傷に向きあうのは依存者からすると勇気がいることだろうから、パートナーや家族が寄り添って支え勇気の手助けをしていく。



あるいは、第三者として援助する場合には過度に密接になり相手のペースに巻き込まれないように注意しつつ依存者当人の自立を促す。


共依存の原因となる被共依存者への対応としては、一定の距離を置きながら援助される。被共依存者は、援助が少ないことに見捨てられた気持ちを抱く可能性もあるが、「自分の人生は自分で切り開いていくしかない」と気づかせることが、結果として被共依存者の回復に繋がる。被共依存者は、支援を受けることに感謝し、関係者を操作することなく、自分自身の置かれている境遇を受け入れることが、回復の第一歩である。




共依存のめんどくさい問題としては、「共依存」と診断されることで依存者が「共依存だからいけないんだ」と過度の自責を感じること、あるいは関係者を操作することで自分に居心地のいい依存関係を構築してしまうことらしい。

後者は依存者当人も半ば無意識のウチにやっていることもあるのだろうからやはりパートナーや家族、もしくは距離的に余裕のある第三者的支援者が一定の律をもって「甘え」を抑制し自立を促すように接しなければダメなのだろう。

ただ、そうはいっても過剰な依存が生じてしまうのは、その背景として常軌を逸した過去を背負っているからであって、その重みについてきちんと理解することが肝要で、拙速に自立を促すような対応は誤りに思われる。ともに当人の問題の重みを見つめ、その克服に要するエネルギーを負担しあっていくような、、、単なる頭ごなしのラベリングではなく、当人の実存的な問題として共に考えていく(共有する)姿勢。それが依存者との信頼関係の醸成につながる。



「自立」の目安のひとつとして、『「愛してほしい」から「愛して満足」に自然に移行できれば』、があるみたい

http://www.counselingservice.jp/lecture/lec402.html

「他にも問題を起こす人と問題を代わりに解決しようとしてあげる関係性も、共依存と言えます。」

「対等に慈しみ合っていける関係になるにはお互いに自立することとお互いが与えそして受け取ることができる状態になったときに手に入るのです。」



ただ、これも「愛して満足」という感覚が当人の想像力や感受性に起因した個性的なものかもしれないので、いちがいに「愛して満足になれば自立」とも言えないと思う。なので「これがふつー」って押し付けるようなものでもない



「共依存関係は、機能不全家族などで育った人々が陥りやすい」らしい



機能不全家族 - Wikipedia
http://bit.ly/kLVBOs

機能不全家族とは、「子育て」、「団欒」、「地域との関わり」といった本来家庭に存在すべき機能が、健全に機能していない家庭の問題を指す。そしてこの機能不全家族で指摘される問題は、家庭内の不健全な事実が存在する問題よりも、むしろその機能不全家族の中で育った子供への悪影響が指摘されることが多い。つまり、機能不全家族内で育った子供は、機能不全な環境や考え方が一般的であると認識し成長しやすく、また幼少期の重要な人格形成において愛情を得る機会が非常に乏しくなり、自己愛・自尊心、他者への共感、他者の苦しみに対する理解等に欠けた人間にもなりやすい。この結果、機能不全家族により、社会と健全な関係を築くことができない大人が輩出される。

機能不全家族となる要因としては、代表的なものとして、家族構成員のアルコール依存、虐待、共依存などが挙げられる。また、このような機能不全的な家庭となっている場合は、その家庭を構成する親、または祖父母などが、機能不全家族で育った経歴がある可能性も高い。


そして、ともすればそういった負の業が連鎖していく

このような家庭問題(家族崩壊)の中で育った子供が、育った環境の不健全さに気づいた場合、過去に学んだ不健全な生活習慣からの脱却に向けて、莫大なエネルギーを費やして、回復の努力をしなければならないことが多い。しかしながら、機能不全家族の一番の問題点としては、機能不全家族の中で育った子供が、育った環境の不健全さに気づかない場合に、自己の配偶者としても同様の歪んだ価値観をもったパートナーを選ぶ場合が多く、成人してからも同様に不遇な人生を選んでしまう場合が多々あることである。また、機能不全的なパートナーを選ばずとも、自らの機能不全家族の経験や、健全家族の経験の欠如から、世代間連鎖によって、新たな機能不全家族を生み出す場合も多く、自己の人生においても、不遇な、または破滅的な人生となる場合が多い。無差別大量殺人を始めとする凶悪事件などで犯人の精神鑑定を行ったり、生い立ちを探っている際に犯人の家庭や親の思考、家庭教育が非常に歪んだものであることが発覚するケースが多いが、個人情報やプライバシーの保護の観点からこうした側面はほとんど報道されないことが多い。


知らず知らずのうちにパートナーにもそういった素養の人を選び、あるいは子供にその業を背負わせていく


機能不全家族で育った子供には以下の特徴がある、とのこと

* 自己愛が発達していない。子供の頃に健全な発達ができなかったため、他者と擬似的親子関係を形成する。

* 他者を信じることができない。他者の苦しみに対する理解ができない。

* 自尊心が低く、ポジティブな自己イメージを持てない。

* 人間関係に常に問題が発生する。

* 怒り、不安、絶望の感情になりやすい。

* 他者と孤立しやすい。

* 無慈悲。

* 常に真面目で、子供らしさを持ち合わせない。年齢以上に早熟する。

* 機能不全な関係を他者と築く。

* 機能不全家族の行動を自分の子供に実行し、機能不全家族の世代間連鎖を引き起こす。



幼年期に子供らしさを享受できずに一定の役割を演じさせられ、健全な親の愛を受けられなかったため、ということのようだけど。



これらも過剰に「逃れられない業」「わたしの人生お先真っ暗」のように意識するのもどうかなぁ、と思う。


人は誰しも異常であり千の貌をもつものであって、こういった凸凹も特徴といえば特徴なのだろう。


自分の中にも双極性障害(躁鬱)的傾向はある。ただ、それはなんとなく5段階とか10段階ぐらいにメモリが分かれてて普段はレベル1とか2ぐらいなのだろう。トップギアで欝の方になったときはけっこう大変だったし何回か死にそうになったけど、いまはそれも「そういう傾向がある身体(スペック)に生まれたのだから注意しなくちゃなぁ」程度にとらえてる。躁に入った時のエネルギーを利用すればいいだけだし、欝は最近はないように思う。まぁ、ずっとローギアだから他人からすると欝の状態が平常なのかもだけど。けっきょくあの部分で「自分は異常なのかも。。(ふつーにならなきゃ(しあわせになれない)」みたいに自己抑圧するのってどこかにまだナルシシズム、「わたし(´・ω・)カワイソス」な自己憐憫な物語を紡いでるところがあるのであって、「そんなこといってもこのスペックで配牌されててレース始まってるんだから仕方ないじゃん」って決めたら「そういう性能のもの」として許容できる。

身体的な特徴の違いなんかは単に操作する車の車体性能的な問題であって、それもうまく生かせばレースに勝てるのだろうし



「他人と比べて」ってレースでもなく、自分の中の目標に達するレースみたいなのに



最終的には意志の問題なのだろう



自分(´・ω・)カワイソスしてるのではなく、(´・ω・)カワイソスでもなんでもそのレースに勝つ(あるいはその車体の性能をいかんなく発揮する)という意志の問題。







▽<恋愛と仕事は似てる>  → ドツボにハマった恋愛はブラック企業みたい


「依存も恋愛も果実」、(外野から見てある程度、異常に思われても)「個々人の自由な意思決定の領域ということで他人がどうこう言うのは大きなお世話(内政不干渉であるべき)」というところからブラック企業や「やりがいの搾取」をめぐる話を思い出したり


「恋愛、もしくは生計を共にして継続的なパートナーシップを築いていくことはビジネスのようだ」とこちらでもいったけど


愛とはどういうものかしら? 〜 恋はおわるが愛情は続く: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/227459492.html?1317282159


共依存とかDVとかで不健全状態になってる恋愛関係というのはブラック企業に喩えられるかもしれない。


「やりがいの搾取」とは「社会の一定水準から算定すると、そこで与えられている対価や保証は明らかに平均より低いのに、『( ゚Д゚)<自分が楽しいと思って選んだ道だろ?いまは辛いかもしれないけど楽しいことできてるなら本望だろうし、将来的には食えるようになるかもだからいまは耐えろ!』」とするような話。「やりがいのある仕事」を「自分で選んだ」のだから「耐えろ」っていう自己責任論。


自己責任論は通常、抑圧されている個人に対して外部の既得権益から発せられるものだけれど、恋愛あるいは継続的パートナーシップにおいて同様の心理構造にある人は自己責任を内面化しているところもあるだろうか。

共依存をやりがい搾取なブラック企業とした場合、そこでの「やりがい」は何になるのだろう?

関係当初に持った「好き」という気持ちとかそれに付随する幻想とか?


「現在を耐えれば将来的にはなにか良いことがあるかも」って期待とか?


過去の「好き」や未来の「希望的満足」を支えに現在を犠牲にする。建設的な「投資」ではなく、対価の回収の望めない「犠牲」。


あるいは、現在に至るまでに結び付けられた「情」的なつながりや、そこまでにかけられた掛金(サンクコスト)と将来的期待値を思って現在の損を切れない状態


そうやって生まれた損益による「悲惨な自分」に向きあうのを回避するために「でも、彼(社長)ったらいいところもあるのよ」って物語(イデオロギー)を紡ぐ。そこで直下の心理的ストレスを誤魔化す。


その損益はしばしば生活的なぢわぢわとした小粒なもので、当人からしてみると「耐えられないものでもない」なので一つ一つの損については鈍感になっていくのだろう。そしてそれがいつの間にか積み重なっていき、あるとき積み上がったストレスに耐え切れなくなって心のダムが決壊する。




それらの改善点として、損をしている当人の意識改革のようなものが必要ということがまずあるだろうが、損をしている当人が『それでいい』と言っている場合は道義的に外部からの干渉が必要になる。しかし「外部からの干渉はどこまで正当性をもつのか?」ということになる。


子供のように意思決定や客観的認識が乏しく主体形成ができていない存在であれば外部からの介入は妥当とされるかもだけど、大人の場合はそれはしばしば難しいことになるか。



それでも、一定の客観的水準に照らして当人が損を被り続けている、ということが外部にも当人にも納得させられたら介入の妥当性はあるだろうけど




そこでもやはり介入する第三者は過剰な熱意に燃えて過干渉するのではなく、一定の律と距離感をもって臨むべきなのだろう。









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騎士と愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/226697368.html







タグ:恋愛 家族
posted by m_um_u at 20:15 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
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Posted by iwc 時計 at 2013年08月03日 13:25
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