2011年09月25日

愛とはどういうものかしら? 〜 恋はおわるが愛情は続く


性的行動とその決定因、またそこから発生する効果・作用の分析が生物学と経済学の臨界で生まれる。と同時に、道徳的・宗教的勧告や徴税といった伝統的手段を超えて、夫婦の性的行動を、経済的かつ政治的に協議された一つの行為に仕立てようとする組織的な作戦が現れる。

−知への意志−




権力は下から来るということ。即ち、生産の機関、家族、極限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっている。このような効果が、そこで、局地的対決を貫き、それを結びつける全般的な力線を形作る。

−知への意志−





精神は、身体の周りで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出される。その権力こそは、罰せられる人々−より一般的には監視され訓練され矯正される人々、狂人・幼児・小学生・被植民者、ある生産装置に縛り付けられて生存中ずっと監督される人々に行使されるものだ。

−監視と処罰−





主体を問い直すということは、その現実的な破壊、その解体、その破壊、全く別なものへのその転換、こうしたものへと到るような何かを経験することを意味している。

−M・フーコーとの対話−














▽「めし」の話 → 言葉以前の了解の交換




昔、「別れる気がないならめしは作り続けろ」と母親に言われた。さらに、子供については「何があっても手作りのお弁当だけは欠かしてはならん」と先輩のお母さんに言われた。家族のことでアドバイスもらおうとすると、めしに行き着く。。。。


http://twitter.com/que_sera/status/99427422713294848



これ自体はよくある話で、ふつーに「( ^ω^)まぁ日本の家庭生活の伝統的智慧だよねぇ。そういうものだ」って感じだったんだけどめんどくせー連中が「ああ、それは旧世代的な古い考えだよねー。非合理的だし、近代的生活にとっては因習だしー」みたいな感じでちょっと絡んでるの見つつ「いや、これはこれで合理性あるんだろうけどね。。合理性ってのはそれぞれの文化圏によって異なるものだし…」ってモニョったり

きちんと記述されてないだけでたぶんこういうのは「おばあちゃんの知恵袋」な民俗学的合理性があって、それが現代的な都会の経済合理性と合わないだけなんだと思う。



なんとなくのおーざっぱな妄想だと<言葉-理性でのコミュニケーション以前に「めし」が効く>というのはノンバーバルコミュニケーションということでブルデューのハビトゥスみたいな地味な効果があるのではないか?言葉以前に、身体を通じて実践していることが地味に規律というか、発想の発端部分まで影響していく、みたいなの。ロジック以前の議題(関心)設定の部分や、そこから生まれる感情や思考を規定するような。ヤコブソンの言語(あいさつ)の交話的機能な話のように「言葉でのコミュニケーションは本来ディスコミュニケーションを孕み」+「内容以前に発話を交わすことにぢみな意味があったりする」というような



承認や理解を志向しないゆるいコミュニケーション: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/76094661.html


論理的思考様式と詩的思考様式 (アナログ的思考の可能性、「魂の座」ら辺): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/78303131.html



「内容理解」以前に存在を認めるということ。


他人の考えてることなんか完全に理解るわけなくて、そういうことが理解できてるひとは慎重に言葉を紡いでお互いの意志を確認する。でも、「自分は理解されて当然」「意図を読み取られて当然」とする人は意志を伝える努力を怠る。(おーざっぱだけど)日本的な同質性の高い文化、摺り合わせ的な基盤のマッチング前提なアーキテクチャ。そこではモジュールとして細かく言葉が往来する必要はなくなり「おい」とか「あれ」とかで言葉が通じるように最適化し極めて全体性の高い「群れ」的文化圏ができるように思う。いわゆる「空気」なんかはそういったものの結果生まれた日本的な権力のあり方の呼び名だろうし。

ただ、そういった文化様式も「一定のコードの共有」という前提があって成り立つものであって、そういうものがない場面で「( ゚Д゚)<オレの言ってることを慮れや!このうすら鈍感が!」とかいうのは暴力的・非理性的言辞だろうけど。

そういった「日本的」あるいは「前近代的」合理性を孕んだ文化に対して、「なぜ西洋などでは言語(ロゴス)にそれほど重きをおくようになったか?」というのはまた面倒な問題で横道に逸れそうなのでてけとーに省くと、ギリシアのソフィスト以前にはロジックやレトリックをそれほど信じてなくてなんか「神様のおかげさまだぁ」とかギリシア神話的人間中心主義でマンセーで無反省に我が世の春を謳歌していたように思う。つまり、均衡状態で変化の期待されないシステムでは反省要因は疎外されるのだろう。分析→反省ツールとしての言語→ロジック・論法あたりもその辺なのかなぁ。。それらは「なんとなく」に共有されていた「当然」な流れ=権力を反省し、解体していくので、均衡状態を望む勢力にとっては望ましくないのだろう。


しかし、そういった言語中心、近代的な「言葉による意思確認」を志向する文化圏でも「めしを共にすること」「あいさつを交わすこと」はけっこう重要だったり。電話の最初の挨拶「もしもし」と同じく存在確認でありチューニング的に。あるいは「食う」ということ、「外来から異物を摂取するということ」の呪術的・象徴的意味合いをその場の人々が共有する、という意義。文化人類学のフィールドワークなんかで他所の文化圏におじゃましたときに「出された飯はちゃんと(゚∀゚)ウマウマ食う」が鉄則なように。敢えて自分にとっては得体のしれない異文化のものを無警戒に摂取することで、相手に全幅の信頼を置いていることをアピールしたり。

まぁそれは家庭における普段の食卓では交わされてないメッセージ交換だろうけど。ともあれ「飯を一緒に食う」は思いのほか意味があることなんだろう。挨拶したり、微笑んだり、寝所を共にしたり、セックスしたりとも似たような。行為の内容そのものの意味というか外延的意義、構造的合理性みたいなの。個別の機能合理性では割り切れないような


そういう意味で言うとセックスというのは単なる物理的快感だけというよりは存在の交換とか気持ちの交換的なところがあるのかな。まぁ部分的な機能合理性からすると甚だ「非合理」なのだろうけど。。機能合理性がゲゼル的な「狭くて部分的。分解→反省→再構築可能なモジュール的発想」であるとき、構造的合理性は「広くて全体(ゲマイン)的。すり合わせ的な合致でできてるのでユニットを細かく切れない(再構成が難しい)」ものといえる。すごくおーざっぱな対比だと、「ゲゼル」には「理性」、「ゲマイン」には「感情」的な腑分けが当てはまるか。さらにおーざっぱに、心身二元論的な腑分けだと「理性」には「思考」が、「感情」には「体」が当てはまる。それらを統合してつなぐのが「身体」といえる。



実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html



(※細かく言うと理性的思考も感情的な思考も脳を中心にデバイスされてるので両方ともオツム介してるんだけど話の流れ的に割愛)



「めし」ほかの効果、機能性というのは身体に響くもののように思う。理性と感情の中間。独我論的には言葉や論理ではどうしても突き詰め切れない他者や自己の存在に対する漠然とした安心感や肯定感のようなもの。




それらの身体的な効果はナンパなんかにおける言語以前の距離の詰め方みたいなテクニックにも似てるのだろうけど、こういうのは一定の財と権力を介した政治ゲームであり外交関係にも似てる。軍事力ほかの政治経済的資源が少ない小国が大国と渡り合うときの飛び道具的なやり方みたいなの。真正面から衝突すると負けてしまうので搦手として使われるもの。


そういった小さなところで創りだされた慣性を積み重ねることによって、既存の大きな権力に抗していく。家庭の場合は前近代的因習と空気が「大きな権力」で、「あいさつ」や「めしをくう」などといったノンバーバルな絆によって生じた慣性(情)を根拠としてそういった権力に抗していく。規律訓練のように対幻想領域におけるエートスのようなものが生まれていく。



「日常の政治学(文化政治学)」みたいなのがあるとして、コミュニケーション(外交)部分では「めし」「セクース」「デート」「会話」などといった行動を直接的なオプションとして親交を高めたりタスクをおしつけたり引き受けたりつつ力関係を形成、性や金、子供などといった「財」を駆け引きする。


カップル間のそれでは言外に男性側の身体的優位が圧力となる場面がけっこうあって、それがなんとなくの力関係の基底になってるところもある。そういう場面では直接衝突すれば間違い無く踏みつぶされるだけなので、直接衝突は迂回しつつ、外交カードをいくつか切るといい。兵站を切ったり、第三国との関係を利用して相手国を追い込むなどして戦場における直接戦闘以前に「場」の勝敗を根回ししたり。








▽言葉以前の了解の交換 → セックスも → 性愛とはどういうものかしら?



性欲の話というのは食欲の話にも似てるように個人的には思う。(男性なんかの場合は特に)人の場合、他の動物と違って性欲はふだんからざわざわしてるもので、いつエロいものをみてもそれはそれで扇情的だなぁってかんじだったんだけど、最近たまにそういうものを見ると「( ^ω^)・・・いまいらんなぁ」って感じになる。某人いわく「それはお腹いっぱいってことではないかね?('A`)y-~」、と

http://twitter.com/#!/harumachidori/status/111889586506039296


アダルトの現場で監督の熱いこだわりを見聞きするのは面白いし、エロに麻痺しやすい中で情熱失ってないことに感心したりするけど、その熱心なエロシーンを引いた目で「絵」として眺めると有り体に言ってやはりグロテスクだし、それでいいもんだと思う。美化するもんでもないし、キモい時はキモい


http://twitter.com/#!/harumachidori/status/111892721421127680


肉屋で肉の塊がだらーんとぶら下がってるような感じだろうか


エロにつながるようなわかりやすい性欲というのはそういったざわざわしたもの、食欲における肉欲と同じように「ガッツリ食べる」みたいな感覚に近いのではないか?それに対して「愛」につながるものはもうちょっとぢわっとしてるというか…



男性女性における性の非対称について - Togetter
http://togetter.com/li/191437


ヤコブソンの発話交換のような、セックスそのものには意味(快)はなくて交換することそのことに快がある、みたいなの。「セックスより自慰のほうが気持ちいい。自分でポイント分かってるし」なんていうことあるけど、たしかに物理的刺激だけだとそういうことは思う。二人でするのはめんどくさいし、ちゃんと相手に気を使う人だと気疲れ的にめんどくさい。。

ただ、自慰と違ってセックスの場合は相手に感情移入して満足を得るところがあるかなぁ。。すくなくとも自分の場合は。人が喜んでると嬉しい性質だからだろうか(あとは感受性とか想像力とかそういうのかなぁ。。

そういった体の物理的な快や想像力的な満足(快)のほかに、ぢわっとした愛情のようなものがセックスの中にあるのではないか?愛の交換のようなもの

「愛」というのはいまだによくわからないところがあるんだけど、なんらかのエネルギーであると仮定したとき、セックスというのはそれの交換なのかなぁ、とも思う。物理的体液交換 → 脳内物質発射 → 快感刺激だけではなく。


物理的快楽は遺伝子のプログラムで生物的・本能的機制といえるだろう。だから、それは妊娠という種の保存的役割を終えると萎えて行ってしまうものらしい。男性の性欲減退なんかはその辺も絡むみたいだけど、対して女性は妊娠を機に良くなったり。それは「カラダ的、生物的機制、プログラムに抗う実存的な欲求ということで高尚( ^ω^)・・・なのか?」と拙速に考えそうになるけどたぶんその辺は関係ない。単に予備的なプログラムなのかなぁ。。生物的機制としては。


そういったものとは別にノンバーバルなコミュニケーションとしての存在確認、お互いの気持ちの言語以前の交換のようなものとしてセックスがあるのかなぁ。。


端的にいうと「相手を労りたい」「もっと愛を交わしたい」という場面で相手の気持に報いることができないときになにが身体の反応を促す要因になるのか?ということを考えてるわけだけど

年齢を重ねたり体力的な問題、精神の機能失調などで男性のほうが衰えていき、女性のほうが逆に上がっていく。

あるいは、年をとっても愛する人と愛を重ねていくということ



「オレは変わらずに キミを愛していけるのか?」



そういった問への審判が体側から勝手に出されるようで、、なんとなくの焦りや不甲斐なさを感じてしまう場面が想像される。


生物的な機制(当然)や文化・社会的機制(規範-当然)に抗って自分達の実存としての満足を高めていくこと。目の前の人が歳をとったりなんらかの事故でかつての美しさを失っていても。そこに変わらぬ魅力を投影できるのだろうか…?


単なる独りよがりな欲の解消ではなく魂の交換のような形で。二人で満足をつくっていく








▽恋愛はおわるが愛情は続く



恋愛は仕事にもちょっと似ている。告白の場面は就職面接のようだし、合コンもプレゼンみたい。継続的な関係を考えた場合は「生計を共にする」ということでビジネスパートナー的な感覚も必要だろうし。

というか、恋愛や結婚ほかの継続的なパートナーシップを結ぶ場合は前近代的仕事、家内制手工業のようなものに感覚が近くなるかも。単なる「好き好き」の甘々表明としての恋愛ではなくビジネスにも似たものに


家内制手工業としての家庭は「自分達の満足」-「しあわせ」を生み出すことを目的として営まれる。


しばしばそれは「子供の養育」であったり、「パートナーと共同生活を送る中でお互いに支え合い、高めあっていく」ということであったり、「女性は家事、男は仕事」ではなく、それぞれがそのときできることを分けあって家庭を協働していく。お互いに思いやって、そのときできること、したら喜ぶだろうなということを交換していく。


家内制手工業としての家庭全体を生産関係と見た場合、セックスは子作りのための生産手段に当たるか。「手段」という語彙のニュアンスから即断すれば「生む機械」だけど、生産「手段」というか生産「方法」のひとつといったほうがいいかもしれない。家庭という対幻想領域における満足・効用の最大を目指す際の方法のひとつ。


だからセックスはどちらかというと下部構造に当たるだろうけど、愛はそういったセックスを覆う幻想(イデオロギー)であり上部構造でありソフトウェアなのだろう。そして「愛」のイメージも人それぞれ異なる。共同幻想としていくつか提示された愛の形。ロマンティック・ラブとか純愛とかもっと性的なものとかオトナのうんぬんとか。あるいは個々のセクシュアリティの違いからいくつかの愛の共同幻想がコラージュされたり。そういったものはセックスも含んだ普段の愛情交換(コミュニケーション)の際に参照されるコードであり、愛というシステムにおけるOSのようなものなのだろう。

愛に関する既存の幻想ではどうしても満足できない際立ったセクシュアリティを持った人は世間からすると「アブノーマル」とされるところにいくのだろうけど、最初からなんとなくのおしゃれ的に既存の愛や性欲の型をインストールしたものは、どんなに「特殊」ぶってても、オリジンでも実存でもないように思う。



そして、なんとなくだけどそれらの幻想の選択、実存的な自分のリアリティへの気づきというのは精神の発達練度と関係してるように思う。


社会生活を通じて、精神はみょーなコンプレックスからいくつかの既存の幻想をインストールしてそれをアイデンティファイすることでいつの間にか余計な鎧を重ね、「ほんとに自分が求めるもの=満足」から離れて行ってしまうのだろう。性的嗜好なんかもその辺が関わるように思う。既存の「アブノーマル」を重ねても自分の満足とずれていたらいつまでたってもほんとの満足にはたどり着けない。


だから、精神に張り付いた余計な鎧、自らをも騙すような理論武装を解いて行く必要があるのだろうけど、それには一度「自分」と思われるものを捨てる勇気がいるし、その勇気が必要とされる場面というのは多くの人の人生の中では訪れないままオトナになってしまう。


それらを溶かすのが愛の力か、と思うこともあるけど。。凍てついた氷塊はある程度のショック療法でないと崩せない、ということもあるかもしれない。








▽愛と精神の構造とは? - flower of life



<愛のイメージは人それぞれ違う><それは精神の練度に依る><精神は自分(エゴ)を捨てリミッターを外さないと深まっていかない>


ではそのようにして深められた「愛」にまつわる感情の機微はどのようなものがありどういった構造をしているのだろうか?


なんとなくだけど「理趣会」がそれに当たるのではないかと思った


両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅に当たるもの



両界曼荼羅 - Wikipedia
http://tinyurl.com/422c2cp



ぼんやりな理解だけど、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の2つで、前者はプラトン的イデアな世界、後者はそれに物的重石がついた世界を表しているように思える。物的重石がついてなければ胎蔵界曼荼羅のようなストレートな配置でだいたいのことに対応できるのだろうけど、物的重石や「人」の精神が関わると複雑性が増し、それに対応するようにシステムの構成をシフトしなければならないのではないか?

金剛界曼荼羅で描かれた幾つかの配列は、それぞれの系における暫定的な最適パターン、将棋の型のようなものではなかろうか。

そして、そこで配置される「仏」には「慈愛」ほか特定の意味が付与されている。


たとえばなんらかの煩悩的な場面に遭遇したとき、それらの要素を思いだして意識的に要素にそった思考経路をたどれば悩みから抜け出しやすいのでは?



理趣会はその中でも恋愛や性に関わる愛憎に最適化した型なのではないだろうか。



理趣経
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/rishunaiyou.htm


http://www9.plala.or.jp/mandara10/k-risyu.htm




意味としては未だ゙読み解けてないけど、それぞれの要素を理解し、自分なりに状況を想定した物語を編んでおけばいざというときに心強いのかも




それらを通じて人として生きているうちに相対するアンチノミー(二律背反)的ストレスに抗していく。一部の小乗であれば「そういった悩みも煩悩であるから捨ててしまえ」というところかもだけど、その悩み自体を一定の系を拓くためのストレスとして利用し精神の系を広げていく。アンチノミーを通じて弁証法的に昇華したそれぞれの系-円が交差し、蓮の華のように波紋状に拡がっていく。



そういう形で人は少しずつ生物的機制や文化・社会的機制から解かれ、主体(大人)として立てるようになっていくのだろう


そうやって成長した大人(主体)がパートナーを組めば、あるいは既存の権力(機制)に抗して自分達の自由を広げていくことできるかもしれない。言葉と身体で魂を響き合わせて










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家事と育児と高齢者介護(双方の両親)を誰かが完璧にやってくれたら、社会的に十分な働きをする既婚女性はたくさん居ると思うよ。個人の問題ではなく、仕組みの問題として考えないと、解決しない。批判するより問題解決に向けた意見の積み重ねをしないとだたの愚痴になる。


http://twitter.com/que_sera/status/77163616448692224



公には言いにくいけど、私は大きな社会より目の前の命を大事にする。両立がならないなら誰かが弱いものの側に立たなくてはならない。私は弱いものの側から目の前の命を守るのが仕事だと思ってる。


http://twitter.com/que_sera/status/83369725261914112



白衣は私にとっては戦闘服。人格変わるもん。営業スマイルと、徹底したロジックが現れるQT @marubashi: @que_sera @4n0 白衣に着替えた〜


http://twitter.com/que_sera/status/116267836825022464






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知恵と智慧 - Togetter
http://togetter.com/li/190861

※実践(プラクシス)=智慧、ということで







◆ NHKドキュメンタリー「二本の木・夫婦で癌に侵された、最後の記録」 を観て
http://blog.goo.ne.jp/fukiya-kurabu/e/ee8deb31635f20a3dfc72cb4949d2248

http://ryuma681.blog47.fc2.com/blog-entry-150.html




「明るいほうに進んでゆきなさい
                  輝く光の方に行くんだよ」












http://www.uta-net.com/song/43209/




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タグ: 精神 実存
posted by m_um_u at 06:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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