2011年09月19日

騎士と愛



聖なる天の御父

我は心ねじけたる者の邪を懲らしめ

我は無垢たる者の善を守らんがため

剣を振るうを許し給うたなれば

民草を庇い守らんがため

騎士道の掟を剣の下に定め

ここなる汝の僕をして常に善を志さしめ

檻に人を傷つくるに剣を振るうことをなからしめ

正義と法とを守らんがため

これを振るわせしめんことを



また彼の婦人を身命をとして守らん












「けっきょく男は不幸な女に弱いのよね ( `,_・・´)フンッ」って言われたことがあって、「男は」っていうか自分はそういうものかと思うわけだけど


「不幸な女」ってところに特別なこだわりなくて、単に同情というか護りたい欲のようなものが刺激されるんだと思う。動物的遺伝子だか文化遺伝子だかしらんけどまぁ仮に「守護本能」とする。


守護本能自体は悪くなくて、同情からけっこう踏み込んでしまって、そこに下心(好奇心?)だか恋心だかも混ざって、いちお契約内容みたいなのを確認しつつもわけわからんうちに関係結んでしまって、なし崩し的に責任とったほうがいいなぁ( ^ω^)みたいになる


そんで、「そんなことしてたらキミの身がもたないよ?自分の好みなんかに忠実でいいわけだし、それが人というものだよ −y( ´Д`)。oO○」、とかいわれるわけだけど


たしかにそうで、そういう関係から付き合い始めてしまうと最終的に相手に対して失礼なことになるなぁ、と。そこで覚悟決めて自分なりの道義的責任とって寄り添っていこうかと思ったりもしたけど



親愛なる人へ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/142089498.html



やはりそういうのだとダメなんだろう





反対に好きな人に対して「ともだち以上」意識や守護本能がドライブしつつ恋愛感情に結びついて上がっていってる時に、「( ^ω^)・・・そういうのと恋愛を勘違いしてはいけないよ?」、って一般論的に予防線はられたこともあるけど



まぁ、たしかに。「護る / 護られたい」欲を恋愛の理由とするのは心理的トリックのようなものがあるのだろう。だから冷静に判断すれば「護った / 護られた」ということは吊り橋効果みたいなもので、きっかけにはなっても十分条件にはならない


たとえ守護本能から好意が深まっていても、純粋に「相手を護りたい」ということであれば、相手に何かを期待しないのが邪念のない厚意なのではないか?





頭の中で聲がした




「おまえがあのときに捧げた誓いが本物であると証明して見せろ。自分の思いに溺れてふたたびあの子たちのココロを裏切らないように。踏みとどまってきちんと考えろ」


「『事なかれ主義』とか安いオトナの理屈ではなく、本当に人を護るということを考えろ。それが人の魂を救い、それを通じて自分が救われるということだ」






転んで泣いてる子がいたら助け起こして「大丈夫?」って言ったり、女の子が怖がって泣いてたら見過ごすのではなく代わりに矢面に立って壁になる。

そういうイベント的なことでなくても、日常生活の些細な場面で気持ちを裏切らずに尊敬しつつ護る、というような


ヒーローというかその子の騎士になるというだけ。それが男の子としての単純なあり方だと思う。パートナーという女王(あるいは尊敬する女性)に忠誠を誓い護る。


それをオトナな理屈につなげるのではなく、特に対価も要求せずに護り、それが完了したらマジシャンのように去るということ



献身の在り処
http://bit.ly/id8gp4



そうすることで自分の中の痛みも救われるような気がする。万人に共通することではないのだろうけど。自分が自分に救われている感じ(ヒーローは自分の中にいる)


ヒーローをみつけた日 - 傘をひらいて、空を
http://d.hatena.ne.jp/kasawo/20110118/p1




オトナの理屈とか生活の惰性の中で自分の純粋な気持ちが歪められていく、自分の内部で自分が自分に嘘をつきそれに誤魔化される、その結果として甘い果実を貪ってしまう…。それが結果的に相手を傷つけてしまう。  そういうことを恐れているのだなオレは


欲が絡んで利害関係が生じて単純な親愛が歪んでしまうこと。あるいは自分がそれをごまかしてしまうということ。



そうなるぐらいだったらなにも要求せずに厚意を捧げばいい。少しチクチクするだろうけど、空腹で死ぬわけでもないし、なにより相手を傷つけないで済む。










守護本能のようなものがくすぐられるというのは「母性本能をくすぐられる」みたいなのとも似てるかと思うんだけど、自分だけかと思ったら「ナイト力(りょく)」とかいってけっこう男性にはあるものなのか



哲雄&AKIの不純愛講座  男の「騎士(ナイト)力」を引き出すのは、どんな女?
http://fujunaikouza.blog23.fc2.com/blog-entry-724.html



「女性側がそれを引き出すにはぶりっこしないこと」みたいな軽い駆引きテクみたいなのは置いておくとして「( ^ω^)ナイトかぁ。。」とか思ってぼへーっとググる



騎士物語
http://www004.upp.so-net.ne.jp/thor/FD/knightstale.htm

http://morutan.tumblr.com/post/10382737955


婦人奉仕の精神について
http://www.moonover.jp/2goukan/parzival/ritter3.htm


Hitotsubashi University Repository Title ミンネザングの「愛」 : 中世南仏・北仏抒情詩人との対 比において Author(s) 清水, 朗 Citation 言語文化, 38: 35-48 Issue Date 2001-12-25 Type Departmental Bulletin Paper Text Version(PDF)
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/8851/1/gengo0003800350.pdf



ざらっというと、「騎士というのは各言語の『馬に乗る人』を意味する言葉、あるいは『従僕』を意味するcnihtに由来する」「傭兵との違いははっきりしない」、「婦人奉仕の精神は騎士道に由来する」、「騎士と婦人奉仕、そこから派生する恋愛ロマンスは恋愛詩(ミンネサング)として当時好まれた」、「騎士道ミンネサングのさきがけであるトルバドールの歌は当時の文学・哲学・神学において主流であった道具としての女性像を覆し、男性と対等にわたり合う女性の姿を描いた点で特筆すべきものであった」、と


付け加えれば騎士道は十字軍との関連で高まっていったものなのであり、騎士団はもともと教会直属のものであった(ex.テンプル騎士団)。だから、騎士道精神の弱者保護とはカトリックの弱者保護に由来するものと思われる。そこから派生して婦人保護→奉仕となっていったのだろうか?「南イタリアの性におおらかな気風がそのような精神を育んだ」とされるが「北フランス、ドイツへ渡っていくにつれて各地のもともとの騎士的性格と混ざり、騎士道やミンネサングの内容も変わっていった」とのこと。「イタリアでは恋愛におおらかであったミンネサングも、ドイツに渡ると『秘めた恋』のような形になっていった」


しかし騎士道の中心はまずもって「神への奉仕」→「教会の意向の代行者」→「弱者保護」というところにあり、それに付随する女性奉仕、そのための各種の研鑽をもって貴婦人たちの心をつかんでいったみたい。それまで男性の道具であった女性の周りで男性が男を競う鳥類の求婚のような世界が展開していたのか。そして、そこでは既婚女性との「許されぬ恋」のようなものも称揚されていた。


ロマンスという言葉は「ロマンス語で書かれた中世騎士道物語」を意味する。当時、高尚な言語であったギリシャ語やラテン語に対して、日常言語であるロマンス語は俗なものとされていた。なので、そこで描かれた恋愛譚はいまだったらハーレクインのような感じだったのだろうか。

そして「ロマンス」というだけで中世騎士道物語に含まれた守護と礼節、許されぬ恋へと飛躍する情熱全体を含意するようになったか。そして純愛


なのでロマンチック・ラブというとき「純愛」のほかに「1:1の関係性」の要素を含むことで混乱するわけだけど、ロマンスにしてもロマン主義にしても「純愛」をデフォにするのでわざわざ「ロマンチック」と冠するようになったのは「1:1の関係性」が先にあり、特異なロマンス的純愛が後付け的に付けられたのかなぁ。。かつてのロマン主義的情熱回帰のように







「守護本能」ということだと父性と母性の話をまたちょっと思う。


蜜蜂を弄ぶ : 父性と母性
http://liyehuku.exblog.jp/16867432/


河合隼雄さんによると父性や母性という性質は性別にバンドルされたものではなく、性別に関係なく男女ともにあるものらしい。父性の特徴は「切ること」、母性の特徴は「包むこと」とか。


とすると、この騎士道的守護欲のようなものも母性ということになるのだろうか?


同時に騎士は敵を「切る」属性があるはずだけど




よくわからないけど自分の中の2つの属性をぼんやり思う。「切る」は単に闘争本能というわけでもないのだろうな。






父性と母性、無条件の守護本能のようなことについてまた思う


無条件の守護 = 愛なのかなぁ、と


愛=無条件、無前提で与えるものなのか?




「与えたら返されるもの」「特に親しくもない誰かから一方的に厚意を贈られるのはあり得ないこと(贈る方も謹んだほうがいい)」というような共通認識があるように思うけど、そういった親子やかなり親しい友人、恋人などといった特定関係における等価交換はそんなに当然なことなのだろうか? 「子は親に、親は子に報い『なければならない』?」


おそらく「即時的等価交換であるべき」ということ、あるいは「親は子を愛を持って育てなければならない」「子は親に愛を感じなければならない」ということ自体があとづけの物語なのだろう

単なる推測だけど、親は自然状態において困窮すれば子を捨てるし、理性的に理想とされる「愛」?のような形で慈愛をもって子を抱擁する存在でもないのではないか?自然界でも本能の機構で出産まもなくは母性によるバインドが生じるみたいだけどあれは理性ではなく自動機構といってもいいだろうし。

出産からしばらくたって自分に対する生意気な存在として目の前に現れてくる「子」を庇護する義務というのは本来ならどこにもないわけだし(完全に社会が壊滅して最後の家族になった状態を想定すればない)。そこでも道義的責任感は発生するだろうけど、それは社会的規範の内面化による後付けに思う。


中世などの生産力があまり整ってない時代環境を想定すれば「子を売る」というのはふつーにあった。そこで親がどのような心理にあったか?「出来れば売りたくない」というキモチが踏みにじられ自らそれを踏襲することからの尊厳の敗北感のようなものはあっただろうけど、もっと単純な、現代と比べると情緒のない選択だったとも思える。良心の呵責をひきづらないような。

自然界において一定期間が過ぎるとまだ身体的に未成熟な個体も独り立ちさせ生計を分ける。それと同じように、人は本来「子供」な期間なんかなかったわけだし、で、あれば子供的なものへの護る義務感も希薄だったと考えられる。一部の金持ちの間で家督のために子供は作られて保護されただろうけど


しかし、「親は子を守る必要はない」「子が親に愛を感じる必要もない」 そういった殺伐とも思える関係性が本来の親子関係であると仮定すると、そこで人間存在の「わたしはなぜ生まれてきたのか?」という根源的な問いが浮いてしまうのではないか?  そしてそこに答えはない



「わたしはなぜ生まれてきたのか?」「わたしはなぜこのような困難な状況にありそれを生きているのか?」


その問いにはなんらかの希望への希求が最初から内在する。その根源的不安を落ち着かせるために設定されたのが「無前提、無条件、等価交換を期待しない絶対的愛情」としての神だったのではないか。あるいは共同体にとって弱者保護が有効であったため「弱者を守ることは自然=神の意に沿うことだ」とされていったのではないか?


そして、そこから割れるように「父」や「母」といったものが当然化されていったのではないか?(生産力の高まり→生産関係の変化→生活が豊かになり余裕ができることによって父、母、子が「愛」を交換できるようになった)




強烈なしつけをされるとき、「自分という存在は親からすると『しつけ=おきて=社会』よりも下なのではないか?いざとなると親は自分を捨てるのではないか?」という不安が立ち上がってくる


[書評]タエ子ちゃんといっしょ おもひでぽろぽろ読本(岡本螢): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/02/post-243d.html



その問いが家族関係の偽善への疑い、無条件の愛のようなものへの疑念が心の傷となって成人しても残る。そして、そういった偽善(オトナ)への嗅覚をいずれ忘れて自分達もオトナ(偽善)になってしまう。踏み絵のように甘い果実を貪って



人は自然状態で放っておけば殺伐と子供を放逐してしまう。だからこそ家族の囲いと家族愛の物語が必要で、資源の乏しい一定の時代ではそうやって寄り添って生きて行くことが最優先だったのだろうけど、資源が増え、自由選択の機会が増えれば家族という物語の幻想も溶けてしまうのだろう。


だから、家族関係がこじれていたら自らの意志で家族関係を再契約することもアリではないかと個人的には思うけど、「この条件が飲めなければ縁を切る」というのは多くの人にとって直面したくない修羅場なのだろうな。(そういうのを嫌がって何年も親に会わず実質的な縁切りになってるひとはたくさんいるだろうけど


しかし「家族」が無条件に尊いものでないとき、自ら選択していない家族にそれほどの意義や根拠としての強さがあるのだろうか?



それに比べれば特に社会的契約書類に表れていない心の家族のような人達のほうがよほど尊いように自分としては思うけど


「そういった人達はほんとにキツイ場面では逃げてくだけだよ」ということなのだろうか?(自分も含めて、そういう場面では逃げてしまうのだろうか?



愛情はモノではなくエネルギーのようなもので、理想的には固定的関係性にしばられずにネットワークを流れていくものではないかと思う。特に家族や恋人といった特定の関係性にしばられずに。


それが一定の関係のもとに縛られざるをえない、愛のフェティシズムとその結果としての嫉妬を呼ぶのは、そこにその関係以外に代替する愛の回路がないからか。


でも、自分としては自分が受けた慈愛(キセキ)を愛が足りない人に分けるのはアリなんじゃないかと思う。それは贈与交換的なもので、即物的・即時的な等価交換は期待されない



そうやって足らないところをなんとなくケアしてけば、凸凹をちょっとずつ出来る範囲で埋めていければ…





ズラズラと「シビアを見つめるリアリストでござい」みたいな感じで推測を重ねてきたけど、そういう形でなかば地獄絵のような露悪を好むのは、自分が「それでもなお無条件の愛が少なくとも親子の間にはあるはずだ」と信じたい気持ちがあるからか。その気持ちを裏切られて絶望するよりは、最初から「そういうものだ」と思っておいたほうがいいから防衛的に物語を作っているところもあるのかも。

だから、「不安な心を安定させるために神(大いなる愛)が造られ、それを模倣するように家族愛ができていった」、と、「家族や近親の愛が自然にあり、その究極系として大いなる愛-神が設定されていった」とする可能性が半々ぐらいに思ってたりもする。




このあたりはなんとなくの思考実験なだけだから保留するとして






とりあえず眼の前の人の騎士になろう







knhight.jpg



http://morutan.tumblr.com/post/10385579945








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The Lady of Shallot 〜 ピアノレッスン  (七夕と供犠と女の「自由」の話): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/214043580.html


こころ
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425397494


タグ: 家族
posted by m_um_u at 21:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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