2011年09月17日

こころ



この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしょに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ


そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ




(一九二二、五、二一 「小岩井牧場」 『宮沢賢治全集 T』ちくま文庫1992年版より)













「異性への要求水準を下げる」よりも大切なこと - シロクマの屑籠
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110914/p1



「社会通念的な幻想に迷わされて無意識に設定していた要求水準を下げるのではなく、要求水準を多様化したらいい」みたいな話


ちょっと前だと「3高」とかいってたアレとかか。理想とする相手や恋愛関係を「金、ルックス、身長、性格、性的魅力、、etc」なんかに分けて、それらをバンドリングして「そこからまからん」とするもの


そういうことではなくてもっと多様な要素にわけて、自分の満足のために要素のプライオリティを編成しなおしては?みたいなの




結婚を含めた長い付き合いでよくある「一定期間が過ぎたら覚めてしまう」ということ。あるいは一定の距離が置かれると覚めていくというのは「スペック中心で見てたから」というのはあるかなぁと思いつつ、スペックはスペックでぢみに重要だったりもするなぁ。。


まぁベタに言うと「やっぱ性格ですよね」も「やっぱ好みのタイプじゃないと」みたいなのも両方含めてバランスよければいいねって話で


んでも、実際問題としてはその前提として人との出会いというのは完全に自由な環境の中で選ばれるものではないので、理想というのは指標に過ぎないということになる。アイドルにいつまでも憧れててもなぁ、みたいなの。



そこで「配られたカードで勝負するしかないのさ」ということになり、そこでの関係性の構築を通して恋愛関係を創り上げていく(むしろこうやって創り上げられたものこそ真実)というところかと思うけど



だからといってあまりにも合わない相手と無理して関係作ってくってのもなぁ( ^ω^)・・・ってことだし、理想スペックフルセットでなければ「自分が最低限欲しいもの」を持っている相手はいる。出会えるかどうかは確率の問題はあるだろうけど



最終的にそこで求められるのは「なんとなく相手がいると自分はいい感じに生活ができる」「こいつじゃないとダメなんだ」的なものだろう。それは関係を通して培われるというのもあるけど、そもそもそのもととなるリズムの協和のようなものもあったり。。


それをプライオリティの上位としつつ、加えて配牌されたスペックの自由編成を自分達なりに行うのが落としどころだと自分的には思うけど






「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/224412034.html



では長く付き合っていく際に必要な根拠のようなものとはなんだろうか?








▽「好き」という感情は幻想 → 長い付き合いにおいて「好き」以上に必要なものとは?




人の意志や、その元となる判断、理性-ロジックは思ったよりも感情によって影響を受ける。感情もそうだけど、理性の外部要因となる部分に理性的思考過程がメタで規定される。思考過程内部でのロジックの組み立ては合理的でも、そもそもその議題に強い関心を惹かれたこと、あるいはいくつかの思考の型のポートフォリオの中からそれを選択したことは一定の恣意性に基づくのではないか? 「あれ?オレ、こないだこういったこと(物語)に出くわしたときにこんなこと思ったっけ?こんなに興味を持ったっけ?」的に


どんなに理性的に振舞っていても性欲や好奇心はもたげるし、そのときの環境に影響されて喜怒哀楽も変わり、それによって思考のリズムも変わる。理知的と自認したり、そうありたいと思う人は性欲や喜怒哀楽的な理性以外の外部要因によって自らが「理性的に」選択した規範やポリシー、そのときの思考が影響を受けてしまうのを嫌う。


その規範が「○○べき」ものとなったとき、個々人に固有のセクシャリティについて、ともすれば罪悪感のようなものを抱えることもあるかもしれない




森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html



健全な性欲 - 雨宮まみの「弟よ!」
http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20110907





感情はそのときの状況に依存する。そのとき置かれている人間関係的なゴタゴタ、騒音や湿度ほかの不快感、楽しいことがあった時のワクワク感、肉体のバイオリズム、音楽や絵や物語なんかの影響 etc...


恋愛も含めたあらゆる感情は行動心理学的な機構で、一定の条件がinputされれば脳内物質が流れでて特定感情がoutputされるということなのではないか?

シャノン=ウィーバーの通信機モデルのように

http://awareness.secret.jp/sub06/sub0600.html




で、あれば、すべからく恋愛的なもの、あるいは感情的なものは吊り橋効果的な心理的まやかしではないかと思う


特定の人物が好きだというキモチ、あるいは、その逆にキライだというキモチも




だから、関係として「ずっと続いていくもの」を模索するのであれば単なる「好き」とか「気に入ってる」、それらを彩る甘い言葉ではなくもうちょっとじっくりとした意志に関わるような要素が必要になる。「好き」とか「気に入ってる」だけだと自分の欲求(オフェンス)を中心にしているので、相手との関係において自分の不利益になるようなことが生じた場合、自分のエゴを優先するように相手との恋愛ゲームを操作する/されるようになる。対して「ほんとに好き」なのであればまずもって相手の満足を優先すべきであり好意だけではなく具体的な厚意を重ねようとするだろう。

まず嫌な部分・場面を想定して、「それでも相手と付き合っていけるかどうか?」、と問うのがディフェンス重視でいいかと思う。そこで重視されるのが前提としての「なんか合う」とかだろうけど。この部分は人それぞれのプライオリティがあるか


そうやって選択したら厚意の献身を互いに細かくポトラッチすることによって単なる「好き」以上の対幻想を共に育てていく。




「嫌な場面を想定して、それでも相手と付き合っていけるかどうか?」「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすこと」


後者は婚姻の社会的契約の際に半ば謳わされる言葉だけど、じっくりと考える際にもある程度有効なのかも。


ただ、それは戦略的な場面で相手との長い付き合いを考える際に行うべき思考であり、戦術的場面で固定的に運用されるべきものではない。戦況が変わったと思えばどんどん撤退したほうがいいわけだし、戦力配分も変えるべきだし。



そういったことを踏まえつつも個人的にはわりと問題のない選択が済んだ後には、献身的な愛の形を理想とするけど。


自分を押し殺して相手に尽くすこと、たとえ相手に気づかれなくて自分のキモチが報われなくても、相手の満足が向上するように努めること。


そういった形でお互いが自然に相手のことを思いやって、お互いの深い愛、思いやりにあるとき気づくようなこと


それが愛の形ではないかと思う


しかし、それは単に自己犠牲することなのだろうか?







▽愛とは一方的な献身だろうか?その是非は?



デュ・ゲクランに恋人と友人の二人から捧げられた父性や母性のような愛のように



佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html



あるいは病床のDV夫の黒太子エドワードに捧げられたジョーン・オブ・ケントの献身のように


「おまえがこの先なにをしても自分だけは味方でいる。世間がなんと言おうが自分だけは見捨てない」というような好意の持ち方


それは「子に注がれる無条件の愛」として父性や母性に期待されるものに似ている。







『うさぎドロップ』 宇仁田ゆみ著 もっとも純粋で安定した愛の形とはどんなものですか? - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110903/p3



「家庭環境に恵まれなかった人は恋愛、というよりもその先の『家庭』を目標とする。しかしそこへの自己分析と欲求表現が不器用なものになっている。愛を乞う人は愛の乞い方も、そもそも自分がどういったものを求めているのかもわからなくなる。「愛とはどういうものかしら? そういった低い自己評価やコンプレックスを父性がやさしく包み導く。それはいつか恋愛的なものに転換して行って…」


父性がどのようにして恋愛的なものに転換したか?その契機についてはこのエントリでは語られてないのだけれど。こういう形で父の役割を担うというのは「自分が本当に欲しかった役割をロールプレイ的に演じ直すことで再構築し自分自身を再生していく」というような心理機構があるのではないか?親が子供を育てつつなにかを教えられていくように


そういう形で失われた凸凹を互いに補い、「家族」を作っていく。


だからこの作品では最初の段階では年齢的、関係性的に「父と子」であったけど、その過程で女の子の方に母性的意識が生まれていったのではないか、と。母性や父性という固定的なものというか・・その構成要素としてのアニマやアニムスほかの元型が回転しつつ精神と性の発達を促していったのでは?



アニマ - Wikipedia
http://bit.ly/mQYFZ9

元型 - Wikipedia
http://bit.ly/nJl0na



そこでの関係は近親相姦の閉鎖性や一方的な暴力性ではなく、社会性に開かれたあり方だったのだろう。年齢=経験=知性ということで知識の面では子供と大人だった関係が、厚意の交換、それによる精神の結びつきの面では個人と個人の関係のように成長していった。


年齢差がなくても男女の関係性において一方が結果的に母や父の役割を担っているというようなこともある。男性の精神が幼いため父親不在のようなことがしばしばある。そういう場面で女性がパートーナーと子供の母親役を担わされてきたのだろう




「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html




見かけや常識にとらわれず「精神」面だけいえば子供と大人の付き合い、子供×子供な付き合いなんてザラにある。



そして、片方により荷重がかかり依存してしまう、というようなことも






そこではしばしば「無条件の愛」が前提とされる。あるいは、生活を共にすることで「相手はこれをして当然」と慣れてしまう。






▽汎愛や父性や母性であればよいのか?なにが理想とされる「愛の形」なのか?




母性や父性の絶対的赦しと包容のような志向性、それはかつてキリスト教の神に期待された汎愛のようなものだろうか。絶対的な善性のよすがとして、還るべき場所としてつくられた超自我のようなの内部にあるもの。壁の中の卵のような。おそらくは共同体の生産関係の合理性から生み出された掟の集合化したイメージとしての「父=神」




「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html



目の前の辛く苦しい現実に対する希望としてつくられた「神はいずれわれわれをこの困窮から救ってくださる」「神は我々を分け隔てなく愛してくださる」という大きな物語


それを「父」なる規範とすることで、かくあるべき父性や母性、あるいは家族の形が設定されていった




「セックスは元来卑しいもので、子をつくるためにのみ許される。それ以外のセックスのあり方はキリスト教としては認められない」という考え方もまずもって農業のような前近代的生産様式にとってもっとも重要とされる人口を増やすための規範であったのだろうし、そこでは「愛着」もそのためのソフトウェアとして利用されたのだろう。



ロマンチック・ラブ
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/031009roman.html


ロバート・マートンは、北アメリカにおけるロマンチック・ラブが、人間の社会における恋愛様式の中で必ずしも一般的なものではないことを強調して次のように言う。

「どの社会も「激しい情緒的愛着」を認めているが、現代アメリカ社会は、ロマンチックな愛着を基本として、少なくとも一般の人々の考えでは、これをもって婚姻の相手を選択する基礎としている数少ない社会の一つである。この特徴のある選択の型式は、両親またはもっと広汎な親族集団による配偶者の選定を最低限ならしめるか、または排除するものである」(マートン 1961:52)[邦訳『社会理論と社会構造』みすず書房]。

北アメリカ社会では、婚姻選択のみならず婚姻の継続においても、相手とのロマンチックな愛着を維持しようとするために、愛着が無くなったと当事者たちが自覚する時、彼らは容易にカップルを解消する傾向がある。他方、結婚生活が破綻しても、ロマンチックな愛着を求める執着は、離婚後の再婚率の高さにも反映される。つまり、彼らは離婚しても、結婚生活全般への失望を抱かず、結婚相手との愛情が無くなったと感じ、次の婚姻相手を求めるようになる。このことが、北アメリカにおける(他の先進国に対して)高い離婚率と再婚率の説明を可能にする。





特に資源の乏しい社会では人々の自由な選択以前に共同体のパフォーマンスを上げることが重視され、婚姻形態やそのためのソフトウェア(幻想)としての「愛のあり方」のような通念も共同体維持のために変化する。



近代的な自由恋愛の前提からすると前近代の許嫁的なやりとりは女性や男性の自由を奪うものと考えられがちだが、人は案外そういった環境でも満足を得られたり(cf.「乙嫁語り」)



最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html





共同体の人々を効率良く番わせるために集合化した規範がその時代ごとの「愛着」の通念で、番わせた後、子を成して後は「父性」や「母性」のような幻想によって子供の健やかな成長を促す。あるいは、子供を十分にケアできないような環境、子供の衛生・健康を気にするより新たに子を成したほうが効率的な環境では「父性」や「母性」はより都合よく通念化されるか。



だから「愛の形」というのはその時代環境に沿った通念で、ほんとに個人の志向を問えばその時代環境、状況によって変わるのだろう。あるいは自分や相手の精神や性の回路の発達具合によって適した愛の形が変わる(cf.「元型」と「アニマ、アニムス」)


セックスのための雰囲気作りのために共有されるソフトウェア、ステロタイプが「愛着」であるとするなら、そのテンプレートとしてのロマンチック・ラブにおける「純愛」も、それとは形式的には対照で社会通念的には非道徳的とされる「不倫」も、原始共同体的なものにありがちな「フリーセックス」も、SMみたいないわゆる「倒錯的」恋愛関係も等しく変態といえる。

正常位と呼ばれる体面性交が自然界においては特異なのと同じぐらいに、汎愛的な宗教的情操からすれば人の恋愛の形は裸のサルっぽく等しく変態的だろう。それが共同幻想としての恋愛イデオロギー


対して、おそらく個々人の精神や身体の回路・発達と密接に関連した性の指向性がある。いわゆるセクシャリティというやつ


対幻想としての恋愛関係は元来この部分、個々人に固有のセクシャリティのもっとも満足されるあり方、あるいは直接的な性的志向以前の精神の凸凹の相性のようなもの、そこから生み出される「なんかよくわからないけどぴったりと落ち着く」「昔から知っているような気がする」「ここが居場所のような気がする」というような満足感を模索するものだろう。



ただ、その器の形はわかりにくいので、器を構成していく感覚や感情のより実感的な根拠として、身体的実践としての性的交換が模索される。 あるいは、性的交換の実感を満足感を根拠とすることで器の本質的な違いをごまかす。





「ここが居場所のような気がする」という思いもおそらくはまやかしでありそのときどきの心理作用の結果なのだろうが、少なくともそのとき自分は心の満足を感じているということは紛れもない事実だと言える


お腹がすけばパンを食べ、パンを食べれば満足するというほどに事実


体が肉やパン、ぶどう酒などといった栄養を求め、傷ついたときにはリペアが必要なように、心にも心の栄養がいるし傷ついたときにはリペアがいる。


セックスもそういった栄養のひとつといえるだろう。あるいは身体を通じた協働であり、言葉では語り得ぬものの確認や交換のようなもの







▽人は完全な分節化にもとづいた選択合理性を発揮できるのだろうか?



「人はより恣意性や感情を排したシステムに近づいていけるのだろうか」とぼんやり: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/225799105.html





心や体が傷ついたときには修理のほか交換できないものか?


人の心はもう少し感情やバイオリズムからアンバンドルして冷静に合理的選択ができないものか?



好みにまつわるスペックにしてもそうだけど





事実婚とロマンチックラブイデオロギー - 腐フェミニスト記-801 Feminist Diary-
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20090424/1240534331



<全てが前代に構築された物語であり、本当に理性的に自分達の『自由』を志向するのであれば「恋愛、性、家族」といった要素をバンドリングすべきではない。同様に、それよりもっと細かい要素を自分達の価値やそのときの生活の満足にあわせて再構築していけるはずだ>


理性的にはそれが「自由」として理想とされるのだろうけど、人はそんなにシステマティックに意思決定できない


だからロマンティック・ラブに付随する純愛幻想なんかもそれは個々人の満足の一つとして選択され、実際にそれで満足して生活しているところもある。


問題はそれが個々人のセクシャリティや精神-性-恋愛的対他関係に基づいた志向性を「こうあるべき」と抑えつける場合


一方が純愛とロマンティック・ラブを志向して満足していても、他方はそれを窮屈に思う場合もある。



セクシャリティにしても同様だけど、「こうあるべき」ではなく自分の満足に向きあって、それと相手の妥協点を探ってより効用の高い形を共同して創り上げていくべきなのだろう。



個々人で恋愛の形を自由編成しづらいのならばとりあえず既存の型を借りればいい。ロマンティック・ラブでもなんでもいいけど、そういったセットパックをとりあえず試してみて、あわなければ合うように二人で話しあって少しずつ自分達に合う形を模索していく。


その模索の過程自体が恋愛関係といえるわけだし




ただ、そういった過程というのはしばしば対幻想領域の権力関係によって規定され、第三者的に見て正しいと思われる意見も「( ゚Д゚)<氏ね!屁理屈」みたいな感じで暴力的に封じられたり

好意の力関係(惚れた弱み)、金銭的力関係、あるいは物理的暴力を背景にした圧力などで対幻想における権力関係は規定されてしまいがちになる。




それらはきちんと立ち止まって分節化し再編成できるのだろうか?




そういった交渉がうまくいかないとき、ともすれば二人の関係性を裏切るような決定的な事件が生じる。



「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/224412034.html



浮気や物理的暴力など


それらがあまりにも一方的に不利益をもたらしているとき、法制度的な仲裁が準備されるのだろう。



ただ、それも「浮気(・A・)イクナイ!!」的な社会規範に則った理由で(・A・)イクナイ!!のではなく、ほんとのところをいえばそれが相手に対する裏切りであるから(・A・)イクナイ!!ということ。


浮気がなぜカップルの問題として悪いのかというと「なんだかよくわかんないけど、それが相手に知れると精神的苦痛になるのをわかっていてする暴力行為」だから


大部分の人は(・A・)イクナイ!! のあとは思考停止になって「なんか怒られる(ゴタゴタ修羅場になってめんどい」を本心では理由にするだろうけど、それはただ「面倒だから」って理由だけでほんとに相手の気持ちをわかってない(あるいは理解しようとしていない)



もし、相手のことが自分の身体と同様、あるいはそれ以上に大事な存在だったら、「相手以外の異性と性交渉以上の関係を結んだことが知れた場合、理由はなんにせよその人は精神的苦痛や心動揺を御しきれないだろう」、ということがリアルに想像できたとしたら、社会的に(・A・)イクナイ!! 以前に自分の問題として「できないしあり得ない」ことになるのかもしれない


「相手が嫌がること、苦痛を受けることを『分かっていて』やる」場合、相手が防いだりなんらかの手段で心理的に回避することができないのが分かっていて実行するのであれば、それは非対称的力の行使としてフェアではないし紛れもない暴力だから



反対に、完全なフリーセックスの考えで「相手が特定パートナー以外と結んでも(本心から)構わないし動揺しない」という人であれば「相手の気持ちを想像できない」ということで情状酌量の余地はある。


また、「(できれば嫌だけど)浮気してもいいけどわたしには知れないようにしてね?」というのも、浮気的なものを生理現象として理性的には片付け自分の心身にダメージを受けないための妥協策といえる。



そういった文脈で言えば、「オレは浮気してもいいけど妻のは不倫だから論外」とかいうこと自体が論外だけど…







繰り返しになるけどけっきょくはそこでパートナーとの「なんかよくわからないけどぴったりと落ち着く」という感覚が思い出されるかどうかなのではないだろうか


浮気をする方にしてもされた方にしても関係の修復が可能なのだとしたら、それが「その人じゃなきゃダメ」という満足感が根拠になるのだろうから。





そこが確認されたら続けられるのかもしれない

























--

親愛なる人へ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/142089498.html



「かえるのこはかえる」 / 「おやこのかえるだよ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52701763.html






タグ:恋愛 倫理
posted by m_um_u at 19:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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