2011年09月11日

モード・アングレ(長弓戦術)としての「女子力」の運用、その出自と変遷   〜安野モヨコ上級士官の場合

komokoさんが女子力関連でなんかかいてはるなぁ、とか


No Border : これから求められるのはこんな女子!
http://blog.livedoor.jp/noborder12/archives/5808218.html

第6回お題:「女子力」
http://blog.livedoor.jp/noborder12/archives/cat_189357.html


うぅぅんのひとがついったでなんかゆってたなぁ、ということで




「女子力」とはなにか?(仮(雑) - Togetter
http://togetter.com/li/186665





上記でも雑駁にまとめたとおり、「女子力」という言葉は安野モヨコの「美人画報」初出らしい



美人画報 (講談社文庫)
安野 モヨコ
講談社
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女子力とは - はてなキーワード
http://t.co/ueoc2Cx


概要が意外だった


女性の、メイク、ファッション、センスに対するモチベーション、レベルなどを指す言葉。

主にJJ、cancamなどを購読する層がよく使う。【要出典】

2005年-2011年までの雑誌・書籍に於ける「女子力」の掲載状況を独自に調査した結果*1からはJJ、Can-camより購読想定年齢層が上とされるWithやMOREなどに掲載されているように見受けられるが、Scawaii やminaなど、若年層をターゲットとした雑誌や「日経WOMAN」などにも取り上げられるなど、明確な年齢層があるように見えてそうでもないようにも思われる。

amazon.co.jpで検索可能な範囲で調査の結果からはJJ、cancamでは2006-2011年の間「女子力」に関する記事を表紙および書誌データ上で確認する事は出来なかった。

Anecan2011年6月号で「女子力って何だ」という特集が組まれたのみである。




安野モヨコの初出定義から各雑誌に伝播していく流れの中で意味が変化していってると思ってたけど


とりあえず蓋然的な意味としては「女の子が(男に)甘えるために身につけておくべき作法および服装ほかの形式」ということになると思う。もともとの意味としては「女」になることに対するモラトリアム的な感じだったようなのでそこからするとズレがあるか


で、現時点ではcancamやananなんかを購読しているゆるふわ女子が普段にしている外装および行動様式全般まで広い意味では含むものになってるような(あくまでイメージとしては)。そこでは「甘えるため」もしくは「男を釣るため(モテるため)」みたいなのに強調が入ってるように思う


それに対して安野モヨコの最初の「女子力」の使用では既存の型にはまった女性の生き方、セックス、恋愛→結婚→育児まで含めた因習ともいえるステレオタイプに対するオルタナでありモラトリアムというところに強調があったような。。まぁ、美人画報自体は「女子」的服装や化粧への執着を半ば自虐的にパロっていた作品だったように思うので、その部分での自虐が「女」に「子」をつける流れになったのかなぁと思うんだけど。少なくともあの作品の中の「女子」には少し自嘲のようなものがあったように思う。それと同時に「女子」であることの権利のようなものの主張が




安野モヨコと吉澤夏子 - 続・自我闘病日記
http://d.hatena.ne.jp/miyata1/20080822/1221007490

漫画家安野モヨコは「女子力」評論家として名高いらしい。書籍のゴミ箱「ブック・オフ」に積まれていた彼女の『美人画報 ハイパー』(2001年)で知った。ちなみに、安野を一応、復習すると、現在好んで使われる「女子」「男子」は彼女の言語センスより生まれた。(参考資料:『アエラ』02/06/02号)

もとをたどれば、「男子」「女子」は学校でしか使われていなかった言葉。それを校外に持ち出してみたら見事に成功したのが安野である。見た目は男や女であっても、建前上、個人として教育するのが学校であり、その教育方針を示すのが、そして個人として扱われているという(疑心暗鬼でも)気持ちを表現するのが、社会では使われない「男子」「女子」であった。(スポーツ界でも使われているが、使用方法はほぼ同じと私は見る。)

そういう意味があるものだから、社会で使われている「男」「女」、「男性」「女性」というセットが持ち込む、さまざまなニュアンスを回避できる。「女性」と言えば、なにか「女性」を意識しているようで、その意識している「女性」は片意地張っているようなイメージを与えるかも。もしかして、その「男性」を性の対象として意識しているというメッセージが伝わっている可能性も。「女」と言えば、男女平等が達成されてないのにそうであるかのように装っている違和感がせりだすような気も。なにやかやと悩みがつきないところに、ピタッ、とはまる言葉があった、というようなことだと思う。



「女子」を使う理由はそれだけではない。実はもうひとつ「利点」がある。「女子」と呼ばれていた小・中・高校時代は、(建前上)個人として尊重されていたので、洋服も好きなのを比較的自由に着られていた。でも、社会でひらひらフリルは、どちらかと言えば、社会人としての自覚に「欠ける」。ところが、「女子」で個人主義を強調すれば、ひらひらフリルも可能となる。男女という見た目が違うなら見る目も違うし、そうだったら、私は私で好きな洋服を着たい、「女子」のままでいることを認めて、という気持ちがあるのだろう、と私は推測する。



「男子」「女子」という言葉は、多くを語らせるほどの可能性を今のところ保持している。その発信者、安野モヨコ兼「女子力」評論家に戻ると、「女子力」とは、男子にいかに気に入られるか、サポートしてもらえるかを基準として自己演出できる力を意味するそうだ。その「女子力」獲得のためには、外(=見かけ)も内(=心)も「キレイになりたい」と彼女は力説する。さらに続けて「他人のキレイを許せない限りは、ブスのままである」、とまで言っている。スゴイことになっているが、「私は美人になりたい」という個人の意志は当然尊重されるべきもの、という理路ができあがっているのが分かる。そして「美は個人的なもの」を学術にまで押し上げたのが、日本女子大学教員のフェミニスト吉澤夏子(京都大学教員大澤真幸の妻)である。フェミニズムは「個人的なものは政治的である」をモットーにしているが、美は個人的なものとして留めておいた方がよい、と主張し、就職まで得た女である。ついでに言っておけば、この主張のためだけにある(と私は思っている)『フェミニズムの困難』(1993年)は、おおいに「オヤジ」ウケし、フェミニズム本を取り上げるのにいささか乗り気でない新聞からも好意的に迎えられた。私の周りの女性研究者たちは、おおいに憤慨していた。




いわば既存の価値の型にとらわれないためのネタであり半ば洒落として「女子」という言葉を使い始めたはずなのに、それが一部でベタになり「女子がうつくしくあるためにはサポートしてくれて当然」のところが前景化してしまったので、それに対して「女子力って( ^ω^)・・・」とか「30歳(40歳)女子って( ^ω^)・・・」ってアレゲ感がでてるのかなぁ、と


そこでは「女子のファッションは男の気を引くためのものではなく、ファッションそれ自体を楽しむことを自己目的化すること」を防御柵として展開しつつ、不用意に突っ込んできた騎馬(男)のハートを柵の内側や丘の上から長弓で狙い撃ちする。その部分の二枚舌ぶりがともすれば「ズルイ」印象を与えるのだろう。イングランドのモードアングレ(長弓戦術)に対して猪突猛進するフランス軍の謂のようだが


佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html






そういった「女子力」だが、本来は既存の型からの自由(オルタナ)を目指した防御柵や回避行動であったはずなのに、いつの間にか「モテ」や「恋愛しなきゃいけない。。」「きれいにならなければいけない。。」という攻撃のための型に注目があつまり「女子力」という言葉自体がともすれば不自由を強制する枷となって舞い戻ってきている(バックラッシュ)、ということ



それはこちらでも少し触れたわけだけど


最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html




「きれいじゃなければきれいなセックスはできないんだ」「かわいくなきゃ人前でわらっちゃいけないんだ」的な圧迫


健全な性欲 - 雨宮まみの「弟よ!」
http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20110907



安野モヨコの師匠ともいえる岡崎京子の作品の主人公たちは、それを相対化するように、性のにおいのしない無臭の身体を身につけ、ときに自らに刻印された女性性を嘔吐していった


自らの肉体を悪魔に捧げることで頂点まで登り詰め、登り切った階段を滑り落ちていくこと、それさえ絵になるキュートでポップな女の子たち





「Helter Skelter」(対訳)
http://beatlesbeatles.blog39.fc2.com/blog-entry-152.html



そういった「女の子」たちが半ば自覚的に「にく」の臭いを排除し、お人形さんのような無機質さをまとっていったのに対して、安野モヨコの描く女性像はズルさとえぐさをともなった性の臭いのするものだった。若い女性特有の傲慢なエゴと自信、愚かさも伴った歪な身体





そして、歪な身体もまとえなかった「女子」は周囲の「女子力」の圧力に対するコンプレックスから潰れて行きそうになっていた




最終的にはそのコンプレックス(脂肪)そのものを「ワタシ」として立ち上がっていき



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「仕事」を通じてエゴを陶冶することで人として成長していった




そして、自分たちの足りないものを埋め合うように結婚に至った


「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html





一連の流れを振り返れば、すくなくとも一部で思われてるような甘えを含んだ「女子」の概念に依存し、あるいは振り回されてしまうところから対極に安野モヨコはいるように思う



なので「女子力」って言葉に振り回されるよりは安野モヨコの生き方を見たほうがいいと思うけど、「産み落とした『女子力』の面倒は最後まで見ろ」って窯爺的なこというならそれもアリかも( ^ω^)






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「女性は結婚し育児に務めるべきだ」というところから女性の生き方の自由、実存を縛るような考えと、少女漫画におけるその表れ、そこからの逃走としての「女の子」をめぐる表現の展開、「腐女子的なものへの着地」、「こんどは腐女子的な形式そのものが不自由な型になっていってる傾向がある」というような話はこちらに載っていておもしろいんだけど

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり
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今回は割愛





タグ:女性
posted by m_um_u at 20:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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