2011年09月05日

「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話


最近、姉が浮気されて離婚するとかいうのでぼんやりと「結婚とかパートナーシップにおける根拠」のようなものについて考えてる




「男はけっきょく『飲む、打つ、買う』っていうでしょ?あそこから抜けられないのよ」と母は言って、自分としてはそういうのとも違う人も知っているので「そうでもないよ」って答えた



「大部分の男はそういうところはあるかもだけどそれは子どもっぽいからで、そういうものよりもなにか大きな、単純な目標持ってる人というのはそんなところでは躓かないよ」と言いつつ



それは自分が尊敬してる人たちに重ねた「こうありたい」という姿なのだろうけど




そういうのは理性的規範といえる









「キスとか体に触るのはいいけど挿れるのはダメなの。おくさんに悪いから」というのは西荻夫婦だったか








このマンガだけでもなくちょこちょこ聞くような話だけど




実際にそういった状況になったときそこで引き返せるのは至難の業で。それができるのは「これはダメ」って倫理的なものではなく、なんとなくチラッとパートナーの姿が思い浮かぶからか



「据え膳食わぬは男の恥」ってことでもないけど、目の前に肉の欲求が触ってきていて、「そのままなし崩し的に」というところで留まれるのは意志の力や理性的なそれではないのではなのだろうか、とふと思う



実際に自分がそういう状況で断れるかどうか自信はないし、そういう勢いとか欲求の志向というのは酒の酔いのようなものとも似てるのだろう






「パートナーの姿が浮かんでくるから」ということで断れるのは倫理以前に萎えるからではないだろうか



体のほうは反応してるかもしれないけどそれをやっても虚しいなぁ、って感じになるというか



自慰から遠のくときの感覚に似てるか






自慰行為というのは性欲と結び付けられて納得されるけどけっこうな場面で「さびしさ」というか「手持ち無沙汰」的空虚のようなところから来る志向のように思う



しばらく人との談笑から遠のいていたり、たのしいことから遠のいているときのちょっとした埋め合わせのような





翻って、セックスに至る理由というのもしばしばそういうものだったり(特に女の子の場合)





別にセックスしたいというわけではなくて「やさしくしてもらい」たかったり、なんとなく心が通じる相手が欲しいだけで、その結果としてセックスがあるだけ、みたいなの

だから女の子のほうのセックスの理由は男の子のほうのやさしさへの報酬みたいな所があったり(話とかにつき合ってくれてありがとう的な




以前に誰かが「わたしはヤレそうな女の子わかるよ」と言っていたのもそういうことなのかなぁ。「自分と同じようなさびしそうな顔の子を探せばいい」、ということだったのだろう








そういうとき「セックス」というのは結果的なものであり、目的ということではないのだろうけどそこでしばしば非対称が起きる


男のほうがどうしてもセックスの刺激の肉体的快感のほうを目的にしてしまう、ということ


あるいは、それ以前になんかざわざわする流れみたいなのの埋め合わせとしてそれを目的とする




それはまぁ「性」という本能的なものにプログラミングされたものだから仕方ないのかなぁとは思うけど、女からするとしばしば「シンジラレナイ」ってなるのはこの辺なのかなぁ




「シンジラレナイ」理由は目の前の自分ではなく欲求がメインであって、相手は自分じゃなくてもいいのではないか?と思ってしまうから。自分とのセックスもそういうものだったのかなぁ、って




でも、それだったら女が「寂しい」って理由で「誰か」を求めるとき、それは目の前の人でなくてもいいかもとも言えるわけだからお互い様とも言えるだろうけど





まぁ一概に「女はセックスに対して非消極的で男は積極的(「やれればいい」的になにも考えず猪突猛進)」とも言えないか


そういった欲求のはけ口的な代償行為的理由とは別に、排卵前後なんかは女のほうで性欲がもたげてたりするし、冒頭で示したように男のほうが「なんか悪い…」って据え膳くわないこともあるだろうから





ナンパ師とか毒婦みたいなのはその辺の「一概に言えない」びみょーなところのロジカルエラーみたいなのにつけ込むのだろう


言葉で「しない理由」を少しずつ壊していきつつ、肉体的には接触の度合いを少しずつ高めつつ


正面から否定せずに、相手の信じるものを述べさせそれに対していくつか例外を出して談笑のうちに相手自身に信じるものを懐疑させる。ソクラテスのエレンコス的なやり方

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html



そうやって「なんかよくわかんない」ってぼけーっとなったところで目の前に体の温度があるわけだからそちらに「もうちょっと」「ここまで来たら同じ」って誘導していく





言葉とか理性というのはそれだけに依存していたらそういう形で揺るがされる






逆に、「結婚」とか「恋人関係」みたいなのを形式化して契約-当然の拠り所にしていても、実際が伴わなければそれに裏切られてしまうのだろう








姉は「あなたのため」とか「誰かのため」とかいいつつ「自分のため」を隠すような人で、ともすればそれが却って相手のプレッシャーになる所があったのかなぁと少し思う。

もちろん相手の浮気性的なところや、そういった人格ができる背景のようなものがあるだろうけど。男の場合そういうのはだいたいにおいて慢心とか驕りのようなものか



そういうのとは別に姉の都合の良い「( ノ゚Д゚)<女性だからといって差別するな!」「( ノ゚Д゚)<か弱い女のわたしには手を上げれまい」「( ノ゚Д゚)<わたしは女だから守れ!」「( ノ゚Д゚)<わたしは女性ですから!(そのゴキブリとって)」「( ノ゚Д゚)<わたしは女だから修羅場はごめん」みたいな使い分けは辟易だった




姉の場合、そういった頭ごなしの固定的な考えというのは母の転写のようなものがあったかなぁと少し思う



ギャンブル好きの父がどうしようもない人だったので居を分かつまで、姉なんかも矢面だったのだろうし


母の呪いともいうような父へのネガティブイメージが根付いたのかなぁ




「ふつう」の「仲のよい」家庭だと女の子にとって「父」は理想の男像となって、そこから相手を吟味できる基準となるのかもだけど


そういう「基準としての男」の像のようなものがなかったのかなぁ、と







恋愛とか異性間のパートナーシップにおいて無意識的に相手に喪われた父性の代替を頼む所があるのではないか?





だから「自分を守らなければならない」や「結婚したのだから○○であらなければならない」といった規範が先に来て相手のことは見ない面があるのかなぁ、とか





彼女は過去、「つまらない女だな」といって別れられたことがあるといっていたようだけど、それもなんとなく分かる気がする







翻って自分も喪われた父性がなんらかの形で考え方や行動選択に影響しているところがあるのだろうけど









そういった事情もあってか、あるいはそれ以前の母への家庭環境の影響からか


うちの家はけっこう性的情報に対する禁忌があるほうだった




テレビ見ているときに性的なシーンになるとびみょーな空気が流れたり、ふだんからオレに対して「○○はこんなのに興味ないよね?」と念を押すような


タマラ・ド・レンピッカが娘キゼットの無垢に救いを求めた心情と似ていたのかもしれない






吉本隆明的にいえばそういった家庭内の性的話題の禁忌は「社会へと性の関心を向けて行かないということで不健全。近親相姦を内在する」ということになるのだろう
http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


吉本隆明、性を語る。 −コイトゥス再考−
http://vobo.jp/takaaki_yoshimoto.html



話を社会全体に広げれば、「そういった形で性の問題を相対化できてないことが社会全体の内向き性(近親相姦のような既得権益への内向性)につながっているのではないか?」ということになるか


「性的禁忌」「家族」「国家」「文明」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215314247.html




それもまぁものぐさ精神分析的な話としておもしろいけど、ここでは少し置いておくとして






遺伝子的には「異なったもの」「異なっていつつも、生き残っていくのにより適したものを選んでいくのが合理的」ということだと、父親的なものとは違うもの(それに「勝てる」もの)を選んでいくのが合理的ということになるか



そういった「本能」における優秀さの選考は「におい」のようななんとなくの生理的な合う合わないで決められていくのかもしれない




それに対してだいたいのひとがパートナーを選ぶときには「価値観が合う」「趣味や嗜好が合う」「経済観念が似ている」などといったところを基本とする


それは本能的選考に対して文化的選考といえるだろうけど、それも選ぶ際のきっかけのようなもので、最終的には「なんか落ち着く」というところや「この先に一緒にいてどのような未来が描けるのか」というところから相手を決めていくのだろう



後者は対話的理性の結果であり、それを遵守していくのは意志だろう



「恋」とか「恋愛」というのが「価値が合う」「趣味が合う」「なんかいい感じ」「キラキラした幻想(かっこいい・かわいい・きれい)」的なもの、好み的なワクワク感の最初の段階を資源にするのに対して、後者は持続的なパートナーシップとしての契約であり意志なのかなぁ、と




ではそういった契約関係が「(恋ではなく)愛」なのだろうか?





「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html




「愛とは見返りを求めない献身である」とするとき、「愛」と名付けられるような関係性の中で排他的に相手を独占するというのはどういうことだろうか



「結婚やそれに準ずるパートナーシップは恋愛関係に比べてより高次の愛の関係なのだよ」といいつつも排他的独占をしているとき、愛というものが自分を捨てて相手を思いやることであればそれは本当に相手のことを思っていると言えるのだろうか?




あるいは「相手にはそれを求めている」ということか?(「自分が差し出すもの」ではなく)




「双方が双方を思いやる」という関係が本当に質量共に同等に返されるのならば、愛情の等価交換は成立するだろうけど



それがしばしば成立しないのは「相手に期待している愛情の質や量」と「自分がしていると思っている愛情の質や量」の間に認識のズレがあるからだろう




紛争が生じるのは「自分のほうが多く出してるのに」というときだろうけど






そういった条件付きの愛情交換に対して、父性や母性といったものは「無尽蔵に相手のことを思いやるもの」ということが期待される



佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html



聖人が神の奴隷となるように、親は子の愛情の奴隷となる




そういったことを思えば父性や母性というのは一概に称揚されるべくものでもないのだろう









では父性や母性は利用されるだけのものなのか?




「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html





産む性としての母性はそれを是しとする、かもしれない



そして、それを是とするのは端的には遺伝子のプログラムなのだろう


赤ん坊の笑顔には逆らえないし、「育てる」ということにおいて母性の満足があるように心理的誘導があるか




父性の場合はそういったものから距離をおいてきた



「妊娠」→「出産」という身体的な経験と実感というところからもそうだし


社会的に「労働」と「家庭」を分離させてきたので、「育児」というところから遠ざかっていた



なによりも働き盛りの男というのは「ふつー」子供との接触時間が少ないものだし



「一緒に過ごす時間」の関係で子供への思い入れも違ってくるのだろう




父親が父親として家庭の中で存在感を発揮してくるのは子供が社会のことを考えだした頃だろうし









性をめぐる感覚にも似たような非対称、ズレのようなものがあるように思う






一般的に、「女性は性に対して男性に比べて消極的なのに対して、男性は性に対して積極的」とされる



それは女性が受ける性であるのに対して男性が発する性だからかなぁ




理性的に考えれば、避妊のリスクさえしっかりとセーブできれば女性も性に対して積極的であってもいいはずなのにそれを許さないのはそれまでに構築されてきた社会規範的なことがあるか




ただ、そういった世間体や世間的規範のようなものを相対化してなお、女性のほうが男性に対して性についてなんらかの規範をもっているということがあるように思う




その理由は性的場面において女性が受ける性であるから、リスク的なものがあって心理的に消極的になるかなぁ、と



それはオツムで考えた場合だけど、


パートナーがほかの異性と性的関係を持つことに対して、なんだかわからないけどどうしてもイライラしてしまうから、というのが本当のところか





そういった感情は男性のほうにもあるもので、ではなぜ一般的に男性のほうが浮気なんかに走りやすいかというと性的機会へのアクセス率が女性よりも高いからか(専業主婦モデルで考えた場合)





では、互いに同じように外で働いていて、異性と接する機会や条件が同じであったとき、男性は女性よりも積極的、女性は男性よりも消極的であるといえるだろうか? あるいは排他的独占な感情の表れ方は同じだろうか?





一般論ですべて語れることでもなく「生育環境から育まれた価値観に依る」という条件の違いはありつつも、相手のほうをけまらしく思わない限り、相手が不特定多数と付き合うのは認められて然るべき、というのが理性的なあり方ではないかと思う




理性だけで考えれば






ただ、だいたいにおいて相手との長い付き合いの中で「情け」のような感情的な経路依存が発生していて



それが「愛」-「情」という独占的感情の理由となるのだろう




友-情なんかと同じくそれは無前提の契約のようなもので、言外の信頼というところにつながる





そういった「愛」「情」の色や質感のようなものを思い出したとき、浮気的場面で萎えるのかもしれない







<「性」と「生殖」は本来は異なるもの>だという





「性 は個体が生き残るためのシステム」なので生殖とは違う(分けて考えられる)、が多細胞生物や人では性と生殖がセットに成ってしまっている
http://morutan.tumblr.com/post/9399799213


真木悠介とドゥルーズ、性と生殖の差異|Philosophy Sells...But Who's Buying?
http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10622671281.html





人になぞらえれば、「性」は「生殖」(妊娠-出産)とセットになってしまっている



そしてその先には「結婚」「家庭」がある






しかし「生殖」(妊娠)以外のところでも、「性」が「愛」や「情」とセットになっていることが多々ある。


「恋」と「愛」が違うように、「情」も「性」も違うものなのに。一方にとってはバンドリングされてるという認識のものが一方にとってはモジュールとして分岐したものと認識されているので齟齬が起きる





そして相手にハマっ(惚れ)てしまったほうからするとそれはしばしば当然のセットだと思われるのだけれど、一方がその部分で相手よりも「情け」のコミットが少ない時、性を中心にした無前提の暗黙が覆されてしまう







木尾士目の「五年生」の場面を思い出す









*うわのそらブログ* 陽炎日記、四年生、五年生(木尾士目)…読んだ-_-川
http://chibilog.blog16.fc2.com/blog-entry-109.html



「五年生」を読み解く - 農大現代視覚文化研究会
http://blog.goo.ne.jp/moyasiken/e/5a77697071357f4d28fdb0b5e9ccb62e





佳乃が先に心を揺るがせてしまって、そこに距離や生活環境の違いといったものが重なってだんだんとすれ違っていくわけだけど


そういった直接的な場面以前にぢみーなズレのようなものがあって、そこが佳乃の心の揺れとなって表れたのだろうか



主導権的には佳乃のほうが握ってたわけだし



それでアキオは一度別れたあとに吉村さんと関係をもつわけだけど、吉村さんは好意からその関係をもったのではなく単純に鞘当て的にセックスを利用した、というだけだった



で、なんとなく「お互い様」になったところで振り出しに戻ったわけだけど



吉村さんが発していたエレンコス的な問いかけ



「島くんはなに信じてる?  言葉?  体?  ドラマ?」


というのは「理性」「本能」「感情(に通じるような運命的出会いや場面の思い出)」ということに言い換えられると思う



けっきょくこの場面ではアキオはその全てに不十分で「わからない(特別コミットするものがない)」ということを納得させられた上でじりじりと身体的距離を詰められていったわけだけど





そういった問いに対して、佳乃が別の場面で発した言葉がこの作品の暫定的答えとなっていく







「本能に委ねるのも理性に頼るのも違うんじゃないのかなあ   


 わたしたちはそれを両方やんなきゃいけないんだよ

 


 運命の出会いなんてものはなくいつの間にか知りあって何気なくつき合ってて あっけなく別れたりする



 だから自分達をよく見て 周りをよく見て  じっくり考えたり直感で感じたりしてさ


 少しずつやってかないと


 私たちはダメなんじゃないかなあ」








その際「この先ずっと一緒にやっていける」指標のようなものとはなにか?




なんとなくだけど「同じような器で」「いたら落ち着く」というところに戻るか





同じぐらいの器同士で



目指すものが一緒の共同戦線で




どちらかが過剰にハンドリングして主導権を取り過ぎずに 


理性や知性に偏らずに

かといって本能や感情的なものに依存して居つかずに


それらのバランスを保ちつつ自分達の「自由」を模索する




その場のその場の自由を積み重ねていく中で互いに成長していくように



暗黙の「好意」の「出し過ぎ」が紛争につながらないように



じっくりと相手を思いやる気持ち、「厚意」を相手の喜ぶこととして明示化しお互いの気持ちの痕跡を積み重ねていく


欝の心理療法にしてもそうだけど、人はどんなに理性的にしていてもけっこう単純な刺激や反応でできてる動物なので。好意もただ思ってるだけで暗黙にしておくだけではなく、形にして表して行かないとリズムが上がらないのだろうし、そういった行為の流れそのものが「家族」とか「家庭」という状態なのだろう


社会的に定められた規範、「こうあるべき」静態として定まった形式ではなく、動態の結果としてそれぞれの「家庭」や「家族」の形がある



「一緒にやっていく根拠」なんてものは絶えずおぼろげなものだから、だからこそ一緒に作って行かなきゃいけないものなのだろう




確定的な答えはないけどそういう形で常に「とりあえず」な感じで、「とりあえず」をなんとか重ねて人生をサバイブしていくというつもりならばやっていけるのかも、と一旦思っておく









--
黒田清輝「智・感・情」
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_work/oil/oil065.html

http://www.flickr.com/photos/22081105@N03/2827721730/




【ことばをめぐる】(32)智に働けば,夏目漱石,草枕
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/ktb032.htm




タグ: 恋愛 倫理
posted by m_um_u at 19:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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