2011年09月02日

ヨーロッパ中世から近世の終わりまでのおーざっぱな流れ


最近のエントリ絡みでボヘミアの歴史が気になってtumblrでちょこちょこ収集したり、関連でポーランドとドイツ騎士団の歴史をちょこちょこみてたりした



ボヘミアのほうは30年戦争のときのヴァレンシュタイン絡みだったり、それ以前にクーデルカの話でボヘミアと放浪人(ボヘミアン-ロマ)の関係から



屈せざるものたち: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212059486.html



Invasion 68
http://bit.ly/iZ4ttw


はもともと「ソ連(ロシア)によるポーランド侵攻(粛清)」ということだったんだけど、なぜ同じ軸と思われるクーデルカの関心にロマが関わってくるのかよくわからなかったから



それはユリシーズの瞳で見た「ライン川を登る」「スラブ民族の問題」といった指標が理解できなかったこととも絡む



テオ・アンゲロプロス、1995、「ユリシーズの瞳」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213903209.html




いまだったらわかるけど、あれは「地中海における東西(中東とローマの文明)の折衝点であり同時に火薬庫」でもあったギリシアから、チェコ-スロヴァキアという大戦期の火薬庫を遡りつつ同時にライン川を「東西」の線引きとして遡り、来し方行く末を見る旅だったのだな



「東西」の線引きは「トルコ / ギリシア-ローマ」のほかに「マジャール(ハンガリー)・モンゴル・ルーシ(ロシア) / ローマ」なんかもあった。ローマを中心にアルプスを超えて蛮族が入ってくるのを防ぐイメージ。北からはゲルマンたちが入ってきた



というか、「ヨーロッパ」というのはもともとはローマ圏域しかなかったのだけれど、アルプスを中心として3つのエリアに分かれていた地域が統合した形


ローマだけのころは「ローマ」でよかったのだろうけど、外交によってほかの地域が蛮族(バルバロイ)じゃなくなってきたので「ヨーロッパ」って呼称が必要になったのだろう



ローマのころにはアルプスより西に「ガリア」(フランスを中心に以西)、北に「ゲルマニア」ぐらいの感覚だったのだろうけど

ガリアはケルト人、ゲルマニアはゲルマン人が住んでいた


もうちょっとするとガリアの中でもセーヌ流域を「ネウストリア」、アルプス以北イン川方面を「アウストラシア」(東の国?)、南を「ブルグント」と呼ぶようになった


ブルグントは後のブルゴーニュ地方になる


アルプスを中心にそこから流れ出る4つの川の流域にエリアができていた


アルプスの大・分水嶺(ポー/ドナウ/ライン/ローヌ)を中心とした地図
http://www.eu-alps.com/i-site/border/index.htm

http://tinyurl.com/3ogelra

(アルプスと河川と人口動態を基本にしたもうちょっとおーざっぱな簡略図ほしかったけど)


ローマはアルプスを防御線に使っていた。なので長城なんかも作ったりしてたし、後にはその防備費が国家財政を圧迫することとなる





おーざっぱにいうとアルプスを中心として北をゲルマン人、南をローマ人、東西を「それ以外」が治めていた、という感じ


ゲルマンは武の民、ローマは文の民



だからその後の歴史も「ローマ / ゲルマン / それ以外」という区分けで進んでいった。

強いゲルマンが改宗することでローマに認められ用心棒にされていったけど。フランクの王、オドアケルなんかは嫁さんがカトリックだったので改宗した。後になるけどフランスとノルマンなんかの関係でもそういうのはある



ヨーロッパ史的にはローマを中心とした時代が「古代」、フランク王国が隆盛しフランスと神聖ローマ帝国に別れ諸地域が統一されてなかった紛争時代を「中世」、地域がある程度統一されたフランスと神聖ローマの対決の時代を「近世」という




年号的にはローマが東西に別れる476年を「古代」の終わり


十字軍のタコの足食い的な流れでビザンツ(東ローマ)帝国が食われちゃった1453年を「中世」の終わり


30年戦争の終結とともに諸国が神聖ローマ・カトリックのゆりかごから巣立った1648年を「近世」の終わり、とする



「中世」はいわゆる「騎士の時代」「傭兵の時代」といってもいいので1000年間も乱世なゴロツキ時代やってたわけだ





それぞれの時代を「歴史の意味(流れ)を読み解く」風に追ってみると、「中世」というのは傭兵・騎士=いくさの時代なんだけど、そうなっていたのは農業技術がまだ発達してなかったためともいえる。「土地を一回食いつくしちゃうと次に移動 → その土地を略奪する」ってオプションしかなかったようなので。


だから基本的にずっと「移動 → 略奪」しててなかなか領域が安定しなかった


十字軍なんかは国内のゴロツキ共に外の土地を目当てさせて追い出す的な機能もあったようだし。それで最終的に「トルコ」っていうか元々ローマなビザンツが食われた


それに飽きるとある程度国力が安定してきていたフランス vs. イギリスで百年戦争したり。あれは政略結婚な血縁関係だったので実質的には王侯の兄弟げんかだった



その前段階でノルマン人の南征→フランス領にノルマン領を認められる(ノルマンディー) → 勢いに乗ってブリテン島も食っちゃう、って流れがあったようだけど


その余波でノルマン・コンクエストが起こりブリテン島は王権の下に統一、以後ヨーロッパの他地域に比べて王権が伝統的に強い地域となった(そのカウンターとして王権を警戒してマグナ・カルタ起こったり)




フランスはそういった流れの中で一時期イギリスに劣勢だったりもしたけれど、最終的に中央集権的体制を他の国に先んじて作り出し王権のもとに国家領域を安定させていった。


そういった改革はまず軍事方面で為され、それを支える形で官僚制や法制度、税制も整い、それらを有効に機能させるための前提条件として貨幣や言語が統一されユーティリティが高まっていった。




その結実がシャルル8世の光り輝くような軍団、騎兵・歩兵・砲兵の三兵が揃った軍隊だった



これと時を同じくしていまやアルプス以東の「ドイツ」的地域を中心とするようになっていた神聖ローマ帝国も同地域の統一を果たすことで国力を安定し、マキシミリアン1世の御代に強力な軍隊を備えることとなった




ここで一端「アルプス以西」「アルプス以東」の統一が為され、紛争(小競り合い)の時代が落ち着いた


というか、


地域ごとの小さな紛争というよりも統一した領域の大きな戦争の時代に入っていった。王侯の私事的なゲームとしての戦争ではなく、より国家的政策としての戦争の時代に




そういった知識と組織編成の改革を経て「近世」へと時代は移る






「近世」は中世最後の名残からフランス(ブルボン王朝)とハプスブルクの覇権争いを始まりとする



ハプスブルク家ももともとは北方から植民してきたゲルマン人の一派だった


フランク的なものが東西にわかれたとき、東欧も4つぐらいのバウンダリーに分かれたが最終的に政略結婚を駆使してハプスブルクが抜きん出ていった。流れでスペインとも政略結婚しフランスを挟み込む形で牽制するようになったり



両者はイタリア上洛をめぐる紛争で一時国力を落としたが地味に回復していった


フランスはハプスブルクに対抗するために一時期トルコと結びもしたが、大胆な軍制・政治改革を行うことで国力を上げていった。軍制改革としてはオランダのマウリッツ、スウェーデンのグスタフ・アドルフに倣ったものをルイ14世が、政治的にはコルベールの重商主義(スペイン略奪主義)


ハプスブルクはスペインの大航海時代でのホームラン、南アメリカにおける銀鉱山の発見によって調子づきカトリックを中心とした一信教、一民族主義的なものを提唱し領民に圧政を敷いていったがこれが却って裏目に出た


非神聖ローマ=カトリック圏の貴族や農民たちにとってそれらは単なる圧政であり、実質的な利益は商人との関係にあったというところで宗教改革の気運が高まっていった。

ただ、宗教改革と言ってもルターの流れでは貴族のみが利益にあずかるのみで農民は救われなかったため農民革命はつづいていった(cf.フス革命、ランツクネヒトの農民革命参戦



後のオランダを中心としたゲルマニア地域ネーデルラント(平らな土地)のユトレヒト同盟(北部7州)もスペイン-カトリックの重税・圧政に抵抗していった


この抵抗の中で南州(後のベルギーやルクセンブルク)は離反し、代表的商港の地位はアントワープからアムステルダムへ移っていった

http://tinyurl.com/3gtduea



ここで都市国家にわかれ国力が集中しにくかったオランダなどが凝集し、商人の町として栄えると共に「対ハプスブルク・カトリック」として海上略取を主戦略として力をつけていった

イギリスもこの海上略取の流れに乗っかり次の時代のスタートアップとなる



そういう意味で「近世」とは「ハプスブルク・カトリックとほかの地域」のたたかいの時代であり、ウェストファリア条約は神聖ローマとカトリック教会に対する諸地域の勝利であると同時に、商人たちの勝利であったとも言える






ハプスブルクがアウストラシア地域を統合する以前、東欧のなかでボヘミアは鉱山をもち国力を持っていた


なので本来なら他の国に遅れをとる地域ではなかったのだけれど、目立ったがゆえにつぶされていったようなところがあったか




また、ポーランドも強力で広い領土を持っていた


http://morutan.tumblr.com/post/9104420152/237-2011-08-13-23-54-46-91

http://morutan.tumblr.com/post/9104068377/5-2011-08-13-18-10-49-31

http://morutan.tumblr.com/post/9161413465/14


というか、ポーランドが東欧の中では抜きん出ていた。自由主義のもとに人々を集めていたから



プロイセンもポーランドの領土であったし
http://morutan.tumblr.com/post/8590192716/1440


ドイツ騎士団の悪行(プルーセン人虐殺など)もポーランドに粛清された
http://morutan.tumblr.com/post/8590092145/20

http://morutan.tumblr.com/post/9661300120/13

http://morutan.tumblr.com/post/9661289384




なので感覚的には「アルプス以東(アウストラシア)」の土着的盟主はポーランドであり、「民衆」を意味する「ドイツ」的なものはポーランドだったといえる
http://morutan.tumblr.com/post/9661310796

http://morutan.tumblr.com/post/9661420030

http://morutan.tumblr.com/post/9661464493


後の「ドイツ」の中核となるプロイセンは、地域的にはプルーセン人の地域をドイツ騎士団が略奪し、一旦粛清されつつ原プルーセン人とは違うエリートや商人層が入植し人口国家プロイセンを為し、いわゆる「小ドイツ」的に「ドイツ的なもの」を統合していった


「ドイツ的なもの」とは、教会(ローマ、アヴィニヨン)やフランス、神聖ローマ以外のもの

スラヴやボヘミア、マジャール(ハンガリー)を含んだ東欧の土着の人々、貴族や農民たちだったのだろう



そういう意味では「ドイツ連邦」とは本来ならソ連のようなものだったのかもしれない




おーざっぱに振り返ると「ヨーロッパ近世」とはハプスブルク家(オーストリア・スペイン)とフランス(ブルボン家)の覇権争いの時代だった

その周辺に商人や農民が配され、王権を強め敵国を弱めるために商人(財)が利用されのし上がっていった


オーストリア以北、ネーデルラント(平たい低地ドイツ)は湾に接し港をもっていたため商人の街として栄えていった


オーストリア以東は相変わらず貧農な地域な印象。そのため貧乏貴族の次男坊たちは旗本奴的に腕力を売り込んでいった(ランツクネヒト)


オーストリアから東北部はそんな感じのイメージ。十字軍破れのドイツ騎士団も駐留してたし


スイスも似た感じで傭兵(スイス槍兵)での外貨獲得を主産業とした。というか、スイス槍兵を真似てランツクネヒトが作られていった。

スイス槍兵は主にフランス専従、ランツクネヒトはハプスブルクお抱えとなった




なので、単純化すれば「ハプスブルク vs. フランス」のオプションとして「ランツクネヒト vs. スイス槍兵」があり、ネーデルラントやフランドルなどの豊かな地域がトリックスターだった感じ。いちおヒエラルキーの頂点には依然としてローマがあり社会規範の中心を担っていた




ヨーロッパ1600年の地図
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/e/e6/Europa_1600_en_kairyou.JPG



(ポーランドほか東欧の歴史読み直したらまたちょっと認識改まるかもしれないけど)







カール4世は14世紀初頭ボヘミアに生まれ、ドイツ王として選ばれた後に神聖ローマ皇帝の冠を受けた(ハプスブルクの強権以前には諸侯から「ドイツ王」として認定された後に神聖ローマ皇帝に選ばれるという過程が慣例だった)


カール4世 (神聖ローマ皇帝) - Wikipedia
http://tinyurl.com/3emqu5f



かれはボヘミアでドイツの帝国勢力を強化しようとしただけではなく、「1つの首都、1つの制度、固定的な帝国諸官庁、1つの官房用語」を設定した


これは地味だけれど同時代にローマ・カトリックがまだ十字軍を編成し南征していたことを思うと画期的だったことが実感できる



いま思うと「不思議な少年」の4巻にボヘミアとポーランドにまたがる地域と思われるロマ出身の王の話があったけど






あれはカール4世をモデルにしていたところもあったのかもしれない








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課題:


・「移動」-「略取」と農業技術の発展の反比例的関係 (cf.黒死病後、三圃制とレンズ豆の開発によってヨーロッパの人口は倍増した)



・「ドイツ」的地域のカトリック・プロテスタント観 (プロテスタントの信教内容の実際(商業との結びつき)



・「小ドイツ」的なものが出来上がっていく流れ



・「東欧の歴史」みることで「スラヴ」「ドイツ」などの感覚を確認




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学校「世界史」のわかりにくさと「歴史の見方」みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223226126.html




中世ヨーロッパの主な出来事
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/18.html





posted by m_um_u at 00:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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