2011年08月08日

「近代」と軍隊の官僚制


こないだのエントリのつづきっぽく


中世ヨーロッパの戦争と正戦論: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218676600.html



読んでる本の中間セーブ的理解まとめ



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前エントリでも書いたように中世→近世から近代に至るヨーロッパの「主権」の歴史というのは、中軸に教皇・皇帝(神聖ローマ)を据えた王権と諸侯の勢力争争いだった


世界史の授業だと封建制度ということでまとめられるけど、あれだと封土を元にした忠誠と主従の関係が絶対的な印象があるのでちょっと違う。


傭兵たちは基本的に金で動いて金払いがよく命のキケンがない主と戦場を選んだし、半ば傭兵化していた騎士も同じだった



封土は金の代わりであり、税金的特権のようなもの


でも、封建時代の最初の頃は税金システムもうまく運用されてなかったので騎士もアルバイト的なものを掛け持ちしていたようだけど




技術的進歩が決定的ではなかったこの時代の金はそのまま武力だった



金で武具を買い揃え、傭兵を集めた、



ヒト、モノ、金が力だった




だから単純なパワーゲームとしたら「人口の多い国が有利」ということだったけど、金が機転となってそれぞれの力関係が変わっていった


最初はもっとも現場(戦場)に近い傭兵団長-騎士が有利だった

王は形式としては彼らの上にいたが、現場での兵の管理権は傭兵団長たちにあった。常備軍がない/少ないことが当たり前だったこの時代、それぞれの戦争が終わったら傭兵は食いっぱぐれざるを得ないが、それを次の戦場までつないでマネージメントしていったのが傭兵団だった


傭兵は王の軍隊ではなく傭兵団長の軍隊だった




その権利もけっきょくは「俸禄をきちんと与えられるかどうか」「ちゃんと食わせられるかどうか」というところで決まっていった。つまり金



なので王が商人の特権を免除していくのと引き換えに金(税金)をえていったことはそのまま王権の強大化を意味した



金を元にして常備軍への契機がつかめ、軍の力をより王に近いところで管理できる機会が生まれた






それでも完全な管理には程遠くて、それが30年戦争における最後とも言える傭兵の時代の徒花、ヴァレンタインの伝説につながっていった

http://houzankai.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/30-b5a1.html



ヴァレンタインは当時12万の軍隊を抱えボヘミアの地を統治し半ば一国の元首にして神聖ローマ帝国の軍隊の中心だった


しかし、あまりに強大すぎ、またその略奪横行の徹底ぶりが非道であったため皇帝から警戒され一時的に解任された



戦争の流れとしても神聖ローマ帝国のほうが有利だったし



それがスウェーデンのグスタフ・アドルフの活躍で呼び戻された



しかし、呼び戻されたときには軍の統制とシステムはヴァレンタインの手を離れていたためかつてのような勝手はできなくなっていた




そういった意味では30年戦争は「プロテスタント(都市国家(諸侯)・商人連合) vs. カトリック(神聖ローマ帝国)」の結果プロテスタントが勝利し、「王が神から主権を取り戻した戦争」ともいえるけれど


もっと細かく見れば、合理的な官僚システムが旧代の暴力のパワーゲームを凌駕した画期といえる


いってみれば「理性が力に勝った」というような





それはグスタフ・アドルフ個人をもって完成したわけではなく、その前進としては80年戦争のオランダ(プロテスタント)のマウリッツの軍略が、それ以前にはスペインの槍兵密集陣形が、そのモデルとしてはスイスのパイク傭兵があった


テルシオ - Wikipedia
http://bit.ly/nKBO6V


それらも元をたどればローマのファランクス(密集隊形)が源流ということになる


ファランクス - Wikipedia
http://bit.ly/f3o4Jp



ローマのシステムが優れていたのは表象化されたそれぞれの技術的営為や軍略というわけではなく、それらに共通する合理的・実務的思考、方法論ということだったのだろう



ローマ法にしても然り、ファランクスにしても然り



それらはただの力のぶつかり合いではなくペンと知恵を使って力(自然)に対して行く工夫であった





たとえば「騎兵による突貫」は中世→近世を通じたヨーロッパの戦場の中心、野球で言えばストレートのようなものだったように思われるが、これが「力」だとすると、長らくそれに対する方法はなかった



そこでローマの戦術を紐解き、試案されたのがスイスの槍歩兵密集隊形であったし、それらが有効であったのでドイツの貧乏騎士傭兵ども(ランツクネヒト)やスペインの軍団に真似られていった




そして、最終的にスペイン・ハプスブルク神聖ローマの敵であったオランダのマウリッツによって銃兵を加えてより実戦向きに精度が高められた


日本だと織田信長の長篠の合戦のような戦術が取られ、槍兵は銃兵を守るために必要最低限配されることで、スペインテルシオ(要塞)の鈍重さを補っていった



そしてマウリッツが作った兵学校出身者の薫陶を受けたスウェーデン王グスタフ・アドルフがより銃兵を効果的につかえるように陣形を改良していった



マウリッツとグスタフ・アドルフに共通したのは単に陣形や戦術における機微というだけではなく、それの下準備としての全軍団の規律訓練であった


当時まだ傭兵や騎士的な勝手気ままさがまかり通っていた戦場で、騎兵・歩兵・砲兵、三兵すべてのユニットを平等に扱うように、また戦場において複雑な陣形変化に対応し、命令が通るように無駄な私語がないよう軍紀を統率していったのはマウリッツとグスタフ・アドルフの功績だった



それを可能にしたのは兵たちにきちんと俸給と食べ物が与えられるという保証、安心感だった




当時はまだ下級士官によって兵たちの取り分がちょろまかされるのが当たり前な世の中だったので。そういった心配がないことは兵たちに安心感とモラルを与えた。




これによって当時兵たちが嫌っていたぢみな仕事、「塹壕堀り」や「訓練」といった命令への馴化を成功せしめた






一口に「規律訓練」といってもそういった背景がある






これらをより完成させていったのがルイ14世であり、ナポレオン・ボナパルトだった




ルイ14世はコルベールを通じた重商主義(というか、まぁ私掠船主義)によって財力を集め、それを常備軍へ還元していった



そして、当時は未だ将軍や傭兵団長のものだった軍の統制権をしっかりと王権のもとに統合していった。



方法としては王自らが隊長を選び、自ら軍隊教育を施すことによって「王の子供たち」という意識を軍の中枢部に染み渡らせていった



そして、途中で金や装備の横領が起こらないように管理・査察のお目付け役をつけていった。







「豊富な財力」「規律訓練」「内部監査」







この3つをもって王権→絶対王政が確立していった。それらは「財(リソース)の経理」という意味では官僚制の萌芽だった。


その意味で「プロテスタント=勤勉=資本主義の精神であった」というよりも「マウリッツが支援したプロテスタントたちは神聖ローマ帝国に虐げられた存在であり、商人・経理・財の管理という合理性に通じていたから近代的な金融システム(数学)を駆動できたのだ」といったほうが近いように思う


そして、それはゾンバルトが見ていたような資本主義の需要側の側面、欲望の側面とはまた違う




財の管理システムとしての官僚制はウェーバーが「職業としての政治」で見出した選挙マシーンのようなリソース管理のハブであり人的機関だった


それらは方法としての知的枠組み(経理・法・文章・説得)の機関であったといえる



それらが知の技術(ソフトテクノロジー)であったとき、火薬や地図、羅針盤、農具、鞍や鐙・蹄鉄、銃器といった武器はハードテクノロジーであった



ハードに対してソフトはしばしば「リテラシー」ともよばれるけど




道具のサブカテゴリ(あるいは同一カテゴリ)としての「メディウム」も同様に、ソフトテクノロジー(リテラシー)とハードテクノロジーを擁して発展していった



紙やペンといったハードテクノロジーに対して、新聞やテレビといった知の共有メディアは知の編成の発展過程の痕跡ともいえる


マクルーハン流にいえば「代表的メディアがある特定の姿をとるということは、その時代の知の編成を表象しているということだ(メディアはメッセージである)」ということ



知の編成はリテラシーであり、社会情報学的に言えば( ^ω^)・・・(わすれた)



そういった意味では新聞社やテレビ局はそういった知の編成・編集の機関であり、「政治」という界における選挙マシーンのような機関なのだろう









すこし抽象的に脱線したけど



そういう形で王は王権を「領域内において他の国家級共同体からの意思決定を排除する」権利―「主権」として確定していった


主権は「主の権利」というよりも「領域内における(排他的)最高権(sovereignty)」を意味する



30年戦争→ウェストファリア条約当時だと王の想定する「他者」は神聖ローマであり傭兵団長だったのでそれらからの王権の独立と絶対的優位ということ



ただ、これを「最高権」という曖昧な形でのこしたのは自然法への配慮だったかな?とも思うけど



そこに「主権在民」のイデオロギーの契機が生まれたか…(そして、それは nation-state という幻想につながっていく)



nation-stateは「朕は国家なり」のカウンターイデオロギーとも思えるけど



とりあえずそういう形で18世紀後半から19世紀にかけて「国民」という強力な概念と、それに基づいた擬制ー共同幻想が生まれていった



王権確立の流れを見ればそれは常備軍=国民全体という含みをもって完成したものと思われるが…




この辺りの検証は革命の時代の確認をもってするとしよう


タグ:歴史 戦争
posted by m_um_u at 23:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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