2011年07月17日

「性的禁忌」「家族」「国家」「文明」




Women want mediocre men, and men are working hard to become as mediocre as possible.

-- Margaret Mead




Illusions mistaken for truth are the pavement under our feet. They are what we call civilization.

Barbara Kingsolver, The Poisonwood Bible







性的行動とその決定因、またそこから発生する効果・作用の分析が生物学と経済学の臨界で生まれる。と同時に、道徳的・宗教的勧告や徴税といった伝統的手段を超えて、夫婦の性的行動を、経済的かつ政治的に協議された一つの行為に仕立てようとする組織的な作戦が現れる。

−知への意志−






個々の道徳的行為は、必ず特定の道徳的振る舞いに依拠し、道徳的振る舞いは必ず道徳的主体としての自己自身の編成を要請する。更にまた、この道徳的主体の編成は、〈主体化の様式〉なしに、またそれを支える〈修練〉と〈自己の営為〉なしにはありえない。

−快楽の活用−






19・20世紀の人種差別は、そこにいくつかの手がかりを見出すだろう。国家は、市民の性と市民の性の用い方の現状を知らねばならないが、市民の方も各人が、性の用い方を自分でコントロールできなければならない。国家と個人の間で、性は一つの賭金=目的になった。

−知への意志−




















コレ読んでなんかまたいろいろ繋がった、というかぼんやりとしたデッサン程度にマッピングできそうなので


吉本隆明、性を語る。 −コイトゥス再考−
http://htn.to/2Bjpk8




「性的禁忌は親密圏と社会との関連性で現れる」って話


吉本の共同幻想論をもうちょっとゆるく解説した感じだろうか(あれは正直わけわからんかったけど


日本の場合、「家族」の禁忌が強すぎてお茶の間では性的な話題がタブーになることが多々あるように思う


「それは近親相姦的な志向に依る(あるいはつながる)」という話

http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


まぁいわれてみれば「なぜ日本ではフリーセックス(セックスについておおっぴらに語ること)がいけないの? 隠すほうが却っていやらしくなるじゃない?」という疑問はずっとある



「それはおまえを食べちゃうためさ」ってことで母や父の潜在的な近親姦への欲望が内包されている、ともいえるか

いわゆるマザコンやファザコン


それは母や父からの一方的な関係ではなく、息子や娘から照射されていくこともあるわけだけど







「性的禁忌と家族」という問題はたとえば売春と社会的禁忌の関係にも反映される。



買売春や自慰行為は社会的に「悪いこと」とされるけど、なぜ「悪い」のか突き詰めていくとわからない
http://morutan.tumblr.com/post/7661465906/1

そして、

「悪い」って認識の中でも自慰や買売春の志向があるということは、その欲望の指向性において「自由」を求めた結果が自慰や買売春であった、ということになる



それが「善い / 悪い」「異端」とか決めるのはその時代の価値観なので



それ以前に、既存の欲望のカタログに依らないなんらかの本源的志向性があった場合、そしてそれが特に他人を傷つけるものでもない場合、誰がそれを「変態」となじれようか?(cf.フーコーであり、トランスジェンダーであり、セクシャルマイノリティな話)






「自慰はわるいことなのだろうか?」的な潜在的恐れ。その短期的な欲求に屈してしまうことにより積み重なっていく敗北と自分への嫌悪感のようなもの


特に男性の場合それは多くの人にあって、ともすればそこから自らの性のあり方を「異常」と烙印し精神的不能の刻印をふしてしまうこともある


abuseではあるだろうけど「善悪」の価値観から「悪い」というものではないだろうに



森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html



あるいは、既存のエロスの形式(いわゆるオカズ)の幻想にドライブされて、自らの本源的志向と形式にドライブされた過激な性のあり方との断層がなんとも収まりがつかなくなり、自らの性を「攻撃的なもの」として呪い怖れる、というようなこと


それはわりとナイーヴな男性ならば経験のあることかと思う



対して吉本は、「むしろ自慰を通じて社会的性を取り込んでいって、家族的な性から解放されていったように思う」、という
http://morutan.tumblr.com/post/7661328912


赤ん坊が性器をいぢったときに感じる「なんとなく気持よかったな」って意識、価値観のない意識を元にして



「社会と家族の性は違う」


http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


恋愛と結婚(家庭)は違うが如くに





西洋では全開で語られる性(ex.バタイユ)が日本ではなぜかとじたものになってしまうということ
http://morutan.tumblr.com/post/7661613695

自分的にはそれは医療と刑罰の関係にも通じるのではないかと思うんだけど(cf.フーコー)


吉本としては「家族制の縛りのせいで性の話を外に出しにくくなっているのではないか?」という





「家族」から脱し「社会化」していくときに関わる「性」の問題


あるいは


「近代化」と「性」の問題といえるだろうか



「文明」と「性」といってもいいだろうけど




生産関係と性の語られ方の関係



母権論はいってみれば「( ゚Д゚)<女はセックスしか頭ないから戦争とかもせずに平和やでー」みたいな話だったように思うんだけど



結果的に「性の家庭内部での統御」≠「母権制」ということになってくるのだろうか。(そして、その対照として「文明」のオーバードライブとしての戦争への志向がくる)



花咲く国、平和成るかな: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/46507959.html


(↑は若い論だけど)生産様式に着目してそれと母権制のニックス、と


「狩猟 / 農耕」という区分けをしていたけれど現時点だと「狩猟」(フロー) / 「文明」(ストック)と言ってもいいように思う



狩猟社会というのは「ストックができないので生産に計画性がない」というところがポイント


農耕社会は「ストック → (短期サイクルでの)計画経済が可能」ということ



そして「ストックが生まれるので略取も生まれていく」ともいえるわけだけど、フロー段階でも獲得物をめぐっての小規模な争いはあっただろうから「争い」のオプション自体は狩猟でも農耕でも変わらずあるものなのだと思う



ただ、ストックできるようになると規模が違ってくるので


広い意味で「文明」も「ストック」に加えたのはそういうこと



文に明るくなることで反省し次に繋げる。経験のストックができていく。技術というのはそれをもって格段に進歩していく


だから「書く技術 / それを伝達する方法」(メディア)がそのまま文明の発達段階と相関する


そして、


そもそも狩猟社会にせよ農耕社会にせよ、どちらの社会でも「経済/流通/交易」はあったし、それが文明をドライブさせていったのだろう


モンゴル帝国なんか定住型農耕社会ではなかったけど当時の世界帝国だった理由は交易と戦闘に関わるシステムがシンプルに優れていたからだし


(なので生産関係つか、交易・流通とその手段としてのメディアの発展段階で文明度を測るほうが分かりやすいように思う)


civilization ということについていえば「都市化」であり「文明化」ということだと「教会化」ということで、かつてのヨーロッパでは教会を中心に知が編まれ、戸籍ほかの生権力も統御され、同時に法でもあった。

モンゴルでは戦闘と交易、家庭もシンプルな法とシステムで統御されていたのだろうけど、ヨーロッパでは国内的な秩序は教会にアウトソースされていた。




母権社会というのはゲマインシャフトと同じぐらいの曖昧さだと思うけど、ゲマインシャフトが文明(cf.ゲゼル)と対照であるのと同じように、文明と対置される位置づけにあるようには思う。


ただ、それをもって「女がトップにいる社会は下等」というわけではないんだけど…


文明化されてない社会で母権的なものはその段階にとどまり循環しやすいかなぁ、という印象


文明化された社会での母権、あるいは性による政治のドライブということだと本居宣長なんかがからむのだろうか(源氏物語とか





古本夜話115 バハオーフェンと白揚社版『母権論』 - 出版・読書メモランダム
http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20110715/1310655690


古本夜話114 ローゼンベルク『二十世紀の神話』と高田里惠子『文学部をめぐる病い』 - 出版・読書メモランダム
http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20110713/1310482877



ナチスの勘違いはこういった歴史を完全に捨象してゲルマン民族優位をプロパガンダしたことだろう


ただ、ナチスがもし男性的ホモソーシャルな性のあり方、性に似た志向性が戦争や革命への志向であると直感した上でそれを作為的にドライブさせていたのだったら話は少し変わってくるだろうけど


また高田はサブタイトルに示された「教養主義・ナチス・旧制学校」をめぐる共通するイメージ、さらにそれらと協調して「文学」と「仕事」を支える構造の中に、近代日本の教養主義に表出している男性性とその間の関係、特権的男性たちの高等教育の場としての学校を検証する意図をこめ、それらの総体を「男性同盟(メナーブメント)的な美しい結末」と見ようとしている。

この高田の指摘を受け、本連載のひとつのテーマでもある、近代におけるホモソーシャルにしてホモセクシャルな世界の形成、男女間ジェンダー闘争の台頭、ナショナリズムとナチズムの関係、ユダヤ人と女性を同一視する倒錯やミソジニーなどが逆照射されるような感慨を抱かされた。






La mort du jeune Barra: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/06/la-mort-du-jeun.html


 習作のほうがダヴィッドが意図的に描きだしたという点で本来のダヴィッドの意思を表したものであろうし、この対比からバラの死が読み取れるとするなら、バラの死の映像こそ、ダヴィッドが見た共和国の精神性というものだろう。
 そこまで言っていいものだろうかと長く迷っていたが、「[書評]絶頂美術館(西岡文彦): 極東ブログ」(参照)の同書にも同じ理路で解説されていて、我が意を得たりというところだった。が、詰めの解釈は異なる。西岡氏はこう言う。


 人としてもっとも大きな幸福のひとつである「性」の歓びを享受することなく、若くして革命に殉じたバラへの、これ以上に悲痛な哀悼の意の表明はないかもしれない。



 「絶たれた生」への抗議として描かれたはずのこの作品が、強烈な同性愛的な官能性をただよわせ、むしろ見る者の「いまだ絶たざる性」を物語ってしまうのは、そのためであるのかも知れない。


 逆であろう。
 ダヴィッドの描出こそが共和制への愛を貫徹した至福の姿なのである。
 鳩山由紀夫元首相が語る友愛(参照)、すなわちフラタニティ(fraternity)というものの、「強烈な同性愛的な官能性」とは、このような形象を有するものであり、むしろ武士道の至高に近い。
 三島由紀夫ならそんなことは自明ことであったに違いないが、奇妙なのは彼にとっては、本来は共和制のエロスであるものが戦後日本の文脈では王制のエロスに偽装されていたことだ。
 むしろ共和国・共和制と限らず国家への愛を誘う政治的イデオロギーには、その表層の差違や論争的な対立の背後に、すべてこの情念の起源を隠し持っているのではないだろうか。






確定ではないけど、どうも戦争や革命への狂ったような志向性にはホモソーシャルな興奮が内包されているみたい


Togetter - 「淫グロリアス・バスターズ」
http://togetter.com/li/127006




近代の歴史、理性の冒険を考えるとき、結局は性というか家庭と社会との関係に落ち着くのだと思う



テオ・アンゲロプロス、1995、「ユリシーズの瞳」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213903209.html



加納明弘、加納建太、2010,「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215103969.html




近代化によってそれまではくっついていた家庭と労働(社会)は「分業」という形で分離されていった(家内制手工業な親方職人制から近代的分業制への移行)


それに伴い、「公 / 私」という意識も敷衍していったのだろうけど、根本のところで性の問題や家庭の問題は統御されていないのだろう。


なので、特にゆるい国(日本のようなところ)ではゲゼルシャフトであるはずの政治に家庭的なゆるさがでてしまう




「性」というのは一般化、抽象化していえば「生命のダイナミクスの表れのひとつ」といえるだろうけど


白河夜船: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213045538.html



女性のあり方と男性のあり方とでは違う


それは「女性」の基底的な要因に依るものもあるのだろうけど、どちらかというと社会的にふされた役割分担から生じた性の志向性のように思う





たとえば男性の性が闘争性と結びつき称揚されていた時代

それと対照するように、おそらく古典的な「女」の性のあり方というのはなにか食虫花のようなドM性があったような


むーたん - 食われて幸せ
http://morutan.tumblr.com/post/31176547


「受けといて食っちまう」みたいなの。上品に言うと、「家庭内部では男性を優位に立てつつ実際面ではコントロールしてる」、というような




そのような因襲のような感覚、封建制のにおいをともなった「食われて(犠牲になって / 受け容れて)しあわせ」な感覚がここにも表れていたか



The Lady of Shallot 〜 ピアノレッスン  (七夕と供犠と女の「自由」の話): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/214043580.html






とりあえず「性」「家庭」「文明」「社会」関連

家族からみた歴史→政治・経済。公共性の構造転換の下部構造としての家族、の可能性ということだと、やはりトッドを読むべきなのだろうな



エマニュエル・トッド - Wikipedia
http://bit.ly/m9xO9a




Togetter - 「E.トッド読む読むφ(..)メモ : 「家庭と親密圏 → 公共圏 → 政治経済空間」の構造変化 (仮)」
http://togetter.com/li/130095





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Togetter - 「| ゜Θ゜)<ニーチャン、えっちだなー ワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイ」
http://togetter.com/li/134480


「家族の性」にバインドされスポイルされているおにーちゃんたちの性の在り方について




タグ: 家族 文明
posted by m_um_u at 19:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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