身体は直接政治的領域の中に投げ込まれていて、権力関係は身体に無媒介な影響力を加えており、身体を攻囲し、それに烙印を押し、訓練し、責め苛み、労役を強制し、儀式を押し付け、表徴を要求する。身体のこの政治的攻囲は、複合的で相関的な諸関連に応じて身体の経済的活用と結びつく。−監視と処罰−
身体の作用の科学だとは正確には言えない身体の一つの〈知〉と、他方、体力を制する手腕以上のものである体力の統御とが存在しうる。この知とこの統御こそが、身体の政治的技術論とでも名づけていいものを構成する。−監視と処罰
国家装置と制度が作用させるもの[=身体の政治的技術]は、言ってみれば、権力の微視的物理学に関連してくることであるが、その有効性の場は、言ってみれば、それら装置並びに制度の大仕掛けな作用と、物質性と力とを含む身体自体との間に位置しているといえる。−監視と処罰−
身体の作用の科学だとは正確には言えない身体の一つの〈知〉と、他方、体力を制する手腕以上のものである体力の統御とが存在しうる。この知とこの統御こそが、身体の政治的技術論とでも名づけていいものを構成する。−監視と処罰−
日曜美術館を見て諏訪敦さんの作品を見に九段に行ってきたのでもろもろ
ATSUSHI SUWA 諏訪敦 公式サイト
http://members.jcom.home.ne.jp/atsushisuwa/
成 山 画 廊
http://www.gallery-naruyama.com/japanese/news.html
「一蓮托生」展見に行きました - 秋華洞・丁稚ログ
http://www.aojc.co.jp/blog/2011/06/post-219.html
なにしろ、この個展、まず上記のHPの挑発的ともいえる成山さんの言辞が面白い。
「『写実』という差別用語で語られる多い画家」、という作家へのステレオタイプでくくられる事への抵抗。このテキストだけでも、この画廊が凡百のコンセプトで運営されているものではないことが想像できます。
で、靖国神社で集合して参ったのですが、古風でアーティスティックな佇まいを持った不思議なビル。思った以上に狭い空間に、作品がふたつ、みっつ、よっつ・・。解放された出窓の向こうに見える新緑がまぶしい。
面白い作品ばかりでしたが、松井冬子氏を描いたとおぼしき、HP上にも見られる、”差別用語”「写実」で描かれた作品は必見であります。この画廊と、松井氏のエネルギーに拮抗するべく、緊張感を持って描かれた『花を食べる』。黄色い花粉が絵肌を飛び散り、土佐派の「炎」のような、花弁を絞った花汁がほとばしるような赤が画面を横切る。怖さと美しさがある。
残念ながら期待してたよりほど絵は飾られてなくてちょっとガッカリしたんだけど「周辺のもろもろで得たものはあったなぁ」と改めて
成山画廊さんとこでは同作家の大野一雄さんの絵画集が販売されてたらなぁ、と期待していったんだけどそちらもなかった
そんでまぁテンションは下がったんだけどそれなりに筆致を確かめつつ
特に意図するところもない単純な感想としては、「なんか、アニメの絵みたいだなぁ」、と思った。
それはまぁ自分が描く側の人間でもなく、また筆致法に通じてないがゆえの野蛮ともいえるだろうけど
んでもやっぱ作品の数も少なかったし、大判で展示されてる絵もテーマがアニメっぽかったので
それは「本質を捉える」ってことではあるのだろうけど
故意の季節 : 諏訪敦 日曜美術館 再放送
http://blog.livedoor.jp/oph_oph/archives/1498132.html
番組にもご出演された精神科医で美術評論家の三脇康生さん
からもコメントがあった。
三脇さんは、作品が「記憶」に基づく制作であったことに評価を
していました。「思い出」によって創られると駄作になることを
指摘しております。
私は、三脇さんの評論活動には詳しくないのですが、「思い出」と
「記憶」の違いは、実体へ迫るエネルギーの違いから区別する必要が
あるとの主張のようです。
諏訪さんは、この「記憶」とは、「事実」とも言えない。
「記憶」とは、事実の周辺を漂う領域をもったものであり、
その本物の記憶に絵画でせまるのは闘いであるとも言う。
かつて、川喜田二郎氏は、KJ法という文化人類学の
フィールドワーク(現地取材)を、発想法として社会一般の事実を
探る手法として広めた。
そのフィールドワークの手法のキー概念は、
「混沌をして事実を語らしむる」であった。
諏訪さんの制作手法も、また人間をして事実を語ろうとした
結果として、細密画という作品が出来上がってくるようだ。
その闘う制作は、結果、曖昧な思い出を取り除き、記憶への創造の
可能性に挑むことなる。
人は「あるがままの現実」を捉えられない
一定のフレーム、常識に沿って現実を切り取り「視覚」として構成している
それはたとえば「分裂病」患者の手記なんか見るとわかる
彼らは常識から放たれたときに思考のみならず、『ゆるがないとおもわれたいた基礎』ともいえるような部分、たとえばモノの見え方までも違ってくることをこちらにさらけ出し、われらの常識への自問を促してくる
視覚の「常識(枠組み)」としての遠近法や、音の「常識」としての平均律
それらのフレームが我々の世界認識を限定し、同時にその内部でのパフォーマンスを高めてくれた
「語りえぬものについては沈黙せねばならない」
なまじっかの常識でそれを措定してしまうよりは沈黙せよ
しかし、
それは「語りえぬもの」の存在を近代の常識的に否定することではない
諏訪の絵はいわゆる「写実」といわれるとピンとくるような筆致の細かいものであり、「抽象画」や「現代アート」などの言葉でイメージされるもの異なった表現となっている
人の目、あるいはそれを支える社会的常識からリアルを追求した上で、その「リアル」を疑いその人物の本質に迫る、というもの
「人の本質」とはたとえば「人は刻一刻と変わっていく、成長なり老衰なりなんなりして変化していくものなのに、子供の頃のあの人と大人になったあの人でそれでも『同じ人だ』と思わせるようなものとはなんだろうか?」ということ
動物が「あのひと」だと認識してくれるそれとも近いのかも知れない
現時点で、その時代の常識的視覚のフレームからみえている事象を通り越した本質としての事物・事象をとらえること
それがカメラ的「写実」に対して印象派以降の絵画芸術の課題となってきたものだと思う
諏訪の作風もその流れの中にあるように思うが、では抽象=イデアともいえるような物象を廃した認識イメージに偏り過ぎず、精細な筆致、デッサンにこだわるのは何故なのか?
それがこの辺かなぁ、と
[書評]絶頂美術館(西岡文彦): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/06/post-7c0d.html
本書では美術史的な文脈は添え物のようにも見えるが、やはり多少なり美術史に関心を持つ人にとって面白いのは、すでに1990年代以降語られきてはいるのだが、印象派を中心とした「近代絵画」幻想の解体としての、新古典主義だろう。
その文脈で興味深いのは、近代絵画に対応する新古典主義というより、新古典主義のほうがむしろ理性主義として近代的であったという点だ。逆に、では、従来近代絵画とされてきたものは何であったのか。
私個人の印象の域を出ないが、高校生のころから美術好きでデパートの絵画展巡りをしてきた自分、また、小林秀雄「近代絵画」(参照)といった、まさに近代化の過程での近代絵画という文脈で精神形成をしてきた自分にとっては、近代絵画の解体はそれなりに重たい意味を持つ。うまく切り出せないが、一つ明確なのは、やはり西欧における肉体とエロスの関連だろう。直感的に言えば、ミシェル・フーコー(Michel Foucault)の晩年の知的作業も関連している。
もう一点、ニューズウィークなど米国誌を読むようになって気がついたのだが、米国における近代絵画もやはり類似の線上にあり、そしてむしろこれらの、日本や米国などの各種の近代絵画の特質は、ある種の啓蒙的な模倣性にあるのではないかということだ。むしろ隠された焦点は、日本や米国の近代絵画の実態ほうにあるのではないかと思えてきた。特に、米国印象派が興味深い
ぼんやりと「西洋の絵画、もしくは彫刻において描かれている身体というのは嘘です。身体は日本の身体画みたいな感じ。あれは、現代の人からみると変に見えるかもだけど、あの時代の人たちの身体の動きを表しているように思います」という言葉を思い出す
近代→現代人な教育を受けた我々としてはダヴィデ像みたいな彫刻の身体が「リアル」に感じるものだと思うけど、| ゜Θ゜)<そうでもないよ、と
浮世絵の身体も一部がデフォルメされてておかしくデッサンほかおかしく思うけど、「動き」とその時点での「焦点」、そこから生じる「リアリティ」→記憶に残るような「印象」ということを言えばあれらの絵は「リアル」といえるのかもしれない。少なくとも、当時の人たちにとってはわれわれより「リアル」だったか
そういう意味で「近代の理性が要請した身体」のようなことを思う
諏訪敦の描いた大野一雄の身体が観たかったのもそういった理由からだったのだけれど…まあ、これはDVD借りれたので是しとする
身体は理性的な人の『ジョーシキ』が直接的に刻印される場でもあるが、同時にもっとも親近な『理性ではどうにもならないもの』でもある
その意味で「身体」「性」「生命」が近代的合理性の誤謬を読み解く鍵となる可能性がある
白河夜船: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213045538.html
テオ・アンゲロプロス、1995、「ユリシーズの瞳」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/213903209.html
頭の良い人ほど他人や他人の言葉を内面化したものに流されて自家中毒してしまうので
近代的理性の要請と印象派的なものの止揚としての米国印象派からの流れ
ワシントンナショナルギャラリー展
http://www.ntv.co.jp/washington/index.html
Avec Plaisir: ワシントン・ナショナル・ギャラリー展を見て(その3)
http://blogs.dion.ne.jp/yumimbow/archives/10189285.html
ワイエスなんかもその流れの一端といえるだろうか
アンドリュー・ワイエス - Wikipedia
http://bit.ly/nicFQM
ここでもう一度、本エントリ冒頭の「なんか、アニメの絵みたいだなぁ」という感想に還る
思うのは deviantart なんかで「Art」としてあげられてるものがアニメ(マンガ)的なものと絵画的なものとの中間のような印象があること
Browsing Traditional Art on deviantART
http://browse.deviantart.com/traditional/
上記はカテゴリーを限ったけど、全体を見渡すとさらにアニメっぽいものが多いような
deviantART: where ART meets application!
http://www.deviantart.com/
それは彼らが「なにかものをつくれるひとはArtistなんだよ」ってゆるいArt認定(と尊敬)があるからかもだけど
一枚絵として「絵画とマンガを分けるもの」「マンガ的なもの」として思い浮かぶのはデッサンの取り方、デフォルメだったりする
あるいは、いわゆる「リアル」とされているものからの距離か
一枚の絵にかけられている筆致の量の違い、という単純な違いもある
ここで少し思うのはアメリカ的な実践性との関係ということ
哲学・思想、あるいは学問領域全体に通じるのかも知れないけど、アメリカにおける「知」の徹底的な実践性と衒学のスポイルのような感覚
職人的なものを排除し、実践を量産させるために、その前段階として知のエッセンスの抜き取る方法
完全理解でなくてもいいのでそのテクスト(思想家)のエッセンスを抜き取りデフォルメ化して汎用化するような、そういう実践性があるのだろうかプラグマティズムには
すくなくともCutulral Studiesを出自とするマスメディア批評の方法(encoding / decodingモデルに代表されるもの)がカナダやアメリカの南部に伝わったとき、かなりスポイル→デフォルメされているように感じられた。
それは「単純な平板化」と即断することもできるけど、いわゆる衒学のようなものにドライブされがちな知の自家中毒性を相対化する態度なのかもしれない
ディベートが生まれてきた経緯と同じく、いったん自分たちの行っている「知」そのものをメタレベル(上位レイヤー)からカプセル化して相対化し、その上でそれらの知をポートフォリオしてリスクヘッジする、というような
もしそうであるならば、アニメ(マンガ)的な描き方もプラグマティズムといえるだろうか?
というか、アメリカのアニメやマンガは「子供のもの」扱いで平板なものが多いので、それに対してたとえばジャパニメーション的な筆致、情報量の多さはそれだけで「Art」の領域であるという認識なのかもだけど
そう考えるとやはり日本的なマンガ・アニメ・Artのフラットな状況のほうが異質なのだろう
けっきょくは「マンガ的」であれ「Art的」であれ、なにかおもしろいもの、凝り固まった通常のやり方では届けないようなものが表現されていれば良いのだろうけど
(とりあえずワシントンナショナルギャラリー展には行こう)
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タマラ・ド・レンピッカ展に行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/143827446.html
そういえばタマラも「( ゚Д゚)<印象派なんかデッサンもちゃんととれてないおポンチ絵じゃない!」みたいなこといいつつ、晩年は新古典みたいなことしてたなぁ、と思いつつ
裸婦と戦争 画家・宮本三郎の知られざる闘|日曜美術館
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/0619/index.html
「新古典的な『写実』とイデアの間の身体」的な課題として、こちらも見ておきたい

