「乙嫁語り」の近刊関連でTLで「かわいそう >< 昔の(モンゴルの)女性不自由! 女性が道具みたい!」みたいなつぶやきがあったけどなんか違和感あったので直近で読んだ「女性」関連マンガ絡めつつなんとなくなエントリ
こちらでもちょっとつぶやいたんだけど
Togetter - 「現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について」
http://togetter.com/li/156880
「そんなこといっても現代の日本人も『自由』ってほど完全に自由ではないし」ってのはある
社会的機制や生物的機制というプログラムのようなものにドライブされて半ばロボットのように行動パターンが決まってるので
そこからはみ出ていくことを「自由」というのだろうけど、そうすると却って生活が困窮して不自由になることしばしば
てか、
まずもってお金方面で安定を獲得すればある程度「自由」度は高まるのかもだけど
(つっても、当人に現状把握能力や自身の行動に対しての誠実さ、自制心があるかにも依るだろうけど)
そして、
現代、あるいは違う文化環境から見てどんなに「不自由」なようにみえても、それにはそれの合理性がある場合があり、そこで人々全体の「しあわせ」に寄与しているのであればまったく問題はない(むしろ内政干渉的冷やかしうぜえ)ってことはある
砂漠のような厳しい環境であればそれに即した厳しいルールが必要になるわけだし、それに対するように「はじめのルール」は設定されていったのかもだし
「乙嫁語り」についていえば全体のテーマがまさにそれ、「現代人とは違った価値観があり、現代人から見れば窮屈に見えるかもだけど彼女たちはその中で彼女たちなりの幸福を探ろうとしていたし、実際、違った形で『不自由な自由』を生きる我々からすると彼らのほうが自由に思えるっことはあるかもしれない」、ということ
これはモンゴルに代表される「未開」への幻想として「柳沢教授」にも共通していた
「乙嫁語り」の著者に帰れば「エマ」もそういう作品だった
「不自由」な中での、あるいは(現代からすると窮屈すぎるように見える)「規制」の中での「自由」
(それがゆえに叶えられていたとも言える)当人たちのささやかな幸福や満足への焦点
ここで少し「人は自由すぎてもしあわせを感じられないのではないか?」という別のテーマに想いが移る
「なにをやってもいい」とされる野放図な無限の広がりの中で、人は「自由」を謳歌できるのだろうか?
(少しタヒチの「楽園」が頭をかすめる)
そういう大きなテーマとは別に、もう一度「規制の中での自由」なるテーマに帰るとすると
「森薫と似た作家」といえる笠井スイの今作においても同テーマは基底となっていたように思う
舞台は「エマ」よりも少し未来のイギリス
フランスとも近い雰囲気があるような、蒸気機関の恩恵を受けつつもまだ煙突掃除の少年たちがいた頃のイギリス某所の風景
ジゼル・アランは良家のお嬢様で、でも、そこでははみ出てしまうほどの感性と才能の持ち主で、だからカゴから出ても「いい」ことになる(お姉さまたちの尽力によって)
カゴの外の世界は「自由」だけれど、その分「キケン」や「不安」とも隣合わせで、
そういったものとの対峙において「仕事を介した契約関係」という事情から簡単にケツをまくるわけにもいかず、ここに仕事における「責任」が発生する
その「責任」-「仕事」という規制を通じて、ジゼルが次第に大人の女性になっていく
単なる野放図な自由ではなく、自分の中で「責任」を感じ、それに応えるように葛藤し成長していくことで大人になっていく
ジゼルが反発する「お父様」のようなオトナにならないで済むのは最初の感性、子供のような感性を保ち続けられるような環境が彼女を守ってくれるから
(実際、ジゼル・アランはよく笑い、よく泣く)
それもいずれ、大人へのステップの中で選択し、あるいは卒業していかなければならないのかもだけど
少なくとも今の段階では、ジゼルは稀有な感性で関わった人たちの心を救い、同時に自分も成長していく
ポストヴィクトリア朝というゴリゴリの「規制」を前提とした環境の中での宝石のような奇跡
「宝石のように素晴らしい女性」への成長の軌跡を捉えた物語
「女性への規制とその乗り越え」ということに関して続けて言えば、白井弓子の一連の作品もそれに当たるように思う
「WOMBS」で示されていた「異星人の子供を腹に宿して空間ジャンプ能力を得る」というのは「現代女性が結婚によって生活力を得、生活の選択肢を広げていく」ということへの隠喩のように思われるし
「天顕祭」で示されていたヤマタノオロチの呪いは男女における性の機制のように思われた
「WOMBS」において、女性は得体のしれない異星人の性-生を擬似的に胎内に受け容れるわけだけど、それはそのまま現代において男性という性と生を受け容れることに当たるだろう
「結婚によって生活力を得る」 - 「異星の生命体を受け容れることによって実戦投入に必要な特殊能力を得る」ことによって彼女たちはその日の食事を満足に得られるようになる
しかしその後に、体内に宿った生命体と自分の「生」についての実存的内省・葛藤が生じる
この作品では最終的に「そういった機制でさえも彼女たちの自律的な選択であり未来へのポジティブな可能性をふくんでいた」という解への説得力のある物語展開が必要だったように思われるが、残念ながら中途で終わった
それが社会的機制(金銭)の隠喩的な物語だとすると、「天顕祭」においては「性」という生物的機制がテーマになっていた
男女の性という生物的機制が呪いのように個人の自由に付きまとってくる中で、それを選択し、溺れるのではなく自律的に統制し乗り越えていく物語
色合いとしては折口信夫の「死者の書」も踏まえているのかもしれない
折口信夫 死者の書
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/4398_14220.html
「ヤマタノオロチが呪いのような性の象徴である」という点についてはこの辺りが関連
あるいは「孔雀王」なんかでも(パロディではあるが)扱われていたので別件的に共通する要素をもった日本神話的なテーマなのかもしれない
よしながふみなんかもその辺はずーっとテーマにしてきたところか
「大奥」なんかはまさにその辺りの「金-労働における男女の非対称性問題が解決されたとしたらどういう社会であったか?」をSF的に描写していった時代劇であったし
「愛すべき娘たち」ではもっと根源的な、「女性という性と思考の特殊性」について、元来ならネガティブに思われるような要素をポジティブに捉えられるように描写していたように思う
「女の中に他者がいる」あるいは「それこそが女」
それは当人の意志では止められないもの
「愛する」ということ 「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html
バタイユの眼球譚なんかもその辺りの「どうしようもない生物的機制としての性」にむしろ溺れることで乗りこなしていくみたいなテーマだったか
それらを通じて、ふたたび「性」とか、「女」とかについて考えていこうかなと思うに
Togetter - 「position 2 「女」と「性」についての日記用メモ」
http://togetter.com/li/156643
ちょっと今日は遅いのでこの辺にして叉の機会に
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追記:
「現代の働く女性」についてはこの辺がいいかも
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「モテ」と「金」だけじゃない結婚への着地と周辺についてはこの辺
そういや旦那(吉田戦車)のほうは特に結婚生活について描いてないのかしら?(( ^ω^)・・・思えば吉田も尖っておった)とか思いつつ、安野夫妻ということならこの辺かなぁ
エヴァもこれと「式日」見てから見るとだいぶ違う
あるいは庵野秀樹のこの「大人」宣言見てからだと、「今度は最後まで見ても裏切られないんだな」、と期待される
ニュータイプの庵野インタビュー主要点まとめ
「スタッフやお客さんのためにもこれからもアニメを作り続けていきたい」
「動画マンや新人の育成なども今年から会社として取り組んでいく」
「頑張って面白い作品を作り続け、なおかつ当てて、次に繋げていきたい」
「会社として安定した収入や保険など、可能な限りスタッフの環境を良くしていきたい」
「作品を作って作品で食べられるようにしたい。儲かったらスタッフには少しでもお返ししたい」
「賞与などの金銭的なものだけでなく、社員旅行など福利厚生にも力を入れている」
「社員の老後まで考えて、きちんとした会社を作っていく。社長として安定した経営を心がけている」
「自分が好きなアニメや特撮に恩返しというか、そういった文化を遺す作業もしていきたい」
「おもしろい作品を作るのは当然として、そのうえで商品としてヒットさせていくことが必要」
「いずれスタジオの枠も取っ払い、業界を縦断したものづくりが出来ないかと考えている」
「Qについては、少しでもおもしろくなるように頑張って作っています。もうしばらくお待ちください」
『あの花』は"今期一番のアニメ"と呼び声 他|やらおん!
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-1843.html
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