2011年06月27日

屈せざるものたち




【フーコーの生権力論】生権力:ヒトという種における基本的な生物学上の特徴が、ある政治(政治的戦略、ある一般的な権力戦略)の内部に入り込めるようになるにあたって用いられる、様々な権力メカニズムからなる総体。−安全・領土・人口−


精神は、身体の周りで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出される。その権力こそは、罰せられる人々−より一般的には監視され訓練され矯正される人々、狂人・幼児・小学生・被植民者、ある生産装置に縛り付けられて生存中ずっと監督される人々に行使されるものだ。−監視と処罰−


身体は直接政治的領域の中に投げ込まれていて、権力関係は身体に無媒介な影響力を加えており、身体を攻囲し、それに烙印を押し、訓練し、責め苛み、労役を強制し、儀式を押し付け、表徴を要求する。身体のこの政治的攻囲は、複合的で相関的な諸関連に応じて身体の経済的活用と結びつく。−監視と処罰


国家装置と制度が作用させるもの[=身体の政治的技術]は、言ってみれば、権力の微視的物理学に関連してくることであるが、その有効性の場は、言ってみれば、それら装置並びに制度の大仕掛けな作用と、物質性と力とを含む身体自体との間に位置しているといえる。−監視と処罰−


私の考え方だとされたことが多いのだが、「権力、それは悪だ」というサルトルの考え方は、私の考えとはおよそかけ離れている。権力とは戦略的なゲームのことです。権力が悪ではないということは、誰もが解っているはずのことである。−自由の実践としての自己への配慮−



国家装置と制度が作用させるもの[=身体の政治的技術]は、言ってみれば、権力の微視的物理学に関連してくることであるが、その有効性の場は、言ってみれば、それら装置並びに制度の大仕掛けな作用と、物質性と力とを含む身体自体との間に位置しているといえる。−監視と処罰−



私のやっている、哲学[=真理の政治学]における権力メカニズムの分析とは、「我々の社会の中で展開される闘争・対決・闘い」と「その戦争の諸要素である様々な権力戦術」によって生産される様々な知の効果がどのようなものであるかを示すことを役割とする。−安全・領土・人口−


命令形の言説によって貫かれていたり下支えされたりしているだけの理論的言説や分析などは存在しないということ。なすべきことに関する次元は現実の力場の内部にしか現れえない。この力場においては、語る主体が単独で自分の言葉から出発して創造することなどはできはしない。−安全・領土・人口−


「技法 kunst」はその派生語(「凝りすぎる verkünsteln」「ふりをする erkünsteln」「気どった gekünstelt」)とともに、『人間学』に繰り返し現れる用語の一つであり、また最も翻訳しにくい用語の一つである。−カントの人間学−



制度としての政治権力の理論は、普通法的な主体の法律上の概念に基づいているが、それに対して統治性の分析(可逆な諸関係の総体としての権力の分析)は、自己の自己への関係によって規定された主体の倫理に基づかなければならない。−主体の解釈学


プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。−主体の解釈学−


個々の道徳的行為は、必ず特定の道徳的振る舞いに依拠し、道徳的振る舞いは必ず道徳的主体としての自己自身の編成を要請する。更にまた、この道徳的主体の編成は、〈主体化の様式〉なしに、またそれを支える〈修練〉と〈自己の営為〉なしにはありえない。−快楽の活用−


私が提供しようとしているような型の分析によって、「権力」「統治性」「自己と他者達の統治」「自己の自己への関係」、この四者は連鎖して網目のようにつながっていること、これらの概念を中心にして、政治の問題と倫理の問題を連結することができなければならないということが解る。−主体の解釈学−


「技法 kunst」と派生語が指示するのは、何らかの技芸や技術ではない。何かが与えられる時、必ず人間の企てという危険に曝されるという事実が指示されている。人間の企てが立ち上げられると共に危険が根ざすのだが、この企ては全く同時に危険を避けるために自由意志に訴える。−カントの人間学−















最近クーデルカの写真展にいって



夜が明ける前に ジョセフ・クーデルカ写真展「プラハ1968」
http://soraartistname.blog42.fc2.com/blog-entry-49.html





「なんとなく感じることがあった / ちょっといろいろ思うところがあって観に行って刺激喚起された」のでつらつらと




これを観に行こうと思ったのは「写真というのがなんかわかんないから」がまだあるので


サルガド展でいちおなんとなく「写真も面白いものかもしれない」と思ったんだけど、




サルガド展にいってきたよ  アフリカという神話と複製技術の行く末: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134989378.html




あれはサルガドがかなり特殊だったってのもあるのだろう(かなり絵画的だった



「わかんない」の内容としては武芸における武器術と体術の違いと同じように、「道具を介して自分のリアルな実感を操作する感覚がわからない」みたいなの


メディア論なんかやってるし字義としてはわかるんだけど、、、


武術なんかの場合だと「とらわれないように」って言い方がある


「身体や道具にとらわれないように」「そこに居つくことになるから」「居つくと動きがわかりやすくなるから」「そこに居ついてる(そこを中心に攻撃してくる)のがバレバレになるから」「結果的に体と武器が離れてさばきやすくなる」


そういう感じで、武器(道具)は身体の一部として使うように思うんだけど、そうでありながら「武器の好きなように動いてもらう」って感じになる


けっきょくのところそれは重心の問題で、武器の重心と身体の重心の止揚というか…

身体の内部でもいくつか重心や力の始動点を分散させて、それらを最終的に一点に統合させて発露させるっていう…まぁ書いてみると複雑なことしてるわけだけど(そんで、それは字義であって、自分的にはまだ実感としてはマスターしてない




そういう「道具は一体でありながら勝手に動いてくれるものであり、それでいて一体だ」っていう感覚


そこから生まれる「日常的な自分の捉え方では捉えられないようなリアリティを捉えられる」…そういう(ベタに言ってみれば)「ハイパーリアル」を実現させるような道具(メディア)の底力のようなもの


それがカメラっていう複製技術時代の嚆矢ともいえるようなメディアの使用術の中で体現されているのなら、それを確かめられたらいいなぁってぼけーっと思ってる


なんだったら「絵画」を超えるようなリアリティの体現




それはサルガドのときにおぼろげに感じたように思った

(白黒という色彩の限定、カメラというリアリティの限定を通して却って「リアル」な陰影 → 光が表現される感覚)



クーデルカにも半ばそれを期待し観に行った



あとはいまの情況に合わせてつらつらと思うことがあったので





展示されていた写真群は1968のソ連によるチェコ侵攻、結果としていわゆる「プラハの春」につながる社会主義国家の市民革命的な気運の萌芽につながっていった歴史的事件を追うものだった



ソ連を中心として社会主義→計画経済が実施されていたがいつまでたっても国が豊かにならない…そのことに焦りをもった諸国の疑念を一気に圧し潰すが如く、またアメリカほか西側諸国への牽制も兼ねてか、ソ連はいきなり軍事力という暴力の牙をむいた



「うわwwまじww   ……冗談だろ」といっても通じないぐらいに留まってくれない津波や地震のように


「なにも悪いことをしていない」人々の希望を踏みにじる不条理として暴力の長靴とキャラピラの音が石畳に響いていった




多くのチェコ市民はそれに反目しつつも圧倒的な暴力の差に諦観をもって臨み、またある者は浮かれて同調し、またあるものは自己の不安を払拭するように無謀な打ち壊しに参加し、ある者は死を覚悟して兵士に向かって直談判した


Invasion 68
http://bit.ly/iZ4ttw



老人の瞳が語る


「何回も繰り返されてきたことだ。何を言っても無駄。悲しいが仕方がない」


いや、「仕方がない」ではなくただ言葉にならない思考のしびれのような低い停滞を抱えてぼんやりと戦車の群れを見送った




その様子に直近の日本での地震災害とそれに伴う原発事故、原発事故を囲む「運動」的なものを思ったり



運動への関わり方も人によって異なるので一概には言えなくて、中には真摯に観想的態度の中から「ここだけは譲れない」というラインを防衛するために声を発していく人々もいたが、中には明らかに思慮もなく祭り的にそれに加わる人々もいた


不安を払拭するために「ただしさ」という神輿を担ぎ、内容いかんに関わらず「正しくないもの」を叩くことで自分たちが「ただしいもの」に繋がっているという安心を獲得していく人々



その景色は1968年のチェコにもあったようだ




「若い思考」がある限りそれは続いていくのだろうけど



ポーランド / 反核的なものが関わるというと吉本隆明の「反核異論」が思い出される



吉本隆明、1982、「<反核>異論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/108002595.html



そこでいわれていた「現状をみずに」「単に理念的に運動(祭り)したかっただけではないですか?」というのは直近のこれにもつながる



M.ウェーバー、1919、「職業としての政治」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/211827975.html



「ロマンティシズムに走り過ぎることでリアリズムが忘れ去られてしまう」ということだけれど






かといって「リアリズム」だけで土壇場の現状が回るのか?、といえば判断留保されるところだろう





ふたたび1968年のチェコに戻れば、抗議運動などすれば殺されるの当たり前な情況だったのだから本来なら抗議などすべきではなかった


市長がいうように「市民自らが暴力行為を仕掛けず、暴力が行き過ぎるのをまってください」というのが合理的判断としてはただしい





しかし、彼らは抗議する





そうすれば殺されるかもしれないと分かりきってる情況の中で





その延長としてソ連への直接抗議団が使節される




プラハ侵攻を受けたチェコの新聞紙かなんかが、ソ連党本部に抗議をしにいった代表団について書いてた文章が印象的だった



正確な内容は忘れたので自分の印象を中心とした大意を言うと、



「われわれはすでに死んだ人間だ。いつ殺されてもおかしくない被支配者だ。 そして、君たちがわれわれの『代表』としてソ連本部に乗り込むということ、それは党本部で抹殺され、歴史の闇に葬られることを半ば当然とすることだ


 それでもなお、君たちは我々の代表として臆することなく訴えねばならない。まさに死を賭して、あるいはそれさえも生ぬるいような決死の覚悟で、だ。 それができないものはいますぐわれわれを『代表』することをやめたまえ」




というようなものだったように思う




「それでもなお屈せざる意志」 を表すこの一文はそのままウェーバーの「職業としての政治」の最後の檄文に通じる。



政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能ごとを目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。


しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない


いや指導者であるだけでなく、――はなはだ素朴な意味での―― 英雄でなければならない。


そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。


自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―― 自分の立場から見て ―― どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。


どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。



そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。






そして「民族」としての、あるいは「市民」としての屈せざる意志というのは最後の授業のことを思ったり



最後の授業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%8E%88%E6%A5%AD






そういった「意志」というのは合理性や表面的な利害関係を超えたもっと力強いもので


それは反面、狂気のような危うさを持ちつつも、人を牽引していく強さのようなものを併せ持つ




グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html




歴史は、合理性に基づいた「進歩」的なスケールだけではなくて、こういった狂気のような意志が関わって動かしてきたように思う





しかし、それはあくまでも心情(感情)的倫理であり、行動の最初の資源としての情熱に過ぎない


それを元にして、たとえば怒りに任せて<他者>を断じ、交渉を排除しているだけでは事態は進展しないことがしばしばとなる




政治的交渉(外交)は利害関係にあるものたちが立場や思想の異なった<他者>を調停することを本分とする、はず




「われわれは同胞を、家族を殺した彼らを決してゆるさないし忘れないだろう。  

 しかし、利害のテーブルを同じくするわれわれがそれを調停するために交渉に当たることはそれとは別の事柄だ」


という冷静な認識に基づいたタフな交渉


それをもってはじめて自分たちの同胞を困難な情況からより良い事態へと導くことができる




そういった交渉を可能にするのは政治的情熱であるとともに一定の技術・術理(クンスト)なのではないか?





たとえばかつて、明治の公共圏的なものとして「江湖」的なものが日本でもモデルネとされたことがあったようだけど



公共圏の歴史的創造 − 江湖の思想へ
http://bit.ly/krs9tw


江湖 - Wikipedia
http://htn.to/5NGS4d



その元となった中国武侠的な江湖において公共性的な意識が共有され機能していっていたのは、「私心を廃することを前提としてカ完遂するような『おおやけ』を元にした強烈な目的意識を共にしていたから」というのもあるのだろうけど、「彼らが武術というクンストに通じていたからではないか?」と思うところがある。


武術というクンスト、「己れを消し、自らと相手を冷静に観察し、突破点を探る」というトレーニングに慣れていたのが「私心を廃しおおやけに尽くす」ということにも繋がっていったのでは?



同様のことは「職業としての政治」にでてきた官吏にも思った


彼らのマシーンに徹するような術理の徹底

官吏の場合は「政治家から発せられた政のプログラムを行う」という「プログラムの徹底的実施」(知のインデックス化)的なそれだけど


同様に政というプログラム(コード)を書く人々にもプロフェッショナリズムの徹底は必要だろうし


また、


それらを<他者>との交渉に活かす際には交渉術という術理も必要になってくるだろう



そして、そうやって統制され錬成(止揚)された情熱と冷静が不屈の「意志」となり<他者>という岩を穿つ乾坤の一滴となっていく



フーコーがたびたび謎ワード的に「権力に対抗するにはをクンストが必要」みたいなことを言っているけれど、あれはこの辺りに通じるのではないか?(未確認ながら)


けっきょく権力、というかその元の資源による煩悩(性や金その他)を統制するのがクンスト?



(あと、そういった基本線のほかにその場ごとの独特の事情・要素に配慮したエゴの調整の必要性があるし、日本の江湖、あるいは「講」や「結」などといった協働的場面でもそういった場面があったように思う)





そうやって統制された「意志」をもって情熱という狂気(デーモン)を統制し、事を成していく








ふたたびクーデルカを観に行こうと思った理由をぼんやり



クーデルカはアンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」のスチール撮影に関わっていたそうな


Sightsong: ジョセフ・クーデルカ『プラハ1968』
http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=3727916


夜の約束まで時間があって、4階の図書館を覗いた。目当ては、1997-98年に写真美術館で開かれた『ユリシーズの瞳 テオ・アンゲロプロスとジョセフ・クーデルカ』の図録である。映画もテレビも見ないというクーデルカだが、テオ・アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』(1994年)のスチルを担当したのだった。従って、ギリシャ、マケドニア、アルバニア、ルーマニア、旧ユーゴを旅した記録になっている。

寒そうな雪景色のマケドニア、主演のハーヴェイ・カイテルが眉間に皺をよせて、車の中から不安そうに外を眺める瞬間。孤独な犬。図録にはクーデルカの言葉も引用されている。




(ああ、しまった図録がおいてあったか。。)




テオ・アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』DVD評 yohnishi's blog (韓国語 映画他)/ウェブリブログ
http://yohnishi.at.webry.info/201105/article_24.html

 ハーヴェイ・カイテル演ずるギリシャ出身の映画監督Aが探す映画が20世紀初頭にギリシャで初めて映画を撮ったマキナス兄弟が撮影したはずのバルカン半島に関する未現像の記録映画。
 もちろん20世紀の初頭に撮った未現像のフィルムが100年近くも経って現像できるはずもない。フィルムが冷凍されていれば、フィルムの未現像の潜像が残っている可能性はあるが、常温で保管していれば化学反応が進行し、潜像は消えてしまっているはず。
 だからマキナス兄弟の撮った未現像のフィルムとはちょうど『薔薇の名前』に出てくるアリストテレスの「失われた」、『詩編 第3部』と同じ役割を果たしている。

 つまりそれは、失われたバルカン半島の平和な人々の暮らしや文化の象徴なのであり、それをふらふらと彷徨しながら探す行為は、バルカン半島の平和を取り戻す難しい道のりのシンボルなのである。だからこそ、Aはサライェボへと向かうのである。

 そしてドナウ川を運び出されるレーニン像にも、そこに象徴的な意味が込められているのは当然。




これは以前に講義で見さされてねてしまったんだけど(cf.「子どもが寝つかないならアンゲロプロスの作品をみせるがいい」)


なんとなく気になっていてもう一回みようと思っていた



クーデルカを観に行ったのは半ばこの作品を消化するため



あるいはこの作品の文脈を自分なりに昇華していくため




アンプゲロプロス単体で言うと、ギリシアというヨーロッパの中で翻弄された地を中心に、ヨーロッパ全体の、あるいは人類全体の戦争の歴史を淡々と振り返っていく作風のように思う(個人的にはその地政学的配置は沖縄を想わせる



テオ・アンゲロプロス - Wikipedia
http://bit.ly/iHzPnm


『シテール島への船出』- 左右対立解消後の虚無感を描くアンゲロプロスの映画 yohnishi's blog (韓国語 映画他)/ウェブリブログ
http://yohnishi.at.webry.info/201106/article_10.html



「淡々と」というか、ロマンティックで安易な楽観を廃して


クロアチアやスロヴァキア、スロヴェニア、あるいはイスラエルといったヴァルカンや地中海周辺の爆弾のような地域に暮らす人たちが現実に疲れないために保ち続けているような瞳の有り様がそのままアンプゲロネスやクーデルカのカメラ眼のテンションにも共通するのだと思う



その瞳はホロコーストをみつめ、ヒロシマをみつめ、ギリシア、ヴァキア、十字軍、あるいはトロイアの戦乱を見つめてきた


そういった瞳からヒロシマ的なものに対して外国人がしばしば持つオリエンタリズムともいえるような幻想を、あるいは日本人内部にもあるような仮託された物語のようなものを見つめ直していきたい



彼らは単純に「いい人」で、それがゆえに良心をもってヒロシマを語ってくれるのかもしれないけれど、それによってヒロシマの人々が実際に生きてきた経験や葛藤が塗り替えられていくこと

前景化された「良いヒロシマ」がドライブされて「生活としてのヒロシマ-広島」の問題がなかなか解決されていかないこと

それを部分的に揶揄するように、一部のワカモノが広島の空を汚し、フクシマに対しても中途半端なコミットをし人々の感情を混乱させたり逆なでしたりしていること


webDICE - 骰子の眼 - 原爆ドームの空に“ピカッ”で『Chim↑Pom─ひろしま展』中止となった問題を考える
http://www.webdice.jp/dice/detail/1103/



そうやっているうちにヒロシマの第一世代は失われて、歴史や記憶が途絶えていってしまうこと


そういう事に対して鈍感だったりする




それを諦観や苛立ちをもって眺めていたけれど、もう少しきちんと見つめ直していけるのではないか



ホロコーストやギリシアの蹂躙、あるいは東西冷戦の境界に立たされた小国に暮らす人々の苦渋や葛藤、不屈の魂のようなものが、ヒロシマとホロコーストという「違っていても共通する」というびみょーなキャズムのようなものを埋めていく思考のきっかけになってくれるのを期待する













おそらくわれわれの間のキャズムは翻訳不能で、



「ヒロシマ、私の恋人」&「二十四時間の情事」 マルグリット・デュラス : FRENCH BLOOM NET-INFO*BASE
http://cyberbloom.seesaa.net/article/50348476.html

「ロスト・イン・トランスレーション」:英語映画レビュー
http://www.eigotown.com/culture/film_review/contents/lost.shtml




ともすればその歴史的重層性の違いや個人的な生きられた経験の重みから軽重の違いがあるのかもしれないけれど




存在の耐えられない軽さ : 賢者の図書館 (Under Construction) : livedoor Blog(ブログ)
http://bookdiary.livedoor.biz/archives/51527698.html





それでもなお、啓蒙や理性といったゴリゴリの圧力とは違った形で、なんとはなしの親和性のようなものが生まれることを、閑かに期待したい







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関連:
ジョン・ダワー、2004(1999)、「敗北を抱きしめて(上)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/109044299.html


<ヒロシマ>ということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/39864267.html



東琢磨『ヒロシマ独立論』を読む。:2007-08-29 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
http://d.hatena.ne.jp/solar/20070829#p1



哲学するサラリーマン: バタイユのヒロシマ
http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/1376217.html



生きる術はそばにある (ホロコースト-安保-自閉→自殺  / ブランショ-レヴィナス / 「生きていてすまない」)
http://www.cokes.jp/pf/shobun/html/tyosya/index.html



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Sightsong: ミラン・クンデラ『不滅』
http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=2499714



タグ:ヒロシマ
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