2011年06月25日

M.ウェーバー、1919、「職業としての政治」

「見ないで書いてみよう」的にできるだけメモ的に




職業としての政治 (岩波文庫)
マックス ヴェーバー
岩波書店
売り上げランキング: 10378





「政治とはなにか?」と問うたとき、ウェーバーは「指導行為である」とする


曰く、「およそ自主的におこなわれる指導行為なら、すべてその中に含まれる。現にわれわれは、銀行の為替政策とか、国立銀行の手形割引政策だとか、ストライキの際の労組の政策がどうだ、などと言っているし、都市や農村の教育政策、ある団体の理事会の指導政策、いやそればかりか、利口な細君の亭主操縦政策などといった、そんな言い方もできる」



しかし、


それは広い意味での、抽象的概念としての「政治」一般の定義であって、本書(あるいは元となった講演)で想定される「政治」はもっと具体的なものとなる



端的に言えばそれは一般的な政治活動、「選挙によって民衆の意向を代弁をする政治指導者を選出し国政に民衆の意図を反映させる」、という政治の理想状態が機能していないという現状

あるいは、そういった理想状態としての政治活動全般に対して、滞っている現状全般を憂え、「なぜ、理想状態としての政治が実現されないのか?」、ということについて考察を展開する



「政治の理想状態」とはなにか?


本書で具体的に言及されていたわけではないけどそれはルソーの一般意志の議論に近いものではないかと思った


「政治に関わる各プレイヤーが私心-エゴをできるだけ廃して公共の利益に資すること」


本書では言外に、あるいは(「一般意志」という言葉は使われてないけれど)詳細に「私心を廃して政治に資する」ことをめぐった政治的場面について語られていた



「公に資する」ことの逆の志向性、それはたとえば「権力」という言葉に端的に表れる


フーコー的な微細さは伴ってないけれど、ウェーバーの「権力」イメージも「権力とはなにか一人のアクターが恣意的に牛耳ることのできるものではなく、多数のエゴの総和としての慣性のようなものだ」という認識であるように読めた




多数のエゴ(欲望)が吹きだまって全体の流れを滞らせる




「そうならないためにいかなる手続き過程が必要か?」



それが本書でウェーバーが言いたかったことのように思えた




背景から言うと本書は第一次大戦の敗戦の結果、ドイツ全体が意気消沈しつつも若者の間でみょーなロマンティシズムが流行っていた1919年一月の講演


若者たちは敗戦を神の審判の結果のように受け取り空想的社会主義のもとに「革命」の理想に陶酔していた



そこでは「革命」後の世界に対する具体的なイメージもなく、ただ「革命のための革命」が夢想されていた



個人的にはこの情況というのは日本の一部ネトウヨと呼ばれる若者たち、あるいはウヨクでも同じだけれど、その理想の具体的実現過程を考慮せずにお手軽な「正義」に酔い痴れる人たちを想わせる




ウェーバーはそういった若者たちを想定しつつ結論としては「正義(倫理)だけでは政治は回せない」ということを強調する



政治に関わる「倫理」を大きく「心情倫理 / 責任倫理」の2つに分け、前者は「正義」あるいは感情先行的な倫理とし、後者は「その選択/行為による結果に対する責任意識までを含んだ倫理観」とする



前者が情熱的であるのに対して後者は冷静的というか…





本書では特に示されてなかったけれど、その2つは政治家として両方必要な資質であるように思った。あるいは実務家としても



実務家はわりと後者のように冷静さをもって感情を廃することが求められるように思うけど、それだけでやっているとなんのためにやっているのかわからなくなるので



両者のバランスが必要なのだろうなぁ、と





ただ、しばしば心情倫理を重視する人々は実務的な責任や倫理、あるいは自己の内部でのダブスタ的問題について無反省になりがちなように思う



たとえば、近代において政治は国家という機構を前提として為されるが、国家の政治的行為、指導の根拠は暴力だったりする


少なくとも国家内部においては暴力を排他的に独占することによって国家的指導の根拠としている





政治がそういったなかば原罪のようなものを含んでいることを鑑みれば千年王国的な理想主義、ロマンティシズムだけに依って政治を語るということはダブスタであり、一方のスタンダードを意図的/無意識的に無視しているということになる



ここにおいてマキアヴェリズムが必要となり、そういったリアリズムを通じて神の支配/保護からの主権の移譲が可能となっていった

(しかし、それは別の角度からみれば神的暴力にたいするための神話的暴力のオーバードライブという問題へと派生していったが、それはまた別の話)





やや飛ばしたけど各論をもうちょっと詳細に。「国家を介して運営される『政治』とはなにか?」「なにを根拠とし、どういった流れの中で政治的なるものが形作られていっているのか」ということについて



「政治」を「なんらかの事柄に対する指導行為」としたとき、その根拠となるのは物理的暴力となる(cf.柄谷、「世界共和国へ」)


国家はその根拠に正統性を持たせるために、あるいは正統性を認められた国家が唯一のパワーを誇示するために国家内部において国家から派生する組織以外が暴力を持つことを禁じ、管理する。


というか、エゴと欲望の源のひとつである暴力を国家というシステムが一元的に管理する。


(以下は本書からの私的類推だけど)おそらく暴力に関しての内部での統御技術、機構が完全であれば暴力を根拠とした政治システムは権力のダブつきも起こさずにクリアに機能するのだろう。あるいは、金というリソースの管理。


リソース・欲望-所有(排他的独占)にドライブされた人々は、そのリソースをめぐる界(サークル)の中でゲーム(紛争)をしてしまうので、だったら最初から「正しい」あるいは「透明」な機構、超論的審級がそれを管理すれば良い


しかし、そのシステムが完成していないために、あるいはどこまでいっても完成しない恣意性をはらんでいるがゆえにか、システマティックにリソースを管理・運営しようとしても権力のだぶつきが生じてしまう現状がある




本書における「暴力の専有をみとめる正統性」の話に戻る



国家に暴力の専有を認める正統性 → 支配の根拠として、ウェーバーは三つの型をあげる(p11〜)



(1)永遠の過去が持っている権威による支配


ある習俗がはるか遠い昔から通用しており、しかもこれを守り続けようとする態度が習慣的にとられることによって、神聖化された場合。古い型の家父長や家産領主のおこなった「伝統的支配」がそれに当たる』




(2)ある個人に非日常的な天与の資質(カリスマ)が備わっている場合


その個人の掲示や英雄的行為その他の指導者的資質に対して、まったく人格的な帰依と信頼が生じ、それにもとづいて支配を行う



(ex.預言者、選挙武侯、デマゴーグ、政党指導者)




(3)合法性による支配


制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規則に依拠した客観的な「権限」とに基づいた支配



(ex.国家公務員)






(1)は原始共同体のリーダーの権威、(2)は大文字の宗教や選挙システムが確立した共同体内部での指導者の権威、(3)はより近代的で透明な「法」-「国家」システムが完成し、そこへの信頼性を担保とした行政担当者への権威性(信頼性)といえる




「権威」、権力のハブはこのような類型が考えられるが、ではこの中で「より政治的なハブ」とはなにか?

あるいは

ふきだまりがエゴに囚われてしまわないためのより技術的な方法、それを操る政治的専門職としてはどのようなものが考えられるか?




近代的な政治における権力のハブは(2)の選挙システム内部での指導者的位置にいる者と(3)の国家公務員的(あるいは法律への従事者的)専門家が考えられる。


前者がより「政治家」的なのに対して、後者は実務家的、恣意性を配したオペレーター的な役割にあると言える





ここでもウェーバーは政治的専門職の類型をいくつか挙げてそれぞれの性格的分類を試みる(p35〜)



(1)聖職者、(2)文人(読書人)、(3)宮廷貴族、(4)貴紳(ジェントリー)、(5)法律家



いずれも「国家規模の共同体の運営における知のインデックス→使用に携わるもの」として「知」の能力が必要条件とされると同時に、できるだけ金権にダブつかないように「自主独立の(誰の厄介にもならぬ)」人々(ex.資産家や利子生活者)によって行われることが順当とされてきた。


ただ、それらはポリスの政治よろしく「一部の資産家しか政治的空間に関われないのか?」という公共性に対するエリーティズム的排除の問題を含む


それがゆえか、あるいは単に時代的な変化によってか、時代が降るに連れて「政治が無産者にもできるように」政治専門家が政治によって生活できるように報酬が得られるようになっていった



(1)の聖職者は王が貴族に対抗するため政治上の顧問として利用されていった(cf.「チェーザレ」における司祭や司教の位置)


(2)文人は君主の政治顧問や政治文書の起草者として登用されていったが、それは文人の能力の一部であり、全体としては博学な人文主義的教養人を持っていた


(3)君主が貴族の権力の剥奪に成功した後に、宮廷内に召し抱えて取り込んでしまったもの。17世紀ドイツでは文人に代わって宮廷貴族が登用されるようになっていた


(4)イギリス特有のもの。小貴族と都市在住の利子生活者を含む都市貴族。もともとは王が地方の豪族に対抗して味方に引き入れて自治体の官職に当たらせたもの

ジェントリ → ジェントルマン的派生。白洲次郎の言葉で「カントリージェントルマンは(うんぬん)」があるがこれはこの辺りから。カントリージェントルマンは私心を廃して政治に寄与する。(ゆえに前ヨーロッパ的な官僚制の腐敗の折にもイギリスを守る砦となったみたい)



(5)大学で学んだ法律家。自然法とローマ法の綱引きとして。後者は古代ローマの国家的組織運営における経験的知識とルールとして発展していった。ローマ法と自然法の綱引きはいわば「神話的暴力」と「神的暴力」のそれともいえそう。そこから派生する形で大陸法 / 英米法の関係がありそう(大陸法はローマ法由来かな?英米法があの形なのは自然法の影響をより受けたか、ゲルマンやケルトの慣習法との関係か。ちなみに弁護士はゲルマンの「代弁人」から派生とのこと







2つの分類の中で「法律家」「官吏(官僚)」がより透明性をもった政治専門職(あるいは政治に関わるもの)といえるのだけれど、「文人と法律家は起草や演説に関わる」ということでよりパフォーマティブな能力が要求されていく。それは言ってみれば「ケレン」であり「手練手札」ということ。「内容」と「形式」のうち「形式」に当たる


従って、彼らが政治的にデビューする場合、あるいはデビューが期待される場合はよりデマゴーグの性格が期待されていく


そういった人々が政治の表の部分でのケレンであり演出であるのに対して、政治の裏の部分、選挙の部分でのケレン・テクニック的なものとしてウェーバーいうところの集票マシーンに徹する人たちがでてくる。

アメリカではボスと呼ばれる人々、政治の表舞台には出ずに人脈と金を集めてきて「票を集めてくる」人々


彼らは「ある共同体の利益代表を送り込む」という意味ではエゴイスティックだが、マシーンとしての機構それ自体では私心のない、まさにマシーンとも言える働きを見せ影に徹する



選挙活動におけるハブ的な役割を彼らが担う





そういったケレン、「形式」的な飛び道具に対して官吏はぢみに政治システム内部での情報処理を担い行政(政治を行う)のマシーンとなる




再び本エントリ冒頭の「心情倫理」と「責任倫理」の話にもどれば、選挙活動によってデビューする「政治家」がよりパフォーマティブで心情倫理的な行動規範をしばしば持っているのに対して、政治プログラムを執行する官吏はよりコンスタティブで責任倫理的な面をもっていると言える。




本来ならその2つを併せもち、出来うるなら「政治プログラムの執行者」のみならず「プログラムを書くもの」にも責任倫理的な性格、私心を廃したマシーンのような性格を期待したいところだが、「それはシステム的に可能か?」、というところがこの分野での課題といえるのかもしれない




最後に「心情倫理」と「責任倫理」、情熱と冷静を併せ持った理想の政治(家)を期待するウェーバーの文言を引用して本エントリを綴じる(105)







政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能ごとを目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。


しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない


いや指導者であるだけでなく、――はなはだ素朴な意味での―― 英雄でなければならない。


そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。


自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―― 自分の立場から見て ―― どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。


どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。



そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。









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関連:
仲正昌樹、2009、「今こそアーレントを読み直す」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/188110008.html


ポリス的政治や公共性、政治的コミットメントに関して





実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html


内容と形式に関して






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関連文献


カール・シュミット - Wikipedia
http://bit.ly/mrDvk5

『優柔不断な政治的ロマン主義者が最終的に権威に屈従していく過程を観つつ、思想的状況に「決断」を下す独裁者を要請した。』


ということで、ウェーバーが問題視していた相対主義的ロマンティシズムと同期な感じ


優柔不断な政治的なロマン主義者(≠サヨクにせよウヨクにせよ、自分の頭で考えないロマン主義者)は、頭でっかちに考えてきた理想像とは違う現実にぶち当たるとケツまくって極論にジャンプする。そして「( ゚Д゚)<これがオトナ(現実)だ」とかいう

その過程は「ハマータウンの野郎ども」的な開き直りオトナジャンプにそっくりなわけだけど


「そういう連中が、変な方向にジャンプするぐらいならオピニオンリーダーが必要では?」って話。オピニオンリーダーのところにグラムシのヘゲモニーが対応する。ニーチェ(「強者」)も


一部の論壇界隈でシュミットが人気?なのかもだけどこの「決断」のところだけみょーに文脈切除して恣意的に運用してる感じ

「なにもみずにいきなり投企って根性論ですか!か!」みたいな捉え方だったと思うんだけど、そうではなく特定強者(ハブ)が誘導するという話がシュミットが入ってることだと思うんだけど、、、それも理解せずにシュミットが言ってるとおりのことしてるってのはけっきょくシュミットやウェーバーが問題視してるロマンティシズムと変わらなそう




まぁそれはいいとして、読むとしたらこの辺か


政治的なものの概念
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パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見 (ちくま学芸文庫)
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「ハブ(強者あるいは中間者)によって弱者を誘導する必要がある」関連で、グラムシの「獄中ノート」

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グラムシ政治論文選集

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より微細に見るならそれらの中間者―マシーンを介した「権力」がダブつかないように、フーコー的な権力の観察→記述を参考にしていく (「クンスト」についてとか




posted by m_um_u at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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