2011年05月27日

「ただ、そこに在る」という本質  ポイエーシス-エロース / イデア



「モノは、その本質を開示(ポイエーシス)して生の歓び(エロース)へと向かう」


「そして、それは自然(ピュシス)とのバランスの上に成り立っていく」





そういった¥意味¥美の機構がポイエーシス周辺にはあると思われる


それは古代ギリシアから連綿と目指されてきた人の歓びのあり方、ということではあると思うんだけど




先日、ジャコメッティの彫像をみたとき「この女性(ひと)はテーブルと一体になることで至福に達したんだ」「この姿こそ、彼女の生きられた経験の中での本質的なものなんだ」と直観的に感じた



シュルレアリスム展にいってきたYO!: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200983102.html





全体としてはテーブルと一体になってマガマガしい印象を一部の人は受けるかもしれないんだけど


表情が



その表情が、自分にはなにか「特に濁りのない境地みたいなのに達して、そこにそのまま在ることの仕合せ」を当然としている姿に思えて



幸せ、でもなく仕合せ


歓びという感情も、悲しみという感情もない



怒りも楽しみもない




ただ、「そこに在る」という感じ





「それは作家の理想を託した姿でありそこから湧き出るメッセージである」ともいえるだろうけど、ジャコメッティほど誠実であれば、そんな小細工はしないだろう




そういったものをケイさんと彼女の作品にも感じた




菅野ケイ写真展 「FIXED BODIES」@ヴァニラ画廊 -Vanilla Gallery -
http://www.vanilla-gallery.com/archives/2007/20070129.html




そこで展示されていたいくつかの写真をみせてもらいつつ、「ああ、なるほど  これはほんとに見事に『縄』が主役になっているな」、と思った


なので、機械的に焦点を合わせるようにしたのか?聞いてみたんだけど「そういうことはしていない」とのことだった


画面構成 ということもあるだろうが    


でも、



なにか、人という「地」の上に縄(ロープ)という「図」が浮き出て前景化しているように感じられた



特に真ん中に配されていない縄でも





そしていくつかの線に接続され身体を解体されていく女たち


蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように



あるいは、彼女たち自身が蜘蛛の糸を発しているように





そこから社会的・生物的な幻想としての「女性」は剥ぎ取られ、なかから本質的な「女」  彼女たちの知らない「女」、あるいはナニモノカが現れる



時にはそれは蜘蛛のような形の



もしくは、「形」をとる以前の漠然とした志向性のような






そう




ジャコメッティと一緒だ







ケイさんに会うことがあったら聞いてみたいことの一つがその点、「ジャコメッティの作品をどこかで見て踏襲しているのか?」、ということ





・・・なんとなくだけど「( ^ω^)・・・いや、しらん。名前は知ってるけど」とかいいそうな気もする





もしくは踏襲していたとして、やはりそのエッセンスをきっちりつかんで自分の回路で表現されている、ということでパクりとかそういう次元とはまったく異なるだろう。ふつーに「オリジナル」でありエッジな感じ






「ジャコメッティ的な表現だとソリッドすぎてわからない」ということだと船越桂さんとかいいかもしれない

http://www.show-p.com/funakoshi/


あるいは石田徹也さんとか。その目の「なにも考えてない」虚無な感じ

http://www.tetsuyaishida.jp/





そういった在り方



ポイエーシスの発動やピュシスとの連結、それによるエロースの煌きのようないわば聖性をともなったような至高感に基づいた創作とは違った「本質」の在り方、描かれ方がある、のではないか?



本質としてモノに溶け込むことで「人」としての在り方から離れていく

それ以前にモノを価値たらしめている消費市場や、「人の価値」をつくりだしている労働市場、その外縁としての全体としての資本の流れ(あるいは資本という形をとらない富の流れ)


それに過剰にとらわれ人間性が失われていくことをマルクスは「(資本・金銭への)物象化」といい、それを引き継いだルカーチがよりエロースとの関連を記述することでエロース(開放)と物象化(囚われ)の過程を描いていったのだと思うが



上記してきたような作品をみていると


「物象化とは言いつつ幸福なものがあるのではないか?」


という疑問がもたげる


それは先ほどもいったように作品全体に漂う諦念のような穏やかさ、静寂とした詩情のようなものに因るものと思われるが、その背景として「人が物象化せざるをえない現状がある」ということがあるように思う


現代日本の現実をみつめると「( ゚Д゚)<己の才能にポイエーシスしろや」とはいってもその才能云々の前に働かなきゃいけないし、それが殺人的なスケジュールだとポイエーシスだとか、美だとか言ってる余裕がなくなりがちになる


そういった場で、決して美辞麗句ではない形で


厳然と高みから見下ろす形ではなく、自分も同じ立場から寄り添うような形で、それぞれの場における人々の本質、あるいは自分自身の本質を見つめ直す作業が必要となってくる




そういった参与観察者の「活動」への動機と並行するように個々の作品の登場人物たちも自らの「天職(Beruf)」を全うしようとする。あるいは「観想」を通じた「天職」の認識と「仕事(ザッへ)」の遂行






「天職」というか、その責任義務の認識を端緒とするたんたんとした「仕事」の遂行

そしてその場面を表した作品は「仕事」が為されている「場(トポス)」におけるその人の「本質」の切り取ったものである、と言えるだろう






以前、単純労働における二面性、退屈な物象化のほかに「機械的作業に同化することに快楽(ラクチン)のようなものがあるよね」といったときに友人はベタな物象化の観点から(゚Д゚)ハァ?って反応してたけど


「機械になりきる事で心のうちの雑念を消していく」


ということがあるとしたら、それは余人をして「禅」といわしむるものなのかもしれない


自分的にはそんなに大したものなのか?って気もするが







ポイエーシス-エロースではなくても至高はあリ得る


人は神に至らなくても「神」となり得る



それはベンヤミンがいっていた「神話的暴力」の話を少し思わせる


ナウシカ解読と正義の審級   ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html



すなわち、神の顕現としての自然の暴力性に対するために人が「文明」を作り上げ、そうやって創り上げられた人造の「神」の暴力性、法や経済といったシステムの根幹となる規律の過剰性によって人のエロース(生の開放の結果としての歓びの享受)が蹂躙されていく過程への危惧を



しかしこういった形での物象化、あるいは「敢えて」物象と化すことであらゆる価値を消し去るという人の技によって「神的」でも「神話的」でもないなにものかを創り上げられるのではないか?



それはイデアをわれわれの手に取り戻す閑かなる闘争といえるのかもしれない


   私の代では成し得ぬかもしれぬ



(造られた)外界の「神」によって奪われていた「本質(イデア)」の幻想を、われわれの内なる神の手に取り戻すための




   それでも最初の一歩を私が踏み出すのだ








これがたたかいの第一歩だ











--
「仏もまた塵であり神は細部に宿る」な話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/183208298.html


コイトゥス再考 飯沢耕太郎
http://vobo.jp/koutarou_iizawa.html



Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html


Teminal Arts of Sein und Zeit (補遺): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200173685.html


Togetter - 「「わたしたちの自戒の歌」  / 「ゆえいの季節における手記」」
http://togetter.com/li/127626







4月の狂騒 と 6月の憂愁
http://bit.ly/iey3dN






posted by m_um_u at 06:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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