翁のあらすじ
http://www.k2.dion.ne.jp/~t7d7/okinaarasuzi.html
能は「翁」にはじまり「翁」に終わる
そういう言葉があったのは「精霊の王」だったか?
その言葉に従えば、「翁」を理解すれば能は全体的に理解できることになる。「春と修羅」の「序」を完全理解すれば宮沢賢治が理解できるようになるように(あるいは、部分の綜合からその理解に至る、ということもあり得る、かもだが)
結論から言えば「翁」は実存転調時の通過儀礼的な儀式のように思えた。
シュタイナーなら「7歳ごとにある」とされる転調過程。「大人」へと剥けて行く過程
その過程を通じておそらく認識の幅が飛躍的に高まっていく
ピアジェかなんかだったら「シェマを一気に食らう」みたいなこというように
Togetter - 「シュタイナーって発達心理的にどうなの?( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` ) (仮)」
http://togetter.com/li/136391
「大人」というか肉以外の部分での人の構成要素は「理性」「知性」「感性」(精神)によって成り立っているように思う
理性は論理を整理の法として、ロゴスによって一つのロジックを組み立てていく能力およびそれによってできあがって行く認識マップ
同様に知性は知識をリソースとしてそれを整理していく能力およびインデックスな脳内マップ
感性も同様になる。それはしばしば「センス」という言葉で片付けられがちだが、理性や知性では感じ取れないようなデータへの予感、先験的直感のような知覚。およびそこから出来上がる認識地図
それが精神の系に属するのかはびみょーなんだけど、マズローの五段階説≠精神の現象学のように精神の位階を登っていくのと相関して認識の幅も拡がっていくように思う
「認識の幅」というのは理性や知性以前になんとなく拡がっている「識っている」感覚、およびその系。毛細血管のように「世界」や「セカイ」について「なんとなく(先験的に)識って」いて、そこにまだ理性や知性の肉付けができてない段階
哲学的なものというのは本来ここに属するように思う。詩でもいいけど、まぁArtとよばれる創作芸術一般
で、
この「認識の幅」が急激に伸びる時期や季節がある、と仮定される
時期としてはシュタイナーがいった7年期がなんとなく、季節としてはケルトの4季祭に対応するように思う
(自分的には冬と春が一番あったけど・・・(夏はないな)
Togetter - 「フィリップ・ヴァルテール、「中世の祝祭」 からのちょっとおもろい話メモ」
http://togetter.com/li/117258
それらが外因となって<私>という現象のブレに作用していく、と仮定される
Togetter - 「いわゆる分裂病関連の現象(もしくは反動としてのポイエーシス発動)に対する脳機能局在論からの類推 (仮)」
http://togetter.com/li/131740
「翁」は
人が存在と時間のギリギリのところに立ったとき、本覚が作用したときにそれを統制し、障害なく認識の幅を拡げる(位階を上げる)ための通過儀礼的なものなのではないか?
Terminal Arts of Sein und Zeit: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199659522.html
夜を愛し、余すところなく死んで、三位を統べる: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200174686.html
野生の思考に基づいて
父と聖霊と子
翁と平面と荒神
過去と現在と未来
超自我と自我とイド
の三位を統べる
震脚をダンダンと踏み鳴らすことで武と舞を悦ぶ猿神あるいは摩陀羅神に拍手をうち、あるいは自らの内部のコアを呼び覚ます?
自己暗示的に瞑想状態に入りつつ時間と空間を歪め、そこにご見物も巻き込んでいく
最後にエイヤッと大きくジャンプすることで現在の自分から未来の自分へと跳躍する
その成功を祝うかのように鈴が鳴り響く
それが「翁」
理や知によってなかなか統制されない荒ぶる感性(若気)を未来と過去の先達がやさしく包み導いていく
「やさしく」というかそこには死と隣接した緊張感があるのだろうけど
だからこそ同時に「生」もあるのだろう
追記:
m_um_u / むーむー
ああ、そっか。基本的に能とか狂言のゆるい動きは遅く見えるんだけど太極拳と同じでそこに達人的練りが仕込まれてる、っていわないとわかんないか。。 本覚ドライブ 通過儀礼としての「翁」: muse-A-muse 2nd http://bit.ly/l7gJHt at 05/22 17:56
ああ、そっか。基本的に能とか狂言のゆるい動きは遅く見えるんだけど太極拳と同じでそこに達人的練りが仕込まれてる、っていわないとわかんないか。。 本覚ドライブ 通過儀礼としての「翁」: muse-A-muse 2nd http://bit.ly/l7gJHt at 05/22 17:56
m_um_u / むーむー
まぁあとで追加するけど、達人というのはスピード的には遅くても機をつかんでるので、力が弱くて遅いご老人でもマッチョな剛力の膂力とか、スピード自慢の若者を制せたりする。つまり、止まっていながらにして動いている、のが達人。それが基本の話 at 05/22 17:58
まぁあとで追加するけど、達人というのはスピード的には遅くても機をつかんでるので、力が弱くて遅いご老人でもマッチョな剛力の膂力とか、スピード自慢の若者を制せたりする。つまり、止まっていながらにして動いている、のが達人。それが基本の話 at 05/22 17:58
(※以下は「精霊の王」より)
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第六章 後戸に立つ食人王 本覚論と魔多羅神
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seire07b.html
Togetter - 「「翁」をめぐる存在と時間(≠「本覚」ドライブ)とそこからの認識配置変換素描(仮)」
http://togetter.com/li/133056
翁は宿神にして荒神、と(cf.マダラ) >金春禅竹の『明宿集』は、猿楽の翁を芸能神・宿神(しゆくじん)と説くが、摩多羅神と目されるこの翁は、また大荒神であると語っている。
http://tumblr.com/xau2fmlwzx
ああ、マダラがイドなのな >摩多羅神は「三毒」と「無明」を自分の内部に抱え込んだ神である
http://tumblr.com/xau2fmmx8q
そんで、それが様相というか、内部からの変化要素か。イスラームの「アッラーはいろんな表情をもってあらわれます」だな
音で世界、というか時間≠動きをマーカーする > 摩多羅神のもつこのような転換力を象徴しているのが、おそらくはその神が手にしている鼓なのである。ポン、ポン、ポン。鼓の革から発せられるその打撃音は、音が発せられるたびごとに、世界の様相をつくりかえていく
http://tumblr.com/xau2fmn542
てか、「胞衣」であり、オトナ化してない即自みたいなのだの。 >もうここまでくれば、宿神=シャグジまではあと一歩ではないか。胞衣であり荒神であり、境界性(サ行音+ク音が象徴するもの)の神であり、ポン、ポンと飛び跳ねる音とともに蹴鞠の庭に瞬間瞬間の転換をもたらしていく転換の神であり
http://tumblr.com/xau2fmnes7
はい、あった。トレースであり舞踊の憑き物 >被差別部落民は、「障礙」する神・宿神を奉じて、猿まわしや門付芸などを行なうことにより神の祟りを鎮める役割を担ってきた http://amzn.to/mkFMGL
http://tumblr.com/xau2fmo6g3
胞衣、と >またその膜は、荒々しい霊性をひめた自然力に直接に触れているものであるから、胎児を守る機能が失われれば、この世にあって恐るべき荒神と化すのである。
http://tumblr.com/xau2fmocri
自我と超自我かな?言語機制とかもあるかと思うんだけど >猿楽芸そのものが、「存在の胞衣」ともいうべき宿神に守られた潜在空間の構造を、身体と音曲の表現として、顕在化させようという芸能なのである
http://tumblr.com/xau2fmpa61
翁のあらすじ http://www.k2.dion.ne.jp/~t7d7/okinaarasuzi.html
※通過儀礼:ジャンプ → 祝福の鈴 cf.ペルト
http://tumblr.com/xau2fmplgo
面の画像
http://tumblr.com/xau2fmq01f
三位一体:ロゴスが父
http://morutan.tumblr.com/post/5298908400
m_um_u / むーむー
ああ、そっか。基本的に能とか狂言のゆるい動きは遅く見えるんだけど太極拳と同じでそこに達人的練りが仕込まれてる、っていわないとわかんないか。。 本覚ドライブ 通過儀礼としての「翁」: muse-A-muse 2nd http://bit.ly/l7gJHt at 05/22 17:56
ああ、そっか。基本的に能とか狂言のゆるい動きは遅く見えるんだけど太極拳と同じでそこに達人的練りが仕込まれてる、っていわないとわかんないか。。 本覚ドライブ 通過儀礼としての「翁」: muse-A-muse 2nd http://bit.ly/l7gJHt at 05/22 17:56
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追記:
全体の基層にある(隠されてゴドーとかデュシャンされてる)情報強度はこんな感じだと思われる
八極拳にも通じる中国武術における中間距離の基本型のひとつ
前足はちょっと猫足立ちにして地面にいつかないように(なので回転がなめらか)、上半身はそれほど引き絞らずそれでいてナンバの動きで、いつでも絞れるような予備動作になってる
それは音的には競うメロディとしてのそれで、ここに様々な音(リズム=鼓動とメロディ)が掛かってくるのを前提としている
たとえば、これなんか同時に鳴らしても合う
sky highのビートはふつうの人の鼓動を表してて、それはこれからの予感への動悸って感じ
「翁」演舞の周りの鼓のリズムは身体の多分節を呼び起こすためのビートの分節になってる
それらを「翁」の演者が綜合し、ご見物の気を引き上げていく
ギエムの「ボレロ」のように、時間と存在を停止させ引き上げる
このとき、ギエムは歴史という時計盤における長針であり、周りを複数の秒針が刻む
様相と主体(実存者)のように
そして本質としての「時」と「存在」が現出していく



