シュルレアリスム展
http://www.sur2011.jp/
内容概覧
http://www.sur2011.jp/introduction.html
基本的に、マグリットもダリもそれほど興味なくなってるのでスルーしようかと思ってたんだけど、ジャコメッティとデュシャンがあったので観に行くことにした。
結論から言うとデュシャンのは「まぁまぁ」(影とイデアって感じ)、ジャコメッティのは4作品ぐらいおいてあったのでけっこうよかった。というか、三つの作品は単に機能的本質むき出し、というか…あまり詩性が感じられなかったのだけれど、「テーブル」はさすがによかった…。とても眼福というか…たぶん、これからも心に残っていくと思う。
まあ、長くなりそうなので各論で
全体としては自分なりに高速で閲覧しつつ全部解釈(解読)したので100人組み手みたいだった
なのでそれなりに疲れたり…
で、せっかくなのでポイントメモ(※どうでもいいと思った作品。その人の固有のテーマに基づいたものではなく形式をなぞった物、と感じられたものはすっとばした)
[6]マルセル・デュシャン、「瓶掛け」
モノとして吊り下げられている瓶掛け、はたいしてビビビっと来ず
影を見ると変な形だったので影でイデアを表そうとしたのだろうな、と解釈
[18] 〜 [20]アンドレ・マッソン 「四大元素」「獲物」「採光窓」
都会の閉じ込められた部屋の中で「現実」が溶ける
そのとき表れた/あるいは物象のテンプレートとして望んだ光景を表現
「四大元素」はやわらかく、世界との親和を模索してるようだった
[24]マックス・エルンスト 「視覚の内部」
眼玉を閉じるとみえるビロビロしたアレ
というか、眼を開けていても| 冫、)ジーっと白い壁を見つめているとみえてくるビロビロみたいなの
そこから「視覚のリアリティ」←「既存のジョーシキによる視覚へのリミッター」を妄想
5匹の竜が「ただしい視覚」のリアリティ(卵)を喰い合う
[27]ジョセフ・シマ 「正午」
昼の間に空間の間に水蒸気が浮かんで物象のハザマが現出する
[30]イヴ・タンギー 「夏の四時に、希望…」
空から俯瞰した光景もキュビズム的に足したような構成
雲がポイントで映り、空間に雲の素のようなものが見える
「モノの元の素」みたいな感じ
うだるような暑さの夏に現実が溶け、夕涼みに向かう4時にようやく回復の兆しが見える
[31]フランシス・ピカピア 「スフィンクス」
「理想の女」(≠天使)を仮託された女、がそのプレッシャーと偏見から解き放たれる姿
「理想の女」認識に亀裂が入り、そこから「ほんとうの女(あるいは自分)」が飛び出す
背景のカエルみたいなイドがそれ
[44] 〜 [46]ジョアン・ミロ 「シエスタ」「絵画」「絵画」
シエスタの午後、白い身体から夢が解き放たれる
白につながってるいくつかのポートフォリオがそれぞれ夢
「絵画」において共通するカモメモティーフはたぶん「自分が理想とする絵画」の記号
[74] 〜 [77]アンドレ・マッソン
[77]まではわりとベタな日常の一段上の物語的解釈程度
[77] 「バッカナーレ」は抽象表現を用いた作家の理想的なエロスの場面の表現(48手みたいなの)
[90] 〜 [94]ヴィクトル・ブローネル
本展示もっともバカっぽい作品群。ちんぽむみたい
「世間的に言うと女性にはこんな感じの偏見がつきまとってるんだよー(・∀・)」
「女なんかおっぱいとま○こ袋だー '`,、('∀`) '`,、」
「でも、それはわたすが思ってるんじゃなくてあくまで『世間』ってことだよー(・∀・)」
という退路を保ちつつな偏見・露悪セクハラ表現群
( ^ω^)・・・まあ、おつかれさまですね、ぐらい
[113]パブロ・ピカソ 「横たわる女」
裸体の女性が横たわってる姿を「全体」としてとらえようとしてるように見える作品
女を機能的、社会的な幻想に依ったものではなく、かといってみょーな理想テンプレートによって覆うのではなく「女そのもの」をとらえようとした感じ
まぁ、つってもピカソも情婦との関係は( ^ω^)・・・ おっと、以上いうまい ⊂二二二( ^ω^)二⊃ブーン
[118] 〜 [120]マッソン+ブローネル
このあたりは古屋兎丸、「マリーの奏でる音楽」で足りると思った
[83]アルベルト・ジャコメッティ 「男と女」
単純に生殖器で「本質」を表現
鉄が素材なのでみょーないやらしさがない
[84]アルベルト・ジャコメッティ 「処分されるべき不愉快なオブジェ」
性同一性障害を表現
「処分されるべき」とするのは作家本人の意向ではなく、「社会的には」「そうされてしまうのだろう」という悲観がありそう
[85]アルベルト・ジャコメッティ 「喉を切られた女」
社会的な「女性性」を仮託されてお人形として生かされていた女の喉をかき切り死を意識させたとき
その女のリアルが噴き出る
それは象徴的表現としての「喉をかき切る」であって、猟奇的嗜好のあらわれではない
精神体ともいえるところにおける「社会的に理想の女」の喉をかき切る
[86]アルベルト・ジャコメッティ 「テーブル」
完全にテーブルと同化するほどに自分、あるいは自意識的なものを廃するに至った女性
本質としての彼女はもはやテーブルと同化するほどにテーブルと共有する時間を多くする
天の視点から見れば彼女の肉体は消え去り足はテーブルの足として再構成される
それは物象化的な悲観かといえばそういうことでもなく、「それとともにあることを当然」とした至福のような姿
そのため女の表情は穏やかなものとなっている(過度の幸福も示してないけど)
個人的には被爆のマリアに似た感慨をもった
被爆のマリア: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/36290326.html
あともだいたい解釈して細かく書き込んでるんだけど( ^ω^)・・・なんかめんどくさくなってきたな。。
大部分は「( ゚Д゚)<社会的に刻印された女の性を解体!」としつつも自分自身の男性性を解体してなかったり、( ゚Д゚)<超現実な視点を!つて安易に異星人とか悪魔みたいなモティーフだしてたりした…。分裂病とか
[144]月の女が円を切る とか タンギーの一部はよかったかな。あとマグリットも絵画ではなく彫刻のはよかったように思った(「ダヴィッドのレカミエ夫人」の棺桶)
マン=レイの数学的な理想モデルを絵画で表現!な想像力もまぁ、よかったな
あとは古代エジプトやらメキシコやらのリアリティ踏襲みたいな感じ
一番最後の
[173]マッタ 「ロゴスの透過・仮象」 は挑戦的だなぁ( ^ω^)・・・とか思った
カラーで実体的に描かれてるのがロゴス(主に言葉による認識)による「社会的認識」
そこにプシュケーだかプネウマだかなものが注入される
「モノは様相をともなって実体(様態)化する」って感じ
まぁ、だいたいそんな感じであった
全体的に言うとやはりジャコメッティが眼福でござったな
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関連:
Togetter - 「とーごーさんの「ヴィゴツキー入門」感想」 http://togetter.com/li/134749
発達段階における社会言語(≠社会的常識)と内部言語(子供内部の認識=ルール)との間の葛藤として
うたかたの日々
http://soneakira.blogtribe.org/entry-664016bbf4793acec8aef6cc7c3da884.html
ぼくの卒論指導教授だった故・矢内原伊作先生とマブダチだったジャコメッティの展覧会が開催される。
先生は大の猫好きで鎌倉のご自宅に何匹も猫を飼われていたそうだ。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2006/giacometti060531/index.html
( ^ω^)・・・くやしい (間に合いませんでした)
ジャコメッティと矢内原の写真
http://okwave.jp/qa/q5887026.html
ジャコメッティの作品のモデルとしても再三登場するヤナイハラ。幻の本「ジャコメッティとともに」に、未発表の日記・手帖・手紙をも撰録。20世紀最高の芸術家の仕事の日夜、脳髄、対話の貴重な記録。
まるで指先から3次元のオブジェを捻りだすように、キャンバスの平面に対象を浮かび上がらせる、すなわち見える物を見える通りに描くという不可能にシジフォスの如く立ち向かうジャコメッティ。モデル・ヤナイハラは、己の鼻の頭ただ一点を来る日も来る日も描いては消し、消しては描く狂気の如きその挑戦にとことん向き合い、苦悩する友人を時に励まし、時に叱咤し、突き放す。それでも、静と動、光と闇が拮抗しながら分かちがたく結び合うように、互いは互いを称揚し、批判し、深く認め合う。二人の奇妙な友情はモデルと表現者という枠を越え、広く芸術や文学や哲学を巡り議論を交わしながらまだ誰も見たことのない真実に向かって共に突き進む。20世紀半ば、パリの下町を舞台にこれほどの魂のぶつかり合いが繰りひろげられていたことに、ただただ圧倒され、感動する。
矢内原伊作 - Wikipedia
http://bit.ly/lw4bGR
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