2011年05月04日

幸村誠、2011、「ヴィンランド・サガ」10


「いい?

『みんなのため』といってたたかって自分や相手を傷つけるだけならせめて娼婦になりなさい。

それならだれも傷つけない。

少なくとも傷つくのはあなただけでしょ?

自分が傷つくのを恐れて他人を傷つけちゃダメ」





「それがいやならきちんと働きなさい。

『誰かのため』に逃げずに。まず、自分のために働きなさい。

働く中で誰かのためになることもあれば、ならないこともあるでしょう。

その全てを、自分の責任として受け入れなさい。

そうやって行くうちに、あなたも誰かを育てることになる。

そのときに、自分の失敗からの反省を伝えなさい。


そうすれば、少なくとも「誰かのため」にはなるかもしれない。」





「その全てが嫌なら、、とりあえず自分から逃げず、『自分のため』と思えるようなことをなさい。


それが他人を傷つけないように、あなたの中の良心が守ってくれるでしょう。      



少なくともわたしはそう 信じてる」















テーマ的には予想通りの中期ぐらい

修羅と煉獄の中で削った精神の中で実存にたどり着いたトルフィンはこれから「生活」という実践を通じて「本当の強さとはなにか?」ということを身を持って修めていく。




「ヴィンランド・サガ」の背景メモ (アングロサクソンの良心、キリスト教とゲルマンとか): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161667855.html


グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html





おそらくは「AI」(愛)に至るだろうけど、ハチマキのときのようなオーバードライブからの突然のジャンプと着地ではなく、ゆっくりと、そこにいたるまでの葛藤と必要性、意志をもった決断が示されていくことだろう。




そして巡りあう日々: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/132633857.html

ソシテメグリアウヒビ
http://bit.ly/kkOYYR

Togetter - 「タチコマ漫談:「ココニイルコト」」
http://togetter.com/li/128589





並行してクヌートはロックスミスを辿る




ナウシカ解読と正義の審級   ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html


「常識」と「良識」の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161638661.html




神の愛、恩寵を失った人が自らの手で<神>の似姿を創り上げていくとき、そこでなんらかの歪みが生じていく




Togetter - 「タチコマ漫談:「あなた?視姦しますたね? | 冫、)ジー」 / 「ささやくのよ、わたしのゴーストが……」」
http://togetter.com/li/127808


Togetter - 「「わたしたちの自戒の歌」  / 「ゆえいの季節における手記」」
http://togetter.com/li/127626




為政者としてのクヌートは<神>にも等しいような愛-気配りと、それがゆえに私的感情を廃する必要が生じてくる


それと並行するように大地にしっかりと根ざしたところから人の愛、意志、強さを汲み上げていくのがトルフィン


いわゆる上座部と大乗、もしくはキリスト自身と大文字の「キリスト教」の問題。


あるいはベルセルクにおけるグリフィスとガッツ





全体の流れとしてはそんな感じだろうけど、今回はトルフィンが生活に馴染んでいく中での様々な気づきや反省、それを通じた新たな自分の模索が描かれていた。



過去の自分、何かから逃げるように怒りと復讐に自分を任せていた自分

そこではそれなりの戦闘技術は身についたけれど、逆に、それは単なる技術に過ぎなくて



「憎しみがなくなったらオレはカラッポだ」




ということ


そういったトルフィンを先達がやさしく導く



「これから覚えていけばエエ  ひとつひとつ……

  

 カラッポなら何でも入るじゃろう


 生まれかわるつもりがあるならむしろカラッポのほうがエエ」





卑近なことでやや蛇足気味だが、過去の自分を思った



自分も最初はなんだか居心地が悪くて


というか、「ムリヤリ選択させられた」(受験)戦争状態の中で、野山で遊ぶ自由な自分を捨て「させられた」こと

軽いいじめのようなものに対抗するように、怒りと契約を自らの中に染み込ませ、代償として半身を鬼にくれてやった


Togetter - 「誓約と制約 (コミットメントと愛について」
http://togetter.com/li/444




居心地の悪さは「なんだかわけのわからない怒り」となって残っていき世の中のすべてが嫌いだった


「自分は小動物しか愛せないのかもな」って



なので、瞬発的なモチベにはなったけど学校の勉強なんか嫌いだったし




そのあともお定まりの煉獄にいたのだと思う



自分がたどってきた道を肯定したいがために、その武器を持ってより弱いもの(自分より強そうだがスキがありそうなもの)を襲い、そこで「自分は正しい」ことのよすがとする


はてなのモヒカン族なんかでよく繰り返される光景
http://bit.ly/jIkrY5


どうでもいい揚げ足取りで吊るし上げて自分たちの狭い「正義」観を満足させる。


「委員会の論理」とかいうやつだろうし、知の権力というやつだろう
http://favolog.org/m_um_u/user-M_Foucault_jp


Togetter - 「タチコマ漫談:「オイルは二度漬け禁止!( ゚д゚ )クワッ!!」」
http://togetter.com/li/126183




知が刃物であることを認識せずに、殴り合い、斬り合いを続ける永遠の亡者たち


ゾンビみたいに鈍くなってるので永遠に死なない


永遠に殴り合いを繰り返す


価値相対化の中で現状から遊離した形式(記号的に実情から遊離した概念)を追い、自分が本当に向き合うべき問題の代替として目先の闘争に明け暮れる


Togetter - 「淫グロリアス・バスターズ」
http://togetter.com/li/127006




その戦いはヴァルハラに向かうようなものではない




ヴァルハラに至るのは自分の内部の鬼と戦い、それを御しつつ社会や世界の矛盾に向きあって行く者たち


あるいは


神(ポイエーシスとピュシス)の実感を胸に、大事なものを守っていこうとする者たち



外縁としてのアウラ(人の気配)を辿りつつ


Togetter - 「「ゴドーを待ちながら」  誰も座れない椅子に座るのは誰?」
http://togetter.com/li/120932


ウェーバー(「職業としての学問」)がいうように「相対主義のニヒリズムの中で、なにに向かうべきかわからなくなったものたちは路頭に迷う」(大意)という話。そして、自家中毒的に潰しあう




そういった修羅から脱せられたのは様々な人との出会いがあったからかなぁと自分的には感謝しつつ、知を、血塗られたものにしないためにどういった扱いが必要か?と愚考する


あるいは、形式(知の権力)にドライブされないように



Togetter - 「緑の座から「真水をくむ」ということ」
http://togetter.com/li/131170





やはり「愛」なのだな


大文字の「愛」ではなく、身近な人たちへの信頼と親愛








トルフィンも、そういった道を辿れるだろうか




そしてふたたびクヌートの前に立つことができるだろうか



(そのときクヌートは修羅、あるいは菩薩であることへの呵責をもっているだろうか)







Angela Aki / Silent girl
http://bit.ly/myTeA4








--
信じるということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/44278479.html



「いじめは気づけないよね?」、と鈍感な人は言った: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/50946740.html


親愛なる人へ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/142089498.html

タグ:実存
posted by m_um_u at 13:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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