2011年04月11日

ようやく「ホンモノ」がなんだかわかったような気がする、というような話 ( ポイエーシス/アウラ/ピュシス(仮)

Togetter - 「「ゴドーを待ちながら」  誰も座れない椅子に座るのは誰?」
http://togetter.com/li/120932
 



先日、六本木に倉俣史朗ほかの展示見に行って、目当てはミスブランチだったのでそれをガン見して帰ってきた。

ほかの展示はそれほど満足せず。てか、最初からあまり眼中になかったからいいんだけど


それで、なんとなくつぶやいてたら反応とかあってたまったのでまとめたのが上記



最初の考えでは


「ミスブランチは永遠を表している」

「止まる、浮くというこの世の法則に抗するような表現がそれを示唆する」

「『永遠』とは自然界の法則を超克する神の法である」

「神の法、イデアの影は万物の内側に宿る」


という感じだったんだけど、


ついったー上で対話してるうちにどうも、そういうのとは違った感覚、実感のようなものがあるのではないか?と思いとどまった

こういうのは教条的に「えらいひとの言葉」に従うよりも、与件のない、感覚の鋭敏な現場の人の言葉のほうを信じるので。




対照として


彫刻などの立体芸術に対する感覚を、同じような立体表現としてのダンサーのひとに聞いてみた


ここでもやはり「ものの外辺に目が行く」という話


両者のニュアンス、理由は若干ちがったけど




2人とも「外に宿る」・・・・と?




そこで、元来言われていた「アウラ」(ヴァルター・ベンヤミン)というのは内部からのポイエーシス(事物本来の姿の現れ)ではなく、ものの外辺に漂うものなのかなぁ、って


「神は細部に宿る」とか「良いモノというのは自分で創っていくのではなく内部から現れてくるようなものだ(仏像の内部から)」とか「キャラクターが勝手に動いてくれる」とか



以前からなんか「ホンモノ」って言葉にこだわりつつ、関心空間なんかで「これはホンモノ?」みたいなこといってたけど、あの頃はまだわなび感があったように思う

他人様が「ホンモノ」って言葉つかうのカッケーって感じで

青山二郎かなんかの批評筋なんかから出てきた言葉(あるいはそれ以前から継がれてきた言葉)だろうけど


でも、

「ホンモノとはなにか?」というのはけっきょくわかってなかった


なんとなく「みんなに持続的に認められるような素養のあるもの」ぐらいな感じだった



そういうことではなく、おそらくはポイエーシスとの関係


表されたモノ、あるいは表すモノ(人)の内部からの「本来の姿」への発動のようなものが感じられるとき、それは「ホンモノ」になる

格というか、単に情報量が変わる感じ

詩とか詞なんかわかりやすいけど

自分の内部の問題を昇華したもの、自分の言葉で対照化・反省・消化・昇華していったものというのは本気の度合いが違う

どっかでいわれてるいわゆる「強度」というのはこのあたり(本気の度合い)。要するにコミットの度合い

てか、その本気度によって芯の部分ができるので、あとは知識とかデザインとかで装飾していけばいいだけ


より分かりやすく響くように(あるいは、内容は理解されなくてもなんとなくその外辺は共有されるように)


自分の内部の問題の発露 = そのときメディアとして使用されるモノの本質 = ポイエーシス = 神 となる



芯があることで作品や表現全体にくっついてくる情報量が変わる

それは文脈だったり、芯の部分が抱える問題の複雑さ・繊細さを補うための意匠だったりする

修辞というのも本来は後者のように思う(cf.レトリックはローマの討論術における聴衆への感情に訴える術だったようだけど)





それが「ホンモノ」であり「強度」ということ


考えられた時間、思考の系の複雑さ、それによってまとわれる総体的な情報の量、形式知化するために要する文脈・既存の言葉の多様性・多層性


「ホンモノ」の中で、一見極限まで省かれた作品というのはその内部にそれだけの文脈の多層性・多義性の予感をもっているから、だから「ホンモノ」の迫力がある

(てか、もはや「ホンモノ」って言葉もチープだが)



それとは違って、


単にホンモノを表すために用いていた修辞や意匠の外装のみをなぞり、それらを元来の文脈が持っていた「意味」から切除し、記号的にブリコラージュして混ぜっ返したものというのは「表面的には似ていても中身のないもの」ということで気持ち悪いし意味が分からない。。

内容がないので

そういったものの連続が「シミュラークル」(ポストモダン的リアリティ)

いわゆる「やおい」というやつ

シミュラークルとかポストモダン全体が「やまなし おちなし 意味なし」なのだ(揶揄でもなく)


これに対しては「意味があるかどうかなんか感じ方次第じゃないか」「解釈の多様性は認められるべきじゃないか」って相対主義が出てくるだろうけど……文脈ずれて説明めんどくさくなるので今回は省略。簡単にいえば「意味はあるのに省いてるのはそれが『わからない』ことの言い訳」ということ。すくなくとも「ホンモノ」に対しては




で、


そんな感じでモノの内部からホンモノは現われるものと思っていたんだけど、外部にも宿る、と


それは少しいったようにポイエーシスな感覚を一般化するために凝らす意匠・修辞の問題とも関係があるのかもしれない


ポイエーシスにつながる外辺ならなにがしかの気配がある、というような


それが「アウラ」ということなのか?(弁たんよ)


ヴァルター・ベンヤミンbot (w_benjamin_bot) は Twitter を利用しています
http://twitter.com/#!/w_benjamin_bot


あるいは、

「内部からの発露」、「外部における気配」その全体の「現れ」をさして「自然(ピュシス)」というのか?


後者はまだぜんぜんなんも読んでないので単なる勘だけど


cf.自然についてはなんとなくわかったような気がしたのでちょっとなんか言った(一番下辺り)


Togetter - 「竜と龍、肉食、稲作の普及の背景なんかについて」
http://togetter.com/li/120350





個人的には「いまだったらいままで解らなかったものが解るような気がする」という期待と予感がある。半ば自負のような

詞や詩、アーティスティックなもの、なんか難しげな本

創った人の背景が分かってれば、抽象配列を理解すればなんとなく解る




その感覚がなくなるのか、このまま持続していってくれるのか分からないけど

できるだけいまのうちに理解しておきたいと思う



--
関連:
「仏もまた塵であり神は細部に宿る」な話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/183208298.html





posted by m_um_u at 06:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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