2011年04月01日

ソーシャルメディアの感情消費・共有的側面とその限定的可能性

書き終わって自分でも読むのちょっとめんどうだなっていうぐらいなのでいちお全体の考察を通じたあとでのまとめ的な所感を最初に貼っとこう


・いちおまとめると、social mediaの使用動態はジャーナリスティックな情報共有的なものが期待されるというよりは、現状では情報消費(感情共有)的な毛づくろいなところが多いように思う。

・しかし、それもマスメディアなどを介して直列につなげば恊働の可能性を見い出せるし、情報の蕩尽的消費もそれはそれ自体で可能性があるようにも個人的には思う(→複雑系の思考)




で、以下が考察内容


--
今回の震災で「マスメディアの時代は終わった。というかソーシャルメディア時代への決定的な基点となった」というような言説が一部で見えて、

冷静な人は

「そんなこといってもやっぱマスメディアが信頼性の担保してるところはあるし、話題の出発点もマスメディア(というかテレビ)だったりするしなぁ。。民放なんかは繰り返しセンセーショナルな映像を流して情報価値がないところはあったけど、『こういうときにはやっぱりNHKだね』感は高かったし。『マスメディア』って一緒くたな問題じゃなくて個別の放送局だし、個別の新聞社、個別の記事(番組)内容やそれを構成するスタッフの問題だろうしなぁ。。」

って感じだったと思うんだけど、<災害時のマスメディア>というテーマについては稿を改めるとして。

主にtwitterにおけるデマの拡散なんかを見つつ災害時のデマ、陰謀論などの広がりなんかについていろいろ思ったりした。

デマというか、よほど悪意のある人でなければ最初からデマを広げようと思って広げてる人は少数派に思えて、みなさん「良い情報なので共有しよう」って善意からやってることだと思うんだけど、結果的にその情報が誤っていたり、誤っているまでは言えないんだけどびみょーな価値観の偏向をもたらしたり…。


そして、そういった誤りの連鎖というのはしばしばほんのちょっとの軽い恊働、軽い善意の気持ちから始まってる。


それでこの辺の話をふたたび思い出した。





直列・並列問題ふたたび ≪ Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2009/11/21/serial-or-parallel-again/


「直列につなぐ」、ということ


<複雑な解釈操作などを必要とするジャーナリズム的志向 → 情報共有だと並列分岐だけど、「バルス!」祭りみたいな単純な目標が定まったものだと直列な威力を発揮するのではないか?>


並列的なものはジャーナリスティックな精査が必要な「情報」的なもの、とその共有

直列的なものはそういった精査の必要のない「感情」的なもの、とその共有


本エントリの最初に挙げた「軽い恊働、軽い善意」というのもこの「感情」的なものに当たるように思う


この可能性については以前考えた


「わたしたちメディア」とジャーナリスティックなものの間の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163138334.html


感情共有的なものに可能性は見いだせるがジャーナリスティックなものも必要ってこと


しかし、そうはいっても現状では「ジャーナリスティック」とカテゴライズされているものでさえもけっこう感情(かどうかしらんけど)的に消費されていたりする。

新聞の記事なんかも特定のアジェンダや記事のステレオタイプに沿って、担当記者の感情の元に飛ばし記事書かれてることがちょこちょこある。

そして、

そういった記事は内容を吟味されるのではなく「感情」と「感情」で繋がるのだ。記者の感情と読者の感情。リテラシーにおけるコードの同期以前に感情面でtuneする。



そういった状況の中で、感情共有というか、我々の足元の生活上のリアリティから立ち上がってくるジャーナリズムが必要なはず。

被災地のそれを例に上げるなら、感情に訴えるように何度も同じ悲惨な映像を流すのではなく、被災地の人がその時点で本当に必要としていた情報

あるいは、東京圏の住民が原発や計画停電、電車の運休、食糧事情などの不安を解消するために本当に必要としていた情報


それは感情的なものとジャーナリスティックなものの間にあるものではないか?






▽情報共有ではなく感情共有であり、それは論の吟味というよりは消費なだけ?(なのだろうか)


Togetter - 「RTするだけで満足とかfavしても見返さない人ってtumblr的な情報消費-共感連鎖なんかな?」
http://togetter.com/li/117367



(コメント欄にtumblrのreblogを「アウトプット」と呼ぶことに関して、「tumblrのひとたちっておーざっぱにいわないでください」なひとがいてちょっとうざかったけど、まぁそれは忠言いただきましたね、ぐらいに置く)


reblogをアウトプットとして仮定して使ってる人たちがいるとして、そういう人たちのreblogの感覚というのは、たとえばSECIモデルでいうとどの辺の情報処理過程に当たるのだろうか?


SECIモデル − @IT情報マネジメント用語事典
http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/seci.html


tumblrのreblogの場合、形式知的なものを半ば暗黙知のinput(というか内部での情報処理過程)速度で回しているような印象がある。

文字としては明示されてるんだけど内容を深く吟味してなかったり、感情面ですでに同意してるものなので「外部情報」としてのそれを自らの内部の暗黙知に交換する機構やコストが抜けてそう。

reblogなりRTなりしたものを後に参照しつつ、自らの内部で消化 → 自分の言葉で注釈という過程を踏めば「暗黙知から形式知へ」ということで「表出化」過程だろうけど

それ以前の単に「暗黙知を獲得・伝達するプロセス」としての「共同化」過程に当たる印象がある。


当然これでは新しい知見、観点は得られない。

言論における複数性の話と同様に、形式知×形式知の過程を踏んでいないので新しい知見の広がりがない。



ところでtogetterのはじめのほうの

<ついったは短文メディアなのでpost内容がblogエントリより短くなるので特定の刺激的な言葉が目につきやすいのかも>

というのは一理あるように思う。


で、感情励起され、情報(あるいは論理)ではなくキーワードへの脊髄反射的感情の連鎖が連なっていく(どっかのソーシャルブックマークサービスみたいだが)


リアルと違ってある程度ひとを選択できるtwitterのTL上に置いては、われわれの半径〇〇mでは「不謹慎」とか「自重しろ」はないわけで、それを肴に話題にしてるってのもあるだろう。


「見えてないから『不謹慎』とかないんじゃないか?」って話ではなく、twitterのアーキテクチャに依る感情共感的な機構がその辺の話題涵養に向いてるのかなぁ、みたいなの。デマにせよ何にせよ。情報ではなく、感情の交換 。あるいは「オレがいえなかったことをうまいこといった」程度の情報量、ということ。

「人はみたいものを見る、聞きたいものを聞く。ほかからは目や耳を閉ざす」ということ


それでは議論の複数性、問題に対する多角的視点の獲得には寄与しない。


「有用」と思われて気軽に交換(RT)されるデマにせよ、デマではないんだけど情報の確度的にも新規性的にもびみょーなものとか…。「単に共感したかっただけなのね」ってのは分かるんだけど

先ほどでてきたように、TL的には空想上の産物的に「不謹慎」をことさらに言う人達、壁打ちというか、TL上の「不謹慎」ていわないひとにむかって「不謹慎・自重って変ですよね」っていってるのはなんだか毛づくろいコミュニケーションしてるみたいなところはある。


この辺りの話も同様の視点になるように思う

Togetter - 「「善意」のカジュアルRTのキケン性とその対価」
http://togetter.com/li/114218




「いくら鼓舞するためとはいえ、情報の正確性や新規性、信頼性に少し不安があるようなものをRTしてくのはこういうあぶないこともあるかもしれないよ?」程度のこといったら「不謹慎!」というか、なにかノルムに触れたみたいで反感買ったみたい。


この反応も脊髄ぽかった(デコった太字だけしか読んでなかったようなので)






▽感情消費を超えて情報の衒示的消費に向かってる面もあるのかも



Togetter - 「RTするだけで満足とかfavしても見返さない人ってtumblr的な情報消費-共感連鎖なんかな?」
http://togetter.com/li/117367



真ん中あたりの話


消費社会は消費が人々のアイデンティティを支えるとするバウマンのひそみに倣って、情報化社会では情報が人々のアイデンティティを支えるとすると、「エッジのきいた」情報を求めるあまり「真実」からどんどんずれていくというのはあり得るような気が。「あの話のほんとのほんとの真相知ってる」的な。


あともう一つはゾンバルトが「新しさが現代人を刺激する。それというのも、それがただ新しいからである」といったのと何かしら通じるかも。新しい、というのが他者との差異になり、アイデンティティを充足する。


ヴェブレンぽくもあるというか >衒示的消費




マスコミュニケーション研究・ジャーナリズム研究においてはまずもって「ジャーナリズム」を第一義としてとらえ、バラエティ(コメディ)番組なんかを気軽に情報消費していくスタイルが無意識か意識的にかわからないけど無視されてる。

背後の論理的には公共性論などを後付けにして「公共性に寄与する情報はジャーナリズム的なもので、そういったもの以外は特に研究的に扱わなくて良い」というところがありそうなんだけど、実際、われわれのメディア接触の大部分は娯楽的な情報消費だったりする。


もしくは、


ジャーナリズムとよばれるものも「読み取り」「議論の糧にする」のではなく内容は吟味されずにステレオタイプ的に消費されてたりする。

そして、その中途半端に理解された内容がほかのひととの話題のツマになる。


それは半ば衒示的情報消費といえるのではないか?

仲間内で「オレはきちんと新聞見てますよー」とか会社で「きちんと世情を追ってる大人な人間ですよー」とか見せ合うための


実存の話と絡めると社会化の過程といえると思う。


「個人−実存ー社会」と軸をとった場合、個人と社会のバランスとして「実存」があるわけだけど、それがみょーに社会方向にブレた人というのはいる。

会社人間みたいに人生の価値を会社に置いたり、お金人間みたいにお金に置いたり、教育人間みたいに……etc

自分の半径○○mの「社会」-「世間」の価値観に引きづられてそれ以外の「世間」(社会)への感覚が鈍感になっていく。


まぁ、そこまで過剰なところにはいかないだろうけど、広い意味でそういった過程の契機としての「社会化」の一部のように思う。もしくは議題設定仮説的に、そのpost単体の情報内容の是非は別として、似たような傾向のpostばっか集めるようになって全体としてのアジェンダを半ば無意識的に設定されてしまっている、というぢみな効果はありそう。




このような衒示的な情報消費の根はネット以前からあったものといえるだろうけど、ネットで特定コミュニティが組まれることによってその傾向が加速するところがあるように思う(cf.はてな村、もしくはtwitter上に暫時的に組まれた原発情報交換空間など)


で、

そこの衒示性(「オレのほうがエッジの効いた情報知ってるんだぜー」)に辟易した人たちが舞台を降りていったり。もしくはそこで交換されてるのが「情報」の体をした「感情」なところに感情を煽られて居心地の悪さを感じて舞台から降りる、というところはあるのかもしれない



そういった衒示的情報消費・交換とは別に「衒示的ではないけど情報消費だねそれ」ってのもありそう


たとえば、外部に見せびらかして誰かと競うでもなく、単に自分の内部にジャーナリスティックな情報をストックしていくんだけど、バラエティ・エンタメ情報と同じ次元でてけとーに消費ということもあるかも。それはまぁ情報の内部価値(位相)的には「フラット化」であり、そういったフラットになった情報がtwitterのような高速情報交換な場で感情共有的に精査なく結ばれれば「フロー」って印象は持つかもだけど、そういう造語で特に肯定するものでもないように思う。




利用と満足と同じように「ジャーナリスティックな情報志向だけではなくエンタメも求められてるねー」ぐらいの話


そして、

そういった情報への志向は「消費」的なのだということ


議論空間を考えたものではなく







▽「直列につなぐ」問題再びたび


クロ現で震災時のいくつかのソーシャルな恊働(ボラ)の紹介やってたの見つつ


Togetter - 「クローズアップ現代 Twitter連動企画『今、私たちにできること』 2011/03/29(火) 20:00〜」
http://togetter.com/li/117304




手話ニュース、被災地が必要としている物を企業などに支援を求めて提供しようという活動、ヤシマ作戦などが紹介されていた


こういうのは「直列につなげ」的なものかと思う。


単純な目標・作業内容の提示によって漠然とした善意の宛先に標をつけ、そこに志向性をもたらした(ように見えた)


そこで問題になるのは「漠然とした恊働(善意)の宛先がほんとに信頼せに足るものなのか?その善意は無駄にならないか?」ということだけど。そういった信頼性を担保するのは、現時点ではやはりマスメディアかなぁ、と思った。



「善意」でアルファに宣伝依頼飛ばしてもデマがデマを呼ぶだけだったりするので


デマは政府より信用がある - 今日も得る物なし
http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20110329/1301404366


誰かが精査しないと



あるいは、信頼性の担保としての近くの人 に依るというのもありかもしれない


Togetter - 「心が黒い渦に巻き込まれないために」
http://togetter.com/li/114215




オピニオンリーダーを分散させるということ

あるいは

問題に当事者性をもち、ケツをまくらない人を探す、ということ





▽tumblr的なものの価値


ちょっと腐し気味になったけど、最後にtumblr的なものの価値として自分的に思うこと。


tumblrもフォローしてるひとに依るとは思うんだけど、そこで流れてくる情報、というか全体としては雑誌記事のようなそれは「世間知に通じてるな」って印象がある。

2ちゃん的な世間知、いままで伏せられていてジャーナリスティックな公共空間では「ないもの」とされていたようなホンネとか、そこまでいかないにしても生活上のちょっとした価値観みたいなの

弱者の不安や、「どうしてそういう人たちがそういう思考をしてしまうのか?」というようなことがなんとなく伺えたりする。


そういったオルタナ世間知な雑誌的な価値がひとつ


もうひとつは高速な情報処理なところ

処理というよりは消費に近いような高速情報クリップ、クリップすることそれ自体の快感的なもの

「クリップしたものをあとで確認する」ということもあるだろうけど、reblogした時点で満足ってことがけっこうありそう 


それは情報蕩尽ともいえるだろうけどまぁ消費だ。



本エントリ上段のSECIモデルを介した考察に繋がる。


情報としてinputという過程は「内部で暗黙知→形式知交換(cf.帰納)し、形式知同志をつないでいく(cf.演繹))」という情報処理が必要なわけだけど形式知にまとめる以前のアモルフ(ぐにゃぐにゃ)な状態


それは逆に言うと、形式化され可能性が定まって(縮減される)以前のもやもやとした情報の総体、といえる


「形式化されていない」ということは既存の価値に引きづられる以前の状態ということ。

あるいは

外部の既存の価値に引きづられるかもしれないけど、自分の内部では志向が凝り固まっていない、という状態


そこで言語以前のなんとなくなイメージの処理が飛び地的にできていったら、それはハイデガーが形式的指標の可能性として挙げていたものに近くなるのではないか?


「語りえぬもの」「語ると言語(社会)の慣性(常識)」に引きづられてアポリアに陥ってしまうもの

ハイデガーの課題としては「存在」がまずもってそれだったわけだけど


そこまでいかなくても、なんとなくな複雑系の思考を誘発するような高速な脳内処理が期待されるのではないか、とやや希望的に思ってみる。


神学の言葉遊び、ダジャレという神のパサージュ(足あと)





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関連:
Re:複製技術時代の芸術(reblog): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/55638157.html



たんぶらー自動ログによる無意識領域のhackの可能性: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/57043999.html



twitterに宿るアウラ? (体験知と情報知): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/47526497.html




posted by m_um_u at 01:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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