読んだので自分的な整理程度に。自分の解釈-理解メインなので引用とかなしで。
アーレントというと「公共性」「政治への意志をもつことこそ自由だ」的な感じなんだけど読み進めていくと違ってて「自由」ということが一番の焦点ぽかった。
「自由っていうけどどういうことなの?」
「野放図に生きてしたいこと全部出来れば自由なの?」
「その『したいこと』ってのはほんとに自分がしたいことなの?」
「セックスとか食事みたいな本能的な機制、承認欲求みたいな社会的な機制、通念あるいは既成の価値観に依るものなんじゃないの?」
「じゃあ『ほんとの自由』ってどういうもの?」
アーレント的には本能や社会的機制、既成の価値観にもしばられない状態のために政治的コミットが必要という話になる。
コミットというか(アーレントの用語における)「活動」を通じたpublicへの参加。ここでのpublicは古代ギリシアのポリスが想定される。家(私空間)の私的利害の絡まない public な言論空間への参加。動物的な欲求だけであることに対して、(政治的)活動を通じて他者の視点を取り込むことによって自己の視野を拡大することができる、と期待される。
しかし「活動」が最優先なものとなり「活動のためにはほかのことは犠牲にされるべきだ」となるとどうだろう?たとえばマルクス主義的な運動のように。 それは「自由」といえるのだろうか? ちなみにマルクス主義的な「運動」は行動メインなイメージなのに対してアーレントの「活動」は政治的言論活動が想定される。
ここで「運動」≠「活動」に自己を投じる以前に立ち止まってその是非を問う期間(「観想」)の必要性が浮かび上がる。「行動するだけが活動なのか?」「『傍観者』の期間も行動の是非を考える期間として必要なのではないか?」
「おそらくそういった課題をもってアーレントは「判断」の価値を考えていこうとしていたのだろう」と著者は推測し「判断」の過程も「活動」と同じ重要性を持っているものとされる。直接的な「行動」や政治的言論「活動」以前に立ち止まってその是非を問う「観想」期間の中で、過去の歴史や経験を参照し最終的な「判断」をする。
自分的には(政治的言論)「活動」とその是非の思考・反省期間(「観想」)を通じた「判断」、2つの往還が必要ということなのだろうなと理解した。
<「自由」は生得的なものでもなく、政治・社会的コミットにおけるコミュニケーション(「活動」)を通じて確かめられていくもの。また、ただ「活動」すれば良いというものでもなく「活動」の是非の反省(「観想」からの「判断」)を通じて「活動」によって得られる「自由」も再確認され修正されていく>
以上が自分の「アーレントの解説」としての本書への理解となるわけだけど、なんか基本構造をおーざっぱだったので人様のエントリもいちお見るに
今こそアーレントを読み直す - 池田信夫 blog(旧館)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/43e1d3fb51a336480bf5bd584502d057
こちらでも「自由」に焦点しつつ、固定した価値観による複数性(≠自由)の封殺は忌むべきものだ、という話。当時は「派遣村への共感をもたないものは人非人だ」みたいな言論(価値観)封殺だったけどいまは「無縁社会」ということになるか。
[書評]今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/05/post-781a.html
こちらは当時の「格差社会」の風潮と言論封殺みたいなのが前半部。後半はちょっと意外だった。
今回はまとめるのめんどくさそうだったので控えたのだけど、本書においてなされていたアーレントの政治的「判断力」の議論はカントの美的「判断力」の議論からの援用であるという話。同情的な「共感」ではなく、他者との共通感覚、内面化した他者の語りとの内的シミュレートを通じて個人の心性は拡大し、他者との調和の基盤になる、というアレ。
後段はアーレント-仲正の感想的人間存在としての「私」と「他者」をつなぐ「拡大された心性(enlarged mentality)」の話に刺激された共同体の固有性と普遍性との接続の可能性の話。
ここでの「言語経験」はその共同体の歴史的経験をはらんだ固有の歴史的重層性のことだと自分的には解釈した。例えば「無縁」や「社会」、「自由」のような意味のすれ違いが生じる。
「無縁社会」という空体語と「社会」や「自由」という翻訳語について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/186831256.html
しかし、ドイツ出身でありながら英語という異国の言葉で思考したアーレント自身の実践がそういった固有性と普遍性の間を埋める実践そのものといえるのではないか?
普遍性と歴史的重層性(固有性)への配慮ということではこの辺思い出しつつ
ルワンダ虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺とは異なる - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060304/1141473634
最近ではこの辺の話も絡むか
そんで以下は関連で思ったこと
アーレントの「自由」を「あらゆる機制からの開放」としたとき、それは西田の純粋経験の感覚、あるいは武芸の「自在」の感覚と同じなのかな、と
「天道≠天皇」で「天道」の部分だけなんとなく大衆信仰されていっていたのではないか: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/186948309.html
「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」という天との繋がりの感覚というのは public な活動に繋がることとそれによって得られる視野の拡がりの話に似ている。
私的な内的感覚としての純粋経験が「善」という社会的なものに繋がる契機というのはその辺の話だったのだろうか?
もちろんそこでの「善」は善悪的な価値観的なものではなくエロス的な「善悪の彼岸にある存在の脈動への全肯定感」(ただ純粋に「ある」ということの実感と感動)だろうけど
少なくとも「善の研究」一周目ではそれは読み取れなかったけど、案外こういうのは随筆集的なとことか、生活での雑談の中に残ってるのかもなぁ。。(ということで上田閑照日記の続き読もう
そして「バガボンド」の文脈を借りるなら「自在」「純粋経験」という個人的な感覚は、「理」「善(快)」「美」といった共通感覚(というより法則性の経験知)の内面化、それを介した他者や世界との対話のシミュレーションを通じて社会への回路を開かれることとなる。
「バガボンド」における本阿弥光悦のところの美的感覚語りはそのままカントの美的感覚話にも似ているように思える。光悦が「自在」の「理」を「美」として捉えていたのはその2つが他者との接点としての共通感覚だったから?
だとしたら「天下無双」というこだわりを捨てることで「自在」という個人的感覚にもう一度立ち戻った武蔵が社会へ向かう契機として、「美」と「理」(それを介した「天」)の話が出てきたのは至極当然の流れだったか。
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関連:
天才バガボンド (内田樹の研究室) <
http://blog.tatsuru.com/2008/06/30_1113.php
登場人物たちの語った言葉も描いているときは、「この言葉しかない」と確信して描いているのだけれど、何ヶ月か経って読み返してみると「謎めいていて、自分でも意味がわからない」ということあるそうである。
なんか納得した



