2011年02月20日

「天道≠天皇」で「天道」の部分だけなんとなく大衆信仰されていっていたのではないか



網野善彦・鶴見俊輔、1994、「歴史の話」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/186739555.html


「道徳的に正しいとか、そういう話ではないんです。俗界における善悪の判断をこえた存在の脈動があって、それを感じて、これが善だ、これはいい、という感覚なんです。」


あたりの話と「戦国期は天道思想が信奉されていてそれがそのままキリスト教を受け入れていく土台となっていった」辺りから


「天道」VSキリスト教: 千種通信
http://triceratops.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-94e1.html



もしくは「翻訳成立事情」に出てきた「Free」の翻訳語として「自由」や「自在」が検討されていった経緯をみつつ




「バガボンド」で出ていた天の思想というのはキリスト教由来かと思ってたけど天道思想だったかな、と


「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html


いま見直すと井上雄彦が甲野善紀の「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」って言葉に影響されて入れていったようだけど、資料なんかから天道思想とリンクさせていったのか?(わかんないけど)



剣の道を極めたとき、あるいはある程度ようやく満足持って動かせるようになったときに「我が剣は自在を得たり」って言うけどこのときの「自在」が「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」という感覚。自然の理(ことわり)に繋がって、その意味では型の限界はあるんだけどその数の膨大さがゆえにつながってないときに比べて無限とも思える可能性が拓けるみたいな…もっと単純に言うと純粋にパフォーマンスの向上を感じて自分が自分と意識できないぐらいに行為の中に没入するようなあの感覚。。

そういった感覚の中だと「善悪の判断を超えた存在の脈動」が感じられた。



そういった純粋経験な感覚と武道(あるいはなんらかの道(技芸))における自在の感覚が通じていたとして、それがそのまま天道として普遍化していったとは思いにくい。


でも、「運命はきまっている。(天に預けている)それがゆえに自由だ」というのはそのまま神の愛を前提としたカトリック信者の感覚にも似てるのかなぁと思ったり。



そういった大衆信仰的な感覚としての天道というのは「お天道様が見ている(につつまれている)」的な感覚だったのかなぁ



それと天皇制との関係はどうだったか?



もともとは中国の天道思想(「天」の正統を継ぐものによる革命思想)からの影響で「天皇=天の代わり(ほかの大王とは別格)」という形で導入されていった思想から「天の名代としての天皇」という神聖王的な面と、森林や田畑の所有者という現世王的な面が分離していったのかなとなんとなく


自勉ブログ 第2章 神国思想と天道思想
http://houdai.blog61.fc2.com/blog-entry-380.html


前者の神聖王な部分は「お天道様」な太陽信仰となんとなく習合し、「天皇」はこの世に人の形を持って存在するという認識ではなく「かみさま」的な感覚で信奉されてたのかな、大部分の庶民にとっては



それであとから「あの天とは実は天皇(みかど)のことだったのだ」っていわれて国家神道的になっていったのではないか




まぁ、たしかめてないからヨタ。これから見てくガイドライン的なメモとして



posted by m_um_u at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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