2011年02月20日

「無縁社会」という空体語と「社会」や「自由」という翻訳語について

このエントリの最後のほうで無縁社会に触れたのでついでに


網野善彦・鶴見俊輔、1994、「歴史の話」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/186739555.html



「無縁社会」の話はけっこうめんどいわりに自分的には得るもの少なそうなのでエントリの形できちんとまとめるのはやめとこうと思ってたんだけど「無縁」とか「社会」の語用変化、そこに含まれる物を考えるのにはいいかと思ったので。


先のエントリでも言ったように「無縁」自体はもともと悪い意味でもなく、網野さんの本とかそれを受けた隆慶一郎の「吉原御免状」読んだことある人なんかは違和感のある話。


もともとは「(新しい縁を組むために)無縁(まっさら)にしたもの」程度のことだと思う。なので意味的には「フリーソフト」の文脈でストールマンが言っていた「Free」の意味に近いように思った。

このときの「Free」の意味は「無料」ってより「まっさら」って感じだし、そういった自由の中で「責任」が含意されてくる。無縁も同じ


なので民主主義、市民社会における「個人」と「社会」の関係が絡んでくる。



「市民社会は自由な個人を前提として成立するけど、その自由は責任を伴う」なアレ。


後述するけどここでいう「自由」と「無縁」の意味するところがけっこう近い。





簡単に言うとNHKでいってる「無縁社会」というキャッチフレーズは実体がおぼろげな空体語であってその単語そのものには意味がない。

実体と提起されている問題はこちらで指摘されてるように「社会的排除、社会ネットワーク(の誤解)、少子高齢化問題、青年期の疎外感」であってそれは「無縁」とは直接関係ない。



桜井政成研究室  無縁社会への処方箋
http://sakunary.blog134.fc2.com/blog-entry-45.html




空体語というのはこんな感じ


河合孝彦のBLOG ≫ Blog Archive ≫ 実体語と空体語について
http://www.kawaitakahiko.jp/archives/533


日本でよくある「なんか格好よさげなカタカナ語(の割りには実体とらえてないもの)」とか想起すればいいと思う。

カタカナ語でなくても「文化包丁」「文化鍋」「万能文化猫娘」な「文化」とか。

そういう「わぁ、なんか洗練されて進歩的なのねぇ」と思わせる割には中身問われると「?」ってなるような言葉

「無縁社会」の場合はその逆でネガティブイメージを与えられた空体語なだけ


この辺の話は「日本人とユダヤ人」でも出てて


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「日本語は意味の重層性がないから新しい意味をつけ放題だ」みたいなこと言ってた。これはそのまま先のエントリにおける鶴見俊輔の問題意識にも通じる。彼の世代の場合は「それまでシロと言わされていたものをクロといわされるようになった」終戦時の実体験だったのだろうけど。



先のエントリ絡みで言うともともと日本には「世間」って言葉があり、(網野さんによると)「世間」にはすくなくとも江戸時代からの伝統があるのになぜ使われなくなったか?


この辺の事情は「翻訳成立事情」にもちょっこし載ってた。


翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)
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「世間」の代わりに society の訳としての「社会」が使われだしたから、ということになるんだけど翻訳された当初の「社会」には society がもっていたような重層性がなかった。

すなわち、「市民『社会』は自由な個人を前提として成立するけど、その自由は責任を伴う」、なアレ。

society という言葉には「(特定の身分・仕事などにとらわれない)自由で平等な個人」同士の交際、集まり・集合体などの意味があるわけだけど、その翻訳語として造語された「社会」には当初そのような意味は含まれてなかった。



「社会」とは「社」と「会」であり、「社」には「同じ目的を持った人による集り」の意味がある。明治初年、この「社」ということばが流行語のひとつとなった。「○○社」といった表記のもとでの団体結成、集まりなどが流行りとなっていた。ちなみに「新聞社」という名称もこの頃使われだした。

こういった「社」の流行の中で、「社会」はたとえば「乃チ民間士気ノ振フナリ、社会ノ立ツナリ極メテ可ナリ。」のような語用をされていた。ここでの「社会」は「会社」のそれと極めて近い使われかたであり、「○○社のように目的意識を持って集まった人々の集合」= company 的なそれに近い。

西周、福沢諭吉などが所属していた明六社ではこのような「社会」の語用がされており、したがって「社会」の意味するところは最初きわめて狭い範囲の結社(会社的なもの)を意味していた。



このようにまだ「世間」のほうが広い射程を捉え、射程の広域ということでは翻訳当初の「社会」よりも society に近い意味をはらんでいたはずなのになぜ society の訳語として「世間」は採用されず「社会」が採用されていったか?



「(なんとなく)肯定的な価値をもっており、かつ意味内容は抽象的」であったから、ということになる。


「長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字にはよくは分からないが、なにか重要な意味があるのだ、と読者の側で受け取ってくれるのである」


「翻訳成立事情」ではこういう現象を「カセット効果」と呼んでいるけど「空体語」と共通する。こういうことは漢字→カタカナ語となってそのままいまの人文界隈、もしくはマスコミなんかでのキャッチフレーズ的演出に残っているように思う。



これに対して「日本語の昔ながらの意味の重層性(cf.ことだま)を大事にしつつ、それを新しい現実と接合すればいいではないか?」という考えもある。それがまともだと思うし福沢諭吉なんかはそういう考えだったみたい(cf.「文明論之概略」)。でも「以前の文脈(意味の重層性)をひきずっていることばの組み合わせだけではその社会に現れていない現実をうまく構築できない(インパクトがない)」みたいなことになるみたい。それで「とりあえず」新しい言葉を作るわけだけど、その「とりあえず」がいつの間にか忘れられ現実から遊離していく、と。


たしかに「無縁社会」の実体的課題を考えるとき、「日本にも昔ながらの縁はあった」という例として「講」や「惣」が思い浮かぶが、上述してきたように「無縁」+「社会」の「(市民)社会」的問題を考える際には「講」「惣」的な特定集団の利害のための暫時的契約関係というだけでは薄いように思える。

たとえば「無縁」の実体的問題として「社会的排除、社会ネットワーク(の誤解)、少子高齢化問題、青年期の疎外感」などは国家-政府を前提とした社会保障が必要な問題にも思えるが、それらは不況を背景にした後期近代化といった状況の中で国家から分離されそうになっている。そのとき市民社会がこれらの問題をどのようにうけとめるか?という未だ見ぬ現実が立ち上がってくる。


ふつーに「貧乏人同士肩寄せ合って互助すればいいじゃん。昔の長屋みたいに」というのが単純な解として思いつくわけだけど、それと国家を介した互助としての社会保障を諦めないということ。両者の中間項を理想論ではなく現実的な課題として考えていくというのは未曾有な「現実」ともいえるだろう。


「社会的弱者のためになぜわれわれが金を出さなければならない?(こっちも不況で余裕ないのに)」


そういった場面で改めて市民としての自分と社会との関係、あるいは市民社会を通じた国家との関係が問われはじめるのかもしれない。






最後に、網野さんのいっていた「無縁」は「Free」と似ているように思う、な連想から。


ミルが「自由論」で「個人(indivisual)」に対するものとして設定していた「社会(society)」と現在の日本の「世間」の意味するところが似ているように思った。すなわち「しがらみ」的に個人に対峙する「世間」。

「世間」のように構築されたものに自由(free)を奪われ、そこからの解放を目指す自由(liberty)かなと思うに、デフォルトな自由状態としての Free と 拘束からの解放としての libertyとではどっちが「無縁」に近いのかな(やはりFreeのほうだろうか)。


自由 Freedom Liberty: ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
http://mb101bold.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/freedomliberty_345d.html



同様の文脈で「自由」が翻訳当初「わがまま」「やりたい放題」の意味をまとっていたことと現在の「無縁」に対するネガティブなイメージの有り様はなんか似てる。

自分の家の門口に転がり込んできた博徒が「自由」という言葉を「やりたい放題」として捉えて権利を主張したことに柳田国男は違和感を持ち腹を立てたわけだけど


 『若い博徒と柳田とは、この開明派と保守派のように対立しあっている。賛成する者も反対する者も、ともにその意味についてはよく分っていない。しかし両者ともに真剣に、熱中して「自由」に賛成し、あるいは「自由」に反対しているのである。』


「自由」を「無縁社会」に置き換えて見なおしてみると「無縁社会」という訳の分からない言葉をめぐる状況そのままっぽい。










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書き残し的課題:
「世間」の意味変化 (江戸時代あるいは1000年前には肯定的な語感だったのか?それとも否定的だったのか? cf.五人組)調べる。

(「世間」のしがらみ的な実体は江戸の因習と関係していたのではないか?(それ以前の「世間」はそんなに悪い意味あったのか?)



※自分で調べるよりも知ってそうなひとに聞いたほうが早いかなと思ってtwitterで聞いてみた





cf.阿部謹也さんの世間論(≠イザヤ・ベンダサン「日本では博士や弁護士もまとめて『先生』(偉い人)扱いするが「○○さん」として平等にコミュニケーションしない」)


阿部謹也の死で思った: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/09/post_b05e.html





アーレント → ルソー・ロック 辺りの市民社会→民主主義見なおし




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いちお関連:





公共性と世間のプロトコル相違の問題(およびアーキテクチャ設計について): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/71341707.html

タグ:公共性 世間
posted by m_um_u at 10:09 | Comment(0) | TrackBack(1) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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