「あいつも知ってんだろ?だから俺を見て、笑ってたんだろ!」
「自分が事件を忘れようとしても事件(周り)が自分を追いかけてくる」
「許して欲しいなら、死んでよ」
「思い出さない日はなかった」
「あんな事件を起こした俺を、世間は許してくれるんですよ。驚くほどあっさりと許してくれるんです。もちろん嫌な顔をする男たちもいます。でも、心のどこかで、おれがやってしまったことを許しているというか、理解しているのが分かるんです。許すことで自分が男だってことを改めて確認するみたいに。だから、俺も自分で自分を許そうとしました。許さなければ、許してくれる男の中に入れなかったんです。そこにしか、生きていける場所がなかったんです」
「女のことは分からないもんだって、ずっとそう思ってきたんだ。…だから男のとき以上に、マイクを強く突っ込んじゃうんだよ。大勢で取り囲んでさ。男の犯罪者が謝る以上に、謝ってほしくなるんだよ」
「どこまでも不幸になるために、私たちは一緒にいなくちゃいけない。 幸せになったら、きっと壊れてしまう」
罪を犯した相手を許せるかどうか
前のエントリでも書いたように簡単に「許せ / 許せる」というものではないように思う
「許す」というか「忘れる」、「消化する」ということかな: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/184559456.html?1296981936
ただ、社会・法的に「罪」「悪」とされ罰を課されることについて。
法的に一定のルールを超えた場合、「悪人」ということになるのだろうけど、実際はそれを哂っているひとたちのほうがエグくて醜く思えることがあるのではないか?
あるいは社会的制裁然でマイクを向けるカラスたち
吉田修一、2007、「悪人」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/51177686.html
そして法的に罪をつぐなっても、あるいは39条問題のように法的には罪人とされない場合、その悪は「許された」といえるのだろうか?
そんな釈然としないことが往々にしてある
それに対して「最後は当事者間での納得」であり、そこに至る過程をある程度説得力をもって描き出(シミュレート)してみたのが今作ということだろう。
「当事者間の納得」という部分で「東京湾景」にも出てきた「男女間の納得とはどういうことか?」的要素を絡ませて
けっきょくこう言った場面での「納得」とか「誠意」というのは論理的ただしさや演出(テクニック)ではなく本気の度合いなのだろうなぁ。。
男女間の場合は性愛のような変数的なものも絡んで感情が変わってくるのだろうけど
案外そういった「本能」ともいえるような、論理的・合理的に不可解なもののほうが「ほんとの気持ち」ってこともあるのかもしれない。
罪という不条理、そこから生じる傷は「業」ともいえるような不可解さでないと対抗しえない。あるいは条理を超えた状況において条理(テンプレート)を超えた男女のほんとが浮かび上がる、というような。
おそらく「男女のほんと」の部分ですべてを受け容れる女の懐の深さとそれと相反するような残酷な業のようなもの、男のちっぽけさ / ちっぽけながらも女に寄り添おうとするやさしさのようなものを描こうとしたのだろう
そういったことを描こうとした作品だったか、とあらためて思った
「あなた(わたし)には死すらも生ぬるい」というとき
ひとは罪を抱えて生きて行く
罪は絶えず己が心を苛み、生は苦海となる
そして男女は人並みのしあわせをあきらめ無縁の谷にたどり着く
苛烈な痛みを逃れるために男女の性にすがる二人
しかし、憎しみ / 罪の針は忘れた頃に鎌首をもたげ、「おまえたちは無縁のものなのだよ」と心を刺す
それはまだ救いといえるのかもしれない
生ぬるい「許し」を偽装されて生きるよりも、時折もたらされる正直な痛みのほうが
贖罪の中にある救い
一生消えない傷を持った者の道連れの中で生まれる、「恋愛」とは異なった愛?のようなもの
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罪と罰関連で
天童荒太、2008、「悼む人」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/116779813.html


