朝ぐらいにこれをみて
人を許すってどういうことですか?
http://anond.hatelabo.jp/20110203223019
なんかいろいろつぶやいていたんだけど、そうしてるうちにあれとかこれとかいろいろ思ったのでまとめて。
かつて自分をいじめていた相手が数年ぶりに「会いたい」っていってきて、会ったら相手が謝罪してきて…ってところで怒りが自然にわいてしまった、みたいな話。
「最初から会わなきゃいいじゃん」「謝ってるんだから許せばいいじゃん」ってのは一般論としてあるだろうけど、会いたくないとことわったが知人がしつこく勧めてきた + 「私自身も成長したから、会っても大丈夫かなという気持ちもありました」ということだったのかな、と。
自分も似たような経験があるのでなんかいろいろ思ってしまった。「なんであのとき自分は会いに行ったのか」「相手もなんで会いたいと言ってきたのか」「どういう言い方がよかったんだろ(のぞんでたんだろ)?」
自分の場合は会ったときはそれほどでもなかったんだけどあとで不快が込み上げてくるのを抑えられなかった。それに対して「なぜ許せなかったのか?」みたいな自責もちょっとあって、その辺の相反する気持ちが精算できないまま堆積していた。 氷みたいに
相手がまたいじめてくるなら最低の糞ヤローとして異化できる、自分の中の記憶として消化 → 忘れてしまえるだろうけど、
相手の謝罪というか認識が自分が思っているよりも軽かった場合、自分の中の記憶や事件の重みさえ書き換えられるような気持ちになるのではないか?
「(口では「謝って済むことではないと思うけど」といっても「許して」という言葉が出てしまうのは)あなたの中のどこかにこの場で謝って済ませられることだという認識があるからではないか?」という疑念
あるいは、
どこまでいっても自分の中の事件の重みと相手側の事件の重みは交わることはないだろうに、それを無理やり相手側の現実で塗り替えられてしまいそうな腹立たしさ
たしかにいまの自分はいじめられていないけど、過去の自分はそれによって殺されてしまう
「過去にこだわって憎しみ続けるのは不毛なこと」「それ自体が一種の依存であり憎しみに依って自分自身が存立していくことになる(ミイラ取りがミイラになる)」というのは一般論としてはわかる。
しかし、そんなに簡単に「許す」ことができるだろうか?
このことは以前も思った
その気持ちを救うのは....: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/49747050.html
傷が大きなときは憎んでいなければその後も立ち続けていられないこともあるだろう
それを通じて
時が経てば自分の中での「そのこと」に対する意味や認識が変わってくるような
「許すことはできない」けど「憎み続けることはない」ぐらいに
「許す」のではなくて「共通の痛みや配慮をもった別の人との付き合いを新しく始める」というような
自分があのとき「会ってみよう」と思ったのは「許して / 別の人との付き合いとして新しくはじめてみるのもいいかもしれない」「自分は深刻に思いすぎてるが相手の中では重みが違っていて、もしかしたらその認識を通じて自分の中の経験を相対化−消化できるかもしれない」という期待があったのかも
後付けになるけど
ただ、相手の認識があまりにも浅かったり軽かったりして気分が悪くなったのかも
(ほんとは↑から思い出して本の感想文書くつもりだったけどこのまま続けるとダラダラ長くなりそうだから別件にしよう)
2011年02月06日
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