「金や銅の像の中に神はいないですよ」
「わかってます。しかし塵を払って仏を見る心持ちはどうでしょう?」
「(…塵を払って十字架を見上げる気持ちかな?)」
「仏もまた塵です」
「日本人とユダヤ人」読んでて出てきた言葉
文脈としては「日本人は契約や言葉のように明示なものとして宗教を入れるのではなく、そのウラにある言外にあるものを読み取ろうとする。そして時には以上のような禅問答になったり…」みたいなの。偶像崇拝の是非的な文脈から宣教師が問い、老人が応える。
これ自体はまぁそういうものかなぁと思ったんだけど先日からちょっと頭に残っててなんかいろいろとリンクしたのでボケーッと
自分的には上の問答の解釈は偶像崇拝うんぬん以上に「塵を払って仏や十字架を見上げるとき、凛と張り詰めた空気の中一条の光に照らされる像を見上げるとき、その空気自体がなにか荘厳なものを作り上げているのではないか? 神や仏といったものももともとはいないのだから、むしろそこに至る過程→それに裏付けられた気持ちこそが仏や神を心のなかに実在させるのではないか? 仏像に祈るのはたしかに誤りであろうが、祈るという行為を通じてその場に神が具現しているのだ。それは塵を払うことによって神聖化を演出するのにも同じ」みたいなことなのかなぁと思ったり
元に「一切は無」という無常感があって、仏像はそこに色付けされた暫時的な目標のようなもの。それへの信心が大きければ色は全体を覆うほどのリアリティをもつだろうが、もともとは塵に同じものなので対象としては常に移り変わる。
「色即是空、空即是色」
「地と図」
というのはそういうものかなぁと(フラクタルみたいな
そんなことをなんとなく思っていたせいか次のことも似たように思えてひっかかったり
「美は細部に宿る」という言葉
これ自体は建築系の名言みたいなので19C後期にミース・ファンデルローエって人がいったとされるんだけどもともとは「神は細部に宿る」なんだろう。
そんで「神は細部に宿る」は同時に「悪魔は細部に宿る」的意味も持つ、と。
ラテン語かギリシア語辺りにもともとの由来-出典ないかなと思ってぐぐるに特に見つからず。
自分的にはベンヤミンのところで出てきた新プラトン主義系の「神は世界のあらゆるところに痕跡を残している」みたいな話かとも思ったり
ナウシカ解読と正義の審級 ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html
「神はその実在的本質のすべてを被造物のなかに流し込んでいる。(それを発見できないのは人の怠慢)」ってやつ
「細部に宿る」の意味的には、「全体の設計理念は細部のデザインからも明らかになる。逆に言えばすぐれたデザインとはそういったものだ」、的な話かと思うんだけどそういった理念が普遍的とも言える合理性(ことわり)を持っているとき「それは神の残したあしあとである」と言えるのではないか。
オーパーツのようにあらかじめそこにあったかのように浮かび上がる理。それが逆説的に神?の存在証明となる
「美しい」というのはそういうことかなと思ったり。
地の中に図が、図の中に地がフラクタルに連なっていく感覚
そういえば「バガボンド」の天の理と「うつくしい」あたりの話もこんなのだったかな
--
「神は細部に宿る」の出典しらべてたらこれにたどり着いた
図像解釈と図像学--prof.Fの西洋建築史講義--pallanoia.org
http://www.pallanoia.org/lecture/?chapter=1§ion=6&term=3
形式(演出)と内容(メッセージ)があるとして、「作品の内容を正確に掘り出さねばならぬ」とするならばその方法は厳密であるべき、とする → 図像学、と
「形式と内容」について、ぼくは形式とか演出、レトリック先行な内容のないものをうざく感じるほうだけど、今回の日記を見返すに人の世の「ほんと」というのは存外「形式」によってつくられているものかなぁ。。
ていうか、「形式」であれ「内容」であれしょせんは人の理解-解釈によって意味を持つモードであるのだから、最後に信じるに値すると思える判断基準というのはその背後にある本気度(祈り)の積層への直感のようなものなのかなぁと思ったりした。
祈りって言うか、形式化によってベタなテンプレにはめこまれる前のシニフィエの混沌、流動性と多義性
「形式か内容かどっちか」、って話でもなく
タグ:形式と内容

