2010年09月19日

「わたしたちメディア」とジャーナリスティックなものの間の話

走りながら久々にpodcastのlifeきいてたらtwitterの話してて、まだ全部聞いてないんだけどどうも流れとしては「祭り」や「感情共有メディアとしてのtwitter」を肯定的にみていってもいいんじゃないか?(限定はあるにせよ)みたいな感じだったのでそういえばそういう話してたなぁ、と


直列・並列問題ふたたび ≪ Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2009/11/21/serial-or-parallel-again/

実は日本語のウェブサービスのポテンシャルは、誰もがジャーナリストとして、独自の視点から情報を持ち寄る、つまり自律・分散・協調を特徴とする並列接続の集合知ではなくて、みんなで一斉に同じことをやったとき、つまりは直列に接続されたときにもっとも発揮されるんじゃないか、なんてことを思ったのだった。

そのポテンシャルが何に使えるのかは分からないし、それこそサービスのアルゴリズムがその何かを抽出したり創成したりすればいいのかもしれない。ただ、集合知って単にたくさんの人の情報が集まらないと意味がないわけで、そのときに「みんながやってるから自分もやる」という集団主義的な行動がもたらす快楽というのが、多くの情報を発信させる十分な動機になり得ているのは確かだ。

ジャーナリスティックな視点はあっていいし、少数の人がTwitterの発信力を活かして、直接Followerたちに独自取材の「ニュース」を配信することの可能性を、別に否定するつもりはない。ただそれはどこまでいっても「既存メディアのオルタナティブ・チャネル」であり、「正確に情報を伝える」とか「緊急時にいたずらに不安を煽らない」といった報道倫理の問題を含め、これまでマスメディアに課されていたテーマも引き継ぐことになるだろう。

直列接続の集合知は、そうしたメディアの可能性とは、性質を異にするものだ。



「twitterのようなCGMの可能性はジャーナリズム的な様式のオルタナティブ」ではなく「感情共有的な楽しみにも可能性があるのでは?」、と。

この辺は以前マスメディアの情報価値追ってたとき「利用と満足」研究辺りの可能性に感じたことと似てる。マスメディアにおける情報価値というとどうしても「ジャーナリズム的な情報」に偏り、その文脈から「blog・twitterはこんな意義があるんですよー(ジャーナリスティックに意義があるんですよー)」と言わざるを得なくなるんだけど、blogやtwitterあるいはそれ以前に2ちゃんやはてななどをやってて満足感じたところって実はそういうところでもなかったりする。

もちろんジャーナリスティックな価値、情報の新規性・正確性・速報性などをネットの活動から感じることもありそれはそれで価値があるんだけど、われわれが普段のネット活動を通じて得ている満足(これ面白かったねー)というのはたとえば自分と同じふつーの主婦のふつーの生活への共感であったり、「ほら見てごらん。月があんなにきれいだよ」ってことからつながる共有感だったりする。

それらはマスメディアなんかではあまり伝えられないような、ニュース性のないふつーの生活のリアリティ。実はそれこそが原義的に「ジャーナリスティック(日記的)」な情報であるはずで、近代に完成したマスメディアジャーナリズムというのは商業的でプロフェッショナルなフォーマットなのだけど(cf.林香里)。

マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心
林 香里
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おすすめ度の平均: 2.0
1 夢見がちのユートピア志向の書
3 東大の博士論文



なので、プロフェッショナルジャーナリズム再生の起点というのも実はこの辺りにあったりする。北海道新聞の高田さんが出会った老女の話のような


ニュースの現場で考えること : 「日本の現場 地方紙で読む」ができました(2) 「はじめに」から
http://newsnews.exblog.jp/15014521/


ジャーナリズムが単なる様式ではなくなんらかのココロザシや職業的プライドをはらんだものであるとき、その芯はこのような気持ちをもって再生していくもののように思う。


「事件は陰謀論的に起こってるんじゃない。現場は人が足りないだけなんだ」  ジャーナリズム不全の構造的問題について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/162762941.html



ところで「感情共有メディアとしてのtwitterをもう少し肯定的に見てもいいのではないか?」「平たく言うと祭り的なものの正のフィードバックを肯定的に見られないか?」というのは前作の「カーニバル化する社会」からの課題を昇華したものなのかなぁ、と思った。

「カーニバル化する社会」については未読だし、自分としては中世的な感覚、明示・律令的なゲゼルシャフトな感覚に合わせきれないゲマインシャフト的なものが溢れてきているのではないかと思うんだけど


日本における「都会と地方の話」は「中心と周縁」、「都市と村」、「文明と野蛮」みたいなのと似てるね、って話(+「若者不幸云々って世代格差ってよりは地域・階層格差なんじゃね?」みたいなの): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158783815.html


「中世」と「CGM」関連で「メディアの発生」のことを思い出したり



メディアの発生―聖と俗をむすぶもの: 蔵前トラックU
http://kuramae-japan.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-c5a7.html

メディアの発生―聖と俗をむすぶもの
加藤 秀俊
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5 碩学加藤秀俊教授によるメディア社会史の創成
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ここで語られていたのは中世(というか中世→近世)におけるコミュニケーションメディアとしての異人だった。もしくは非文字社会の歴史的な口語コミュニケーション(歴史の語り伝え)、そこでの女性の役割など。


ゲマイン−中世の人メディアのことを想うと「social mediaは中世的なメディアの再顯だぁ(ワーイ)」って打ち上げたくもなるけどそこは少し慎重に。


日本のsocial mediaの場合どうしても半径○mの現実的問題が出てくる。サンスティーン的なマイメディア問題

ネットは「興味を持っているものの詳しい情報」を得ようとする場所で、旧メディアの広告のような「興味ないものに興味を持たせる」ことは難しい。それをしようとすると、まず嫌われ、コンテンツブロックに放り込まれてしまう

http://twitter.com/TERRAZI/status/2594232749

「啓蒙」しようとしても自らのスキーマの範囲から出てきて情報処理コストがかかってしまうようなものだとスルーする。あるいは仲の良い人、信頼している人(「エライ人」)からの口コミであれば見る場合もあるがほとんどはスルー。それは有限のアテンション的には現実的な対応といえる。ひとはじぶんが聞きたい情報のみ聞く → 聞きたい情報が人気を呼ぶ(もしくは「人柄」的なあいまいなアレ


そういった状況に対して「だからこそマスメディアのような玉石混交が必要なんだよ。われわれが社会の木鐸になるのだ!」みたいな公共性論も旧来から言われていたこと。しかし、現状ではプロプライエタリなジャーナリズム・マスメディアの情報空間のリアリティは現実的な生活のそれとは乖離している。

お話的には「面白くない」のだけどそれを演出(形式)によって無理やり補強し、フォーマット的おもしろさを提供している。


そこでは単に既存の「おもしろい」の型、既存のニュース(話題)や「おもしろい話」「泣ける話」の型が踏襲・消費されているだけなのだ。




使い古されたフォーマットの組み合わせと演出面でのマイナーチェンジ、それが現在のマスメディア環境の現状であり、マンガ論的に言えばキャラクター消費の現状と似ている。そこではストーリー的におもしろいものは少なくなってくる。キャラクター消費を是とする感覚もわかるけど、それだけになると「背景資料だけ売ってればいいじゃん?それマンガなの?」ってことになる。新聞やテレビも同じ


この状況はマスメディアだけではなくいわゆる「キャズムを超えたメディア」にも繰り返されていく。2ちゃんやはてブにおける使い古された観点からの儀礼的情報交換、twitterなどでもそういう傾向は見られる。床屋談義的なステレオタイプの交換。


そして、一部のレトリック(演出)のうまいひとの儀礼交換が人気を集めていく。


しかしそれはレトリックであって情報的にはそれ程新しくないものが多数だったり。情報的にあたらしくないのであまり頭を使わず情報処理できるのだろうけど


あるいは「なんかエライ人」(オピニオンリーダー)の話のコピーだったり。




けっきょくはマスメディアにせよネットにせよ「自分が感情的に好きだから」その情報を見たり・信じたりしているのか、もしくは「情報的にクリティカルだから」見たり・信じたりしているのか、というところを自覚的にコントロールすべきなのだと思う。

「情報的に価値があるもの」というのは価値観的に自分は合わない(なんかイケすかない)人が発してるクリティカルな情報、「イケすかないけどこれは重要だな」という情報だったりすることが得てしてあったり。なので、ほんとに成長したいと思うならみょーなプライドにこだわらないこと。あるいは、そのプライドは然るべき時までとっておくこと。


要は「使い分け」ということ。「すべてがソーシャルメディアになる」でもなく「すべてがジャーナリスティックであるべき」でもなく、感情共有メディアを使っていても感情共有的シーンか情報交換的シーンかというのを意識化すること。

「マスゴミもういらねー。ネットでいいじゃん」でもなくマスメディアの再生を信じること。それと並行してソーシャルメディアの可能性を探っていくこと。


その可能性というのは制度的に物語(ニュース)化されていないふつーの感覚、日常的な生活の上でのちょっとした発見や疑問、制度(世間的タテマエ)的には「まずいだろそれ?」みたいに思われがちなことの表出とゆるい話し合いを通じた止揚、あるいは日常的な生活言語の中では回収されない実存的問題もこういう場で担保されていくのかもしれない。CS放送みたいに細々と
http://bit.ly/9henep





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posted by m_um_u at 16:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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