2010年09月17日

「王の死と再生」の話

この辺の話みながらなんかいろいろ思ったり、いま読んでる本にリンクしたりしたので


王殺し、偽王(モック・キング)の戴冠と死 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2529


聖以前の無縁状態の頃、王は人々のケガレを背負って死ぬ象徴的な存在であった、って話


それが変異したのはタタリを中心とした信仰が利益中心になった頃かな? ということでこれなんか思い浮かんだ(未読)



松岡正剛の千夜千冊『アマテラスの変貌』佐藤弘夫
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0668.html


「日本の神はもともとはタタリ神だったのに救い神的な性格も備え「賞」と「罰」を与える神に性格を変えていった。

「天照の性格の変化にそれが表れている」というのは新興宗教が教義を変えていく流れを想わせる。(新興宗教の多くは最初のころは哲学・思想的教義であっても信者が増えてくるに連れ「ご利益(りやく)」の期待に応えざるをえなくなり教義が変わってくる)



あとは「もののけ姫」、王権神授、「コモン・センス」、「中世の死」なんか連想しつつ





哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ : 『中世の死 : 生と死の境界から死後の世界まで』ノルベルト・オーラー(法政大学出版局)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2007/07/post_40.html


全体の話としては死後の財産分与に関して、ゲルマン法とローマ法での違い、そこに教会が絡んできた経緯などを解説。
結果的に財産の1/2は教会が受け取ることになり教会の繁栄につながっていった。この辺は贈与経済的価値観の中で行われていた冥銭の慣習と教会の関係を想わせたり。

貨幣経済にまだ慣れてなかった頃のヨーロッパ(ドイツあたりの中央ヨーロッパ) の人々は貨幣を死者と共に葬っていた。冥銭としてあの世に持たせるために。教会はこれを「教会に寄進すれば死者は天国に行ける」という論理ですり替え、冥銭を寄付の方向に向かわせた。



てか、偽王との関連に戻ろう。王の死と「死後もその身体によって豊穣をもたらす」という通念の辺りの記述がそれに当たる

「眠りの兄弟」の章では、王の死にたいする民衆のさまざまな姿勢が興味をひく。王は「幸運を仲介し、人間、動物、耕地に豊穣をもたらす」(p.126)という観念は中世から近世にまでうけつがれた。1106年に教会に破門されたままでリュティヒでハインリヒ四世がなくなると、市民は王の棺に触れるだけで祝福されると信じ、「種をもってきて棺台に載せ、それを他の種に混ぜて、豊かな実りが得られると信じる者もいた」(Ibid)。そして遺体の引き渡しを求められると、市民は「町の危機、荒廃」を意味すると、拒絶したのだった。





そして「もののけ姫」のダイダラボッチの話なんか思ったり。

「もののけ姫」自体は網野史観な非ヤマトな話であり、無縁に近い排除された人々とタタラのつながりを描いたものだったけど、いま思えばダイダラボッチの死と再生は天皇の王権論まで射程に入っていることを示す牽制的役割をしていたように思う。ヤマト的天皇というか、中沢新一いうところの「森の王」としての異界の王。イケニエ的偽王が去ったあとの抽象的・制度的王がヤマトの王であるとき、偽王などの象徴的代替儀式によって再演される天皇の異質性・象徴性は宙に浮かんでしまった。ヤマト以降の律令制度によって制度としての王(天皇)が立ち上がっていったのに対して、個人としての天皇の身体と呪術性は失われていった。

タタラ場の王としてのダイダラ(タタラ)ボッチの死と再生は天皇正統の南北朝的分裂、「異形の王権」的なアウトサイダーの王としての天皇の再生のメタファーだったのだな。一つ目・一つ足のダイダラボッチは明らかに障害者のそれだし



で、赤坂憲雄的王権の話


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1 難解…
2 社会学っていったい
1 学者のうんちく垂れ流し本
5 ユートピア論
4 人間精神の中の「腐海」に



(p.22) 
 王の出自を社会の外部、異邦人に求める伝承は極めて広く見られるものである。また王の主たる役割が共同体全体のためのいけにえとなることであったという事例も数多く報告されている。王は共同体の外側からやってきて、ある意味で外側に居続け、そして外側に追放される……つまり共同体に対して外的、超越的な存在であることによって、共同体全体に力を及ぼすことができる、とされるのである。この、内にありながら外にある、という王の存在様態の無理は、それによって、具体的には様々な個人の集合である社会を一つの個体と見做す、という無理……制度的な王権と呼べるものを発達させた社会は大体において、対面的な生活集団を超え出た大規模な社会である……を安全に遂行するための工夫となっている。しかし社会の無理を償う王の無理、すなわち、「ある意味で外側に居続け」ること、つまり社会の内部にいると同時に外部にいることの無理は、安定的に存立するためにはさらなる工夫を必要とする。つまり、王の存在性格のこのような二重性が象徴化、儀礼化されることが。


(p.23)
 社会にとっての内部化された外部としての王権は、しばしば、それ自身のうちにいま一つの内部化された外部を儀礼的、象徴的に孕むという戦略をとる。この王権自体にとっての「内部化された外部」は具体的に様々な形をとるが、外からやって来て王の座を脅かす者、あるいは王の代わりに王国の犠牲となるものの儀礼的、象徴的な再演を行うメカニズムであることは共通している。人類学的・民俗学的研究において数多く報告されている「偽王」、西欧中世から初期近代にかけての宮廷道化、そしてやはりありふれたものである貴種流離譚、放浪の王子の物語などがこれにあたる。かくして王の外部性は隠蔽される。


(p.23)
 こうした二重化の一つの到達点が、エルンスト・カントローヴィチが『王の二つの身体』(小林公訳、平凡社、1992年)で西欧中世に見出したような、不滅かつ全能の主権そのものという、抽象的な「王権」それ自体としての王と、それを担う死すべき人間個体としての王との二重性のメカニズムである。ここでは王たる個人はすべて、ある意味で抽象的な「王権」の犠牲である。ここからさらに「王権」それ自体の抽象性が強まれば、特権的個人としての王を必要としない、王権ではない主権、つまり「共和国」となる。のみならず西欧近代が発達させた「会社」「法人」一般は、こうしたメカニズムの流用の上に成り立っている。




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異人、「マレビト来りて…」ということだと「お客様は神様です」のことなんかを少し思ったり


もともとはアメリカのホテル(リッツ)の経営指針の「Customers are always right」が意訳されたものだったようだけど


英文法道場:Customers are always right.
http://blog.livedoor.jp/eg_daw_jaw/archives/50502754.html


「お客様は神様です」 英語の海を泳ぐ/ウェブリブログ
http://english-sea.at.webry.info/200712/article_2.html


customer が guest だと異人論ぽかったかなぁ



しかし三波春夫が言ってた意味に対する勘違いでもそうだけど、この辺から「日本人のお客様を神様とするようなサービスは美徳だ」みたいな論に持って行く人をみるとちょっと辟易する。

たしかに日本の低価格商品マーケットにおけるホスピタリティは世界的に見てすばらしい水準にあるようだけど、それを「もともとの日本人の性質」とか「美徳」とかいってるのみるともう…

それは単純にホテル・デパートからコモデティ化していったサービス業におけるホスピタリティが雇用・転職の流動性の低い日本の労働環境において「結果的に」反映されているだけのものであって、なにも従業員たちが最初から好んでそうしてるわけではないように思う。

もちろん中にはそういった経営者視点の「美徳」を内面化して好んでそういうサービスをしている人達もいてそれはそれで素晴らしいなと思うんだけど、それをもって「従業員が好んでやってる」≠「日本人の美徳」的視点もつひとというのはなんか…


構造的問題を個人の努力の問題に帰し、努力不足であることを示すために自らの構造的問題の乗り切りぶりを自慢げに語りだすという、いわゆる「奴隷の鎖自慢」を始める奴隷根性

http://morutan.tumblr.com/post/1117329826


ホテルとかはそれなりに高給もらえるからホスピタリティあってもあたりまえだろうけど、スーパーのレジで「神様」なお客様みるとアホなんじゃないかと思う。


三波春夫、浪曲師・南條文若は浪曲師のメンタリティとしてライブにおける客席との一体感の中に「神」を見ていた。それは彫刻家が木片の中に自らの内部の神(美のイデア)を投影していくのに似ている。


スーパーその他のサービス業に「神」的なものを求めるなら、客側もその再現のために参加するべきだろう。

単に偽王として店員をイケニエにするのではなく、客側も参加することで。


しかし、ともすればそのような甘やかし環境の中で「お客さま」の倫理性が殺されているのかもしれない。会社などといった社会の中で過剰に凹まされる代わりに過剰に凸ろうとする「お客様」。持ち上げられすぎて見越し入道になった「お客様」は自らの実体・良識も失っていくのだろう。







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関連:
中世の意味的コスモロジー   教会を通じたパラダイムシフトの話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161449234.html


聖性と市場のあいだ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161162630.html


「常識」と「良識」の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161638661.html


司馬遼太郎, ドナルド・キーン、1972、「日本人と日本文化」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125351878.html




posted by m_um_u at 17:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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