2010年09月07日

ジョブ型正社員(評価基準)と学校教育の職業的意義、辺りの話

tumblrで印象づけ的にquoteしてはてブでいちおストックしといたんだけどあとで見にくいのでこっちに移しとく程度のメモ。


これ関連で


濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html


結論から言えば全体の議論の前提としての「新しい労働社会」の内容とか、そこからの議論の流れに短くまとまってる。雇用流動性高めて新卒だけではなく中途採用も非正規も差別なく、ってのがそのまた前提。

要約すれば、「ジョブ型正社員のギロンは専門職以外では正社員全体で検討しにくい。なのでターゲットとされているのは現在結果的にジョブ型とされている非正規雇用社員の正社員化 + その社会(企業)保障 + 雇用の間口の拡大のためのジョブ型正社員枠の検討」、など

非専門職、ジェネラル型の正社員(中堅・エリート層)は対象としてない



社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 職業的レリバンス論とジョブ型正社員はセットで考えるべし
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-179.html

もし、そういう「ジョブ型」の世界にしたいと考えるならば、日本の雇用慣行を全部ひっくり返す必要がある。労働市場を大きく変えなきゃいけない。私が以前に書いたのは、ジョブ型のクラフト労働市場を確立させないで、職業的レリバンスなどというのは詐欺に等しい、ということでした。逆に言うと、エスタブリッシュされた専門職が成立する世界(教職、弁護士など)ではこの理屈は成立するんですね。でも、一般の企業全体をこういう風に変えろというのは現実的かどうか。基本的に職務(給)を確立すれば、物事がうまくいくと考えているような方々はいやぜひそうすべきだという立場だと理解してよいでしょう。これに対して、私は「変えるべき必要はない」という意見と「変わるわけはない」という意見を二つ持っています。たぶん、濱口先生も同じでしょう。

ん?同じ?

ここはとても重要なポイントなので、しっかりついてきてくださいよ。なんなら、前のリンク先をもう一回読んでください。なぜ、そうなるか書いてありますから。濱口先生は「メンバーシップ型正社員」(という不正確な表現は私は使いたくないのですが)をそのまま維持しながら、「ジョブ型正社員」を最下層に作れと二枚腰で考えられているんですね。ここが現実的なところなんです。

実は、私がクラフト云々といったところは、上層部分でメンバーシップ型をジョブ型にしたいならば、クラフト市場を確立すべきだという話なんですね。ところが、濱口先生はここは変えないでいい、下を変えるべきだといっている。ここで、私がこのエントリの序盤にあえて「ジョブ型」と書いて、「ジョブ型正社員」と書かなかったことに注意してほしいと思います。実は、下層部分は『新しい労働社会』風にいえば、「ジョブ型」社会(一応、欧米)であろうが「メンバーシップ型」社会であろうが「ジョブ型」なんです。だから、そういう意味では最初から日本は単純な「メンバーシップ型」社会ではなく、「メンバーシップ型」+「ジョブ型」社会と理解した方がよいのです。ここまで理解できると『新しい労働社会』よりもうちょっとアドバンスクラスに進級です。この下層「ジョブ型」クラスでは、賃金は時間給であれ、出来高給であれ、仕事に対して払われると考えられています。

この(「メンバーシップ型」+「ジョブ型」社会)という基本枠組みを理解した上で、下層「ジョブ型」に注目しましょう。濱口先生のポイントは、現在、非正規であるところの下層「ジョブ型」を新しいカテゴリとして「ジョブ型正社員」にしようというのです。この制度を当世風のワークライフバランスで薔薇色に化粧することもできますが、本質的には雇用による社会保障ですよ。事実、濱口先生は「ジョブ型正社員」に対して企業の生活保障を期待していない。その代わり、国家による社会保障の枠組みを考えなきゃなりませんね、と提言している。リンク先の(4)はそういう意味です。

こうした提案の背景には、戦後日本の福祉国家が「メンバーシップ型正社員」を標準として作られてきたという歴史認識があって、これではもたないということなのでしょう。ちなみに、「メンバーシップ型正社員」を「ジョブ型」に変えるということは、社会保障の基本的枠組みを全部組み替えざるを得ないことを意味します。基本給はテクニカルにはいろんな保険の基準に使われてますしね。変えたい人は本来、ここまでパッケージで考えてくれないと話にならないんです。とはいうものの、もちろん「メンバーシップ型正社員」と「ジョブ型正社員」の相乗りという形にしておけば、社内トーナメントで「ジョブ型正社員」から「メンバーシップ型正社員」に転換するチャンスはあるかもしれません。放っておいても企業は優秀な人材を遊ばせておくわけありませんから、必ずそうするでしょう。しかし、あえて自然によくなることは濱口先生にとっては口出す必要ないんですね。でも、相乗りということで決して閉じていない。

この「ジョブ型正社員」への入り口として、職業的レリバンス論が意味を持ってくるわけです。私は何度か職業訓練あるいは職業教育といったって、エントリ・レベルしか出来ないと強調してきました。でも、濱口先生の職業的レリバンス論はそれで十分なんですね。エントリ・レベルだけは最低限満たしている、と。マージナル大学でしっかり学位を取得することはその最低限のシグナリングになるべきだという論理になってくるわけです。ようやく繋がりました。そういう意味では一流大学や中堅大学でさえ、正面切っては仰いませんが、最初から濱口先生のターゲットになってないんです。




前提とか(暫定的)結論とかはこんな感じ。流れを最初から追っていく



「マージナル大学」の社会的意義: EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-a5af.html

いわゆる学級崩壊型DQN大学では「教育の職業的意義」以前に基礎的職業訓練を受けるようなリテラシー(コモンセンス)もない、って問題。

そんで面接1回のブラック企業に吸収されていく、とか


読んで一番ショッキングだったのが(といいながら、実はこれはかなりの程度紹介用の修辞ですが)、居神浩さんの「ノンエリート大学生に伝えるべきこと−「マージナル大学」の社会的意義」という論文です。

居神さんは本田由紀流の「レリバンス」論に対して、

>現在「マージナル大学」の教育現場を覆っているのは、教育内容のレリバンス性を根本的に無意味化する構造的圧力である。・・・「マージナル大学」におけるそれは想像の範囲をはるかに超えるものがある。

と述べ、続く「ノンエリート大学生の実態の本質」というところでは、それは「学力低下」論とも「ゆとり教育の弊害」とも関わりなく、

>同一年齢集団の半分を高等教育が吸収するということは、必然的にその内部に従来では考えられなかったような多様性を生じさせるという点が重要である。

と述べ、その多様性を「認識と関係の発達の「おくれ」」と捉えて、

>もう少し具体的にいうと。認識の遅れは例えば公共的な職業訓練を受けるのに最低限必要な学力水準に到達していないレベルにある。・・・学校を卒業しても改めて何か具体的な技能を身につけようとしても、公共の職業訓練さえも受けられなければ、それは社会生活上の自立にとって大きなハードルになるだろう。




社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 「マージナル大学」ではない、大学がマージナルを抱えている
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-177.html


大学のマージナル化で底辺とエリートの境界が崩れてる。エリート的なところでもけっこうてけとーに入れたり、反対にDQN大学でもちゃんと勉強してこなかっただけで「できる子」はいる。

この辺は先日の早大カンニング問題を想起させる。


ツイッターでカンニングを告白する大学生とそれをツイッター上で指摘する教授 - さまざまなめりっと
http://blog.livedoor.jp/manamerit/archives/65402727.html


以下の引用は「マージナル大学」の議論から

ここ数回の研究会に参加して考えていることがある。それはおそらく関係者はみんな(たぶん、何十年も前から)感じていることだと思うが、大学を一枚岩に捉えてはいけないということである。その含意は二つある。一つは90年代のゆとり教育よりはるか前から学習時間が減って、全力で受験勉強をせず、適当な努力で適当な大学に入っているという学生がいるため、大学内で学生の能力の分散が激しくなっていることだ(天野先生の『試験と学歴』を参照)。偏差値50以下(というのが、どういう基準でいわれるかわからないが)の学校にもとても優秀な学生がおり、二極化している。もうひとつは、二極化のもう一つの極、すなわち出来ない学生である。そういう子たちの中には、単に相対的に計算能力が低いとか論理能力が低いとかいうレベルを超えて、学習障害をもっている者もいる。そういう子たちに居場所を提供しているという意味では、学校は既に教義の意味で福祉施設としての機能を果たしているのである。だが、残念ながら一時的なシェルター以上の役割はほとんど果たしていない(学位を与える場合も多いが、それ以上のことではない)。

たぶん、本音ではみんな分かっているだろう。だが、同時に多くの人はそれを認めたがらないだろう。まず、学校では自分の学校の質に関わるので、体面上認めがたい。第二に、親はしばしば自分の子どもの学習障害を認めたがらない。これは親本人も含めて社会的な偏見があるからである。結局、大学がそういう問題を認めて、それに対応する主体であろうとするならば、それはスティグマを引き受けることになる。その覚悟があるかどうか迫るなどというのは青臭い議論である。そういう制約条件を前提にして、その中で何をやるかである。刑務所、学校、工場、病院というのはよくセットで取り上げられるが、工場はともかく、刑務所や病院だけでなく、学校も実に福祉機能を担っているということになる。刑務所については浜井浩一先生の本に詳しい。病院についてはどの本がよいか分からないが、高齢者のたまり場としての病院はもう完全に福祉機能を果たしているといえるだろう。工場も昔は福祉機能を担っていたが(そして、それこそが私の博論のテーマの一つ!)、いまや完全にそれは機能しなくなっている。




その辺で「底辺大学とかいってもやればできるコはいるし、底辺じゃなくても雇用ってやればできるってとこみるんじゃないか?」ってチラつくわけだけど

雇用における「やればできるコ」の「できるコ」判定って「人間力」みたいで難しい。なので、とりあえず具体的な職務能力に通じる職業教育の数値で判断される回路をつくったほうがいいのではないか?


「大学がマージナルを抱えている」のが「マージナル大学」となる理由: EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-9581.html

だからそういう(「マージナル大学」というような入れ物で判断するのではなく)本人をきちんと見てくれ、というときの、その見るべき「本人」の能力の判断基準が、「人間力」ということになると、具体的な職務能力といったものに比べて大変深みを要求する手間のかかるものとなり、それゆえに丁寧に選抜するためには、それに値しない者が多く含まれると考えられる集団をあらかじめ足切りすることが統計的に合理的であり得てしまうようなものとなってしまうために、本人は決してここでいわれるような意味での「マージナル」ではない学生たちが、人間力をじっくり判定してもらうところにまで行き着けないという意味において、彼らにとって非常に過酷なものになってしまうというのが、(金子さんが口を極めて批判する)本田由紀説の、わたくしが理解するところの一つのコアであるように思われます。



全職種・全学校ってわけでもなく「とりあえず」って感じだけど


金子良事さんの理解と誤解: EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-587d.html

本ブログでずっと昔に指摘したように、本田先生には(自分自身が所属する東京大学教育学部のような高度な研究者養成を主たる目的とする組織も含め)一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向があります。そこは、それが弊害をもたらしかねなくなった時点で指摘すればよいと、(プラグマティックに)わたしは考えています。





んでも、

職業的意義論にひもづけられる「職務給」とかジョブ評価だけってのは専門職だからできることでしょ?ほかはジョブとジェネラルが対立するってこともないし


社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 大卒の就職が厳しいのは景気と労働市場の需給で説明できるんじゃないか
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-178.html

さて、瑣末な話ですが、一応説明しておきましょう。私が本田由紀さんをきつく批判しているのは、職務給と職能資格給を対立的に捉えて議論している点です。職能資格給は本給と連動して成立しているんだから、彼女の論旨を展開するためには賃金の決め方において査定で決まる基本給こそ批判しなきゃならない。この査定方式を周知の通り、小池和男先生は高く評価されていますし、同じような認識の方も少なくない。ですが、当然、昔から制度自体の批判者はいて、少なくともかつて小池先生の論敵だった左翼系の賃金研究者はきちんとこの点を指摘してきたわけです。それは最低限、踏まえるべきではないかということなのです。労働問題の専門家でないのだから仕方ない、と当初は思っていましたが、本田さんが頻繁に引いている乾先生の著書ではこの点が正確に指摘されていますから、それも通用しませんね。基本給がクリティカルだということが分からない人に「日本的雇用システム」論について理解も正当な意味での批判もできるわけないじゃないですか。

たとえば、彼女が主張している「柔軟な専門性」というのは、正に日本的雇用システムの中でこそ実現してきた仕組みです。要するに、メインの仕事があって、ある程度、それが出来るようになった時点で、関連する隣接業務を経験させると、そのメインの仕事(の理解)にもよい影響があるという話でしょう。1980年代に日本の製造業のパフォーマンスを見て、それはいいと海外でも認識されるようになって、Job Broadeningがいいんだということがアメリカの人事労務管理系の論文なんかでも指摘されるようになったと思いますが、あえて分かりやすくいえば、彼らは職務給で処遇する世界が障害になっていて、それをどう乗り越えようかと工夫しているわけです。柔軟な専門性というのは、全然逆の文脈で出てくるべき話なんですよ。

こういう細かい話とは別に、私は「職業的意義」論はエスタブリッシュされた専門職以外では幻想だと考えているので、深いレベルで濱口先生が主張したい方向(?)と対立があるのは間違いありません。そのことは認めておいた方が旗色鮮明になって便利なのかな。ただ、私の理解では濱口先生は現実がそんなに劇的に変わらないことを織り込み済みで、それでも多少ベクトルを変えるために極端なことを主張する必要があるという極めてブラグマティックな立場なのだと思っています。

とはいえ、基本的には学説としてはどちらの立場でもいいわけですよ。ただ、本田由紀さんに限って言えば、まず前提的な認識レベルのところが怪しいから、上で指摘したようなベクトルの正反対な話を同時に主張していて、何を言ってるんだかわけが分からないことになっている。




あと、教育と雇用について『日本の教育と企業社会』嫁とか


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それに対して

学校教育の職業的意義(レリバンス)論における「就職に通じる教育内容」は雇用の際にちょっとでも「ウリ」になるような統一基準として通用するのではないか?、と。

資格みたいなのを想起する。



金子良事さんの理解と誤解: EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-587d.html

問題のある「マージナル」大学とは、むしろ高校レベルにおける「普通科底辺校」に相当するところです。勉強したことになっている範囲は開成や日比谷と正確に同じであるような普通科底辺校の卒業生が、その同じであるはずの学習内容をAO入試で「ウリ」にできるのか、というはなしです。勉強したことになっている範囲は東大や慶応の経済学部と正確に同じであるような偏差値底辺級のマージナル大学の学生が、その同じであるはずの学習内容を「ウリ」にできるのでしょうか、と翻訳すればわかりやすいでしょう。そう、大変むくつけなはなしであり、大学人は露骨に言いたくないでしょうね。しかし、その労働市場の入口における「ウリ」という観点から、せめてなにがしかとっかかりになるレリバンスを、という点において、わたしは本田先生の議論を評価しているのであってみれば、彼女の議論が今までの社会政策や人事労務管理論をきちんと踏まえていないというのは(それが正しいとしても)戦略的には顧慮すべき必要は感じません。






そんで最終的に一番最初の話に戻る


社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 職業的レリバンス論とジョブ型正社員はセットで考えるべし
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-179.html




posted by m_um_u at 23:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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