ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC)
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幸村 誠
講談社
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お勧めです。
最高
テーマは同じ、だと思います。
人物描写の妙
どれだけでも待てる漫画家 幸村誠ヴィンランド・サガ自体はデンマークのヴァイキングがイングランドを征していく話
ヴィンランド・サガ - Wikipedia
http://bit.ly/bw7jX2
てか、クヌーズ大王によるデンマーク・イングランド・ノルウェー統一を背景にした話なわけだけど
クヌーズ1世 (デンマーク王) - Wikipedia
http://bit.ly/aqomdn
「ヴィンランド・サガ」の中でアシェラッドが言っていたセリフ
「おまえたちサクソン人は俺たち(ヴァイキング)のことを略奪者だというがそういうおまえたちはイングランドになにをもたらしたんだ? おまえたちの前にはケルト人、その前にはローマ・カトリックがいた。ローマ・カトリックは文化を残してくれただけよかった。しかしおまえたちサクソン人は奪っただけだった。 そんなおまえたちと俺たちのどこが違うんだ?」
関連で以下の「コモン・センス」の話が気になった。
王と臣民を差別することは「自然」なことじゃない
http://tumblr.com/xauhne8wf
「王権の世襲はでっちあげだろう」という話
http://tumblr.com/xauhnesqk
イギリスの起源はギャングの親玉
http://tumblr.com/xauhngzoq
「イギリスの起源はギャングの親玉」というのはまんまアシェラッドがいっていたことだなぁ、って
こんなことを言っていたようにおもったので、ここで出てきた「アングロサクソン的自由主義」とか「良心」というのは違和感あったんだけど
http://tumblr.com/xauhnftvf
この件については「コモン・センス」を受けたアメリカの恩義と誇り、イギリスのマグナ・カルタの記憶が良心を呼び起こすのかなあ、とか。(それでアメリカは「民主主義」の国を放っておけない、か)
クヌートとカロリングルネッサンス
「ゲルマンと古代ギリシャ・ローマ、キリスト教文化の融合」ということだとカロリングルネサンスのことを思う。
カロリング朝ルネサンス - Wikipedia
http://bit.ly/cGTXmB
「教会が間に入ることによってゲルマンとローマをつないでいった」という話ではこの辺を思い浮かべる
哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ : 『中世の死 : 生と死の境界から死後の世界まで』ノルベルト・オーラー(法政大学出版局)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2007/07/post_40.html
死後の財産分与に関して、ゲルマン法とローマ法では扱いが異なった。そこに教会が絡んできた。結果的に財産の1/2は教会が受け取ることに。こうして教会は財産を増やしていったわけだが、これは冥銭の慣習を通じて教会が金銭を集めていった過程を連想させる。
とりあえず、中世の信用のハブであった教会が金銭や法といった文化的表象の仲介役になっていった
カール大帝が「ゲルマン-ローマの文化統合にキリスト教を利用した。そのためにイングランドから僧侶を呼び寄せた」というのはこういう「信用」を利用するためだったのだろう。
もしくは知のハブとして分類法に卓越した僧の力を借りるためか。
それとは別に「ヴィンランド・サガ」の作品テーマとしての「本当の戦士」と「愛」の関係を思ったりする。
「孤独」と「虚無」とそれを通り抜けた「愛」の関係
クヌートもそういう瞳をするようになる。
『ヴィンランド・サガ 6』幸村誠 クヌート王子覚醒! 愛の本質とは死ぬことと見つけたり | Drupal.cre.jp
http://drupal.cre.jp/node/1957
ヴィンランド・サガ(6) (アフタヌーンKC)
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幸村 誠
講談社
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急展開!
素晴らしすぎる
暴力を描きつつそれを超えるものを提示
愛と言う最果て、闘争と言う救済
上手く説明できないけど何度も読み返す面白さがある「ヴィンランド・サガ」における「神の愛」のテーマ
「愛とは何か?」と問うたとき
「憎むことも殺すことも奪うこともないもの」
「誰かに何かを望むのではなく、ただ何かを与え続けるもの」
すなわち人においては「死」を通じて万物に肉体を献身することが愛だ、と僧は答える。
それに対して
「親が子を、夫婦が互いを、親しいものが親しいものを大切に思う気持ちは」
「差別です」
ほかの誰よりも大切な人のために自身の命さえ差し出すこと、それは差別である、と。
それでは、この地上には神の愛はないことになる。わけへだてのない完全な愛は
所有や、それに基づく嫉妬や不安、それを守るための差別、そういったものに縛られた不完全な愛しかこの地上には残されていないのか?
そのことに気づいた王子は追放された楽園を地上に取り戻すために戦いに赴く決意を固める。それは二度に渡って奪われた「父」を自らの内部で殺し、己が父となる決意とも思えて…
もはや王子の瞳にはかつての羊のような怯えはなく、「真の戦士が持っている」といわれたのと同じ寂しさ、諦観と憐憫が浮かんでいた。
この瞳と真の強さ、愛の描写は幸村誠の前作「プラネテス」で示されていた。
「神がこの地上を見放したのなら、人がそれを作り上げていくしかない。たとえ人の世に対しては部分的に非情となっても」という考え方はプラネテスのロックスミスにも共通するし、科学者や為政者の思考、あるいは計画経済的なアレにもながれているものだろう。
もしくは仏教の上座部系の考え方にも近いような。 「悟りを得るためには人の感情(煩悩)を捨て、すべてのものを同じように感じる/感じないようになること」。 若いときにはそれをロボットのようだと思った
それが「強さ」なのかといわれると疑問が残る。
そしてクヌートは「聖なる父の愛」という理想への反動のようにマキアヴェリズムを徹底していく。
「クヌートが敬虔なキリスト者であったか」「その反動として冷徹で合理的な君主となっていったか」というのは分からないんだけど、キリスト教への傾倒が「結果として」としてゲルマン・ローマ=キリストをつないでいった、というのはなんだかカロリングルネサンスを思った。
この辺の良心と理性の関係については西田の「善の研究」とか、自分的には「業の蓄積と思考の関係」というところで絡んでくるのだけど
http://tumblr.com/xauhnh6hy
http://tumblr.com/xauhnh84p
これはこれでテーマとして重いので仮止め。また考えていくことする。
デーン人(ヴァイキング)の王クヌート亡き後、イングランドの統一はフランスから派遣されたノルマンディ公ギョーム(ウイリアム1世)によって為された。統一の際は、大規模集約ではなく飛び地的に所領(荘園)が分散して与えられた。これによって諸公は反乱しにくくなったが、諸公同士は頼り合う必要が出来、これが後のイギリス議会、マグナカルタへ(王権の法的限定)とつながっていった
http://tumblr.com/xauhnf6xx
ノルマンディー公はフランス諸公でありながらイギリス統治も兼ねることになった。結果的にフランス王よりも強大になり、これが100年戦争のきっかけとなっていく
http://tumblr.com/xauhnfw6q
要するにイングランド原住民はこの時期フランス野郎に追いやられ、フランスの飛び地のような扱いをうけていたということ。イギリスとアメリカのような関係。
サクソン人も追いやられいじめられていたがリチャード1世(獅子王リチャード)の頃、フランスの奸計に騙されて即位したリチャードの弟ジョンの無能が祟りフランスに負け領土を奪われることになる。(失地王ジョン)
これによって諸侯は王の勝手を制限するようにコモンロー(慣習法)に従うことを要請した。(マグナ・カルタ)
このころのサクソン人側の義賊がロビン・フッド
しかし100年戦争はまだ続き、諸侯は疲弊、反面王権は拡大。封建制から絶対王政へ
さらに時は流れ、市民革命を経て鍛えられたサクソン人の良心は常緑の豊穣の地、ヴィンランドへと継がれていく。



