2010年09月05日

「常識」と「良識」の話

善いことと悪いことがある。

善いことをすることもある、でも善いことをした人が「善い人」ではない、「善いことをした」というだけなんです。次の瞬間には悪いことをする、それが人間だと思わないと、あらゆる判断を間違える、自分自身についても。

宮崎駿 /出発点


http://morutan.tumblr.com/post/1040646663










ぶくま経由でこういうのをみて



「肉屋、鞄屋の人とは結婚して欲しくない」
http://anond.hatelabo.jp/20100904050444




「肉屋とか皮革業は被差別民の仕事だから…」ってアレで。

ある年代以上の関西以西の人たちはふつーに差別しててそれは特に他意がないわけだけど、こういうのは一般的な「正しさ」と親密圏の「正しさ」でモニョるなぁ、とか思った。オレもバイトでやり方わからずにトロトロしてたら「○△☓か?」ってよくわかんないけど差別語みたいなの言われたことあって、差別されたことよりもカジュアルに差別することにショック受けたことがあるなぁ、とか。


そんで、こういう「そういう一般的な正義感というのは分かるんだけど親密(生活)圏における話だとそういうのはふつーにスルーしてないと生活成り立たない場面があるしなぁ。お母さんはほんとに心配していってくれただけで、カジュアルに差別する文化で育ってきてるから悪意はないのじゃないかな?」とか思うわけだけど、それとは別に「どこまでをスルーしていいのか?」ってのがあるなぁ、と。


それで関連話題


システムが無くなった日
http://anond.hatelabo.jp/20100904122315


「コスト割れで受注切った工場がその影響で潰れた」って話。結果的に、『現場のスタッフの何人かは過労死、何人かは自殺、何人かは会社を辞めました』。


この仕事を断ったこと自体は「時間や金銭、人材コスト含めてコスト割れしちゃう(リスクが大きい割にメリットが少ない)」ということで経営における合理的判断だと思うんだけど、その影響で工場は潰れた。


この件については周囲から論評することもないし、「誰も悪くない」というか現場感覚だと

『何が悪かったのか?』というのは今となっては色々と問題があると思うのですけど、システムのコストを下げる際に、これ以上のコストダウンは操業が停止する可能性がある、という警告をお客側が無視したというのが大きいと思います。お客側と言っても、工場で働く作業員やスタッフではなく、たった一人、工場長(社長)の一言なのですが。



ということだと思うんだけど


でも、やはり「自殺者が出た」ことについて増田もしこりがあるから匿名日記を書いたのかな、と思った。



これを受けて



愚かさは罪なのか - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
http://d.hatena.ne.jp/repon/20100905/p2


主旨としてはアイヒマン実験を例にとりつつ「ひとはある状況に巻き込まれたときに『仕方なかったんだ』ということで悪を行う」みたいなの


ルドフル=アイヒマンの行為が、また、アイヒマン実験がしめしているように、人は「誰かから命令されたから」「正しいことをするためだから」「私はその道具に過ぎず、むしろ苦痛を受けているのは私なのだ」と考えることで、残虐な行為を行うこともできます。



これは最近見た「宮崎駿における悪とはなにか?」の話を想い起こさせた。ここでもアイヒマンの話が出てくるわけだけど
http://livedoor.2.blogimg.jp/dqnplus/imgs/5/9/59c8f836.jpg


要約すれば、「なんの良心の呵責もなく、悪として露悪するわけでもなく、ふつーにひどいことをするひとたちは『悪』。そういうひとたちはシャレにならないので作品では描けない」、みたいな話。

この後に「すくなくともぼくは描かない。誰か他の人がやればいい」みたいな感じで押井守の作品におけるリアリティ追求の対照をちょっと思う。


れぽんも内藤さんのいじめの社会学ひいてるけど、自然に差別したりいじめしたりできる人たち、ってやつだ。




システムや特定の「場」の中でそれぞれの「正しさ」「常識」「空気」があるとき、それに逆らう是否の問題。「(助けなかったのは)要は勇気がなかったんでしょ?」という単純さでは済まされないような倫理問題。






それでさっきの「親密圏における差別」の問題に戻る。場の空気にながされそうなときに「正しい」行動をとれるのか?またそれは「正しい」と言えるのか? 

あれはカジュアルな会話の中だからスルーすればいいけど、下記の話なんかはある意味ポリティカルコレクトだかコンパスだかになっていくのだろうか




角栄の話


茂木健一郎 クオリア日記: 田中角栄氏に関しての連続ツイート
http://bit.ly/cp9D3F


「田中角栄って『なんか悪いもの?』みたいなイメージあるけどその社会的・政治的意義をもっかい冷静に考えてみようぜー マスコミの煽りとか除外して」、ってこれ自体はよくある話で「いまも政策関係なくわけわかんないスキャンダル → ヒステリーみたいなので政権交代ってやめてほしいよなー」とか「田中おろしについては当時の党内政治バランス知ってないとなんともだろうなー」とか思いつつ「ステークホルダーが暗黙に複雑に絡み合った談合政治」ということでウォルフレン思い浮かべたり


日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)
カレル・ヴァン ウォルフレン
早川書房
売り上げランキング: 93916
おすすめ度の平均: 4.5
5 もはやこれは推理小説である
4 外からなら見える日本の構造
1 なんで猪瀬直樹はあんなに褒めたのか 
5 日本人の目が生き生きしていない理由
5 受けてきた教育に対する疑問。





「ホシを継ぐもの」としての小沢さんのこれって海外だと政治のテキストになってたりするんだよなぁ、とか思ったりしたぐらいなんだけど


日本改造計画
日本改造計画
posted with amazlet at 10.09.05
小沢 一郎
講談社
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おすすめ度の平均: 4.0
5 政治家 小沢一郎先生をリクエスト!
3 17年前の小沢一郎
4 本の感想として
4 資本主義の現実から眼を離すな
5 小沢一郎を犯罪者にでっちあげるな!





以下の一文が気になった


成熟した英国流のカモン・センスから言えば、田中角栄氏の「犯罪」は、果たして、あれほどのヒステリックな断罪が行われるべきことだったのか、大いにあやしい。少なくとも、その功績とのバランスにおいて総合的に判断する、そのような知的態度は有り得たはずである。




??


英国流の家紋・扇子からすると角栄の贈収賄は断罪されないの?


まあ、「マスコミ煽動にあおられてヒステリックに騒ぎすぎ」ぐらいの意味だと思うんだけど、ここでの家紋・扇子ってどういう意味でつかわれてるんだろう?、と



「コモンセンス」を単純に「世間知」とか「常識」みたいな感じにしてるのかな?

なんかイメージが違うんだけど


そういうわけで「コモンセンス」についてダラーっとぐぐったり



アメリカでのふつーの生活では「常識」と「コモンセンス」って違うよ、って話
http://tumblr.com/xauhnd5ur


「さっきから常識、常識って言っているけど、僕には何の事だかさっぱりわからないよ」

「常識って日本語も知らないの?英語で、『コモンセンス』って言うでしょ。日本でも、コモンセンスって、もう誰でも知っている『常識語』よ。常識ないわねぇ」

と言うと、夫は、

「英語のコモンセンスって、そんな意味ではないけどなあ……。常識ねぇ」

と首をかしげる。

「コモンセンスという言葉は、例えば、火のついたストーブの上には手を置かないとか、割れたガラスの上を裸足で歩かない、車が来ているときには道路に飛びださないというような身の危険を察知した判断ができるかどうかに使われると思う。コモン(common)つまり普通の、共通の、センス(sense)感覚、判断力という意味だよ。これって日本人のいう常識と違うような気がするけど……」

私曰く、

「それも常識だけど、もっと危険なことという意味でしょう。誰も好んでそんなことをしないのは当たり前じゃないの。それじゃ、犬の散歩をしているとき、飼い犬がした糞の始末をしていかないのは何?タバコの吸殻や飲物の空き缶をポイ捨てする、そんなことをする人は常識がないってことじゃないの」

「それはコモンセンスとは違うよ。そのようなことはコモン・コーテスィー(courtesy 言動が礼儀正しい)っていうんだよ」

「え? コモン・コーテスィー?」

「お隣のケヴンやリサたちのように、境がわかっているのに我が家の敷地内に木を植えたりするのはどう? 落ち葉をブロアー(強風で落ち葉や庭のごみを集める機械)我家の方に吹き飛ばしてしまうのはどう? 非・常識でしょ」

「それも、コーテスィだなあ」

何だか常識・コモンセンスという言葉の意味が、私が思っていたのとは違う気がする。誰にでも「危険だ」とわかることをしないというのが、コモンセンス。しかし、このコモンセンスには、「自分で危険な状況を作り出さない」と言う意味も含まれている。例えば、人に向かって、大声でその人の悪口を言う。また銃やナイフを手に持って、誰かの家の呼び鈴を押すと家主はどうするだろう。このように、危険な状況を自分で作りださないという「常識」にも、「コモンセンス」を使う。そして、日常生活の中でおきる問題や、揉めごと、つまり、それが原因で他人が嫌な気分にならないようにする「常識」を、「コモン・コーテスィー」といい、言葉を区別して使う。

しかし、コモン・コーテスィーだと判断されるようなこと。落ち葉や庭のごみをいつも隣の庭に吹き飛ばしてくる隣人に、堪忍袋の緒が切れたご主人が、怒って拳銃で撃ち殺すようなことだってこのアメリカにはありうる。この場合は、何気ない行動が明らかに危険を作り出している。このような状況は、コモン・コーテスィーとコモンセンスが区別できず、入り混じっているのではないだろうか。複雑だ!

日本人が「こんなの常識じゃない?」というのは、コモン・コーテスィーの範疇に入ることが多いようだ。

「それ、エチケットともいうよ」

息子が付け加える。





コモンセンスは価値判断を含まない(価値判断以前の)「ゲームにおけるルール」のようなもの(「1+1は2にしとこうよー」みたいな)。および、それを「ルール」として対象化し、価値コミットしない態度みたいなの
http://tumblr.com/xauhnhwe6

あるいは、『他人への配慮を前提とした公共の場所での秩序維持の感覚であり、主に親のしつけによって身についていくものである。いわばモラルの土台となる感性が“コモンセンス”』、とか
http://tumblr.com/xauhnd8d3






それとは別にイギリス(アングロサクソン)の政治的文脈における「コモンセンス」というものがある。


民主主義制度における「良心」のようなものとしてトマス・ペインの「コモンセンス」が設定されるのだと思う。


common sense
http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/commonsense.html


コモン・センス - Wikipedia
http://bit.ly/cpXw5Y


知られざるアメリカ独立への記念碑
http://members.at.infoseek.co.jp/hiroyatan/dokuritu.htm


おーざっぱにいうと、「コモン・センス」自体はアメリカのイギリスからの独立に際してその後ろ盾みたいになった本。

アメリカは当時はまだ二等国みたいな感じで、「独立ってなにいってんだ。おまえは生まれながらにして二等国なのだ」、ぐらいに差別されてた。それに対して「コモン・センス」では

「イギリスだって昔は王様に好き勝手されてた。王は自らの王権の神聖性を盾に それを民衆の規則(コモンロー=王権以前の慣習法)に従わせることにしたんじゃなかったっけ? だいたい、あいつらなんかそもそもギャングの親玉のようなものだし出自も卑しいものだった。なのでイギリスの起源っていってもそんなに上等なものじゃない。 そんな感じで王側が主張する「生まれながらに差があること」を否定したことによって現在のイギリスがあるのにそれを否定するのかね?」

って説いた。



そして、それまでアメリカでも「イギリスを支持する本国派」と「独立を支持する愛国派」にわかれていた世論を一気に独立の方向に持っていき
http://tumblr.com/xauhngtiq


独立宣言へとつながっていった
http://tumblr.com/xauhnh12o

我々は、以下の真理が自明であると信じる。すべての人間は平等に創られ、我々は創造主によって、生命、自由、そして幸福の追求を含む、譲れない権利を与えられていることを。 これらの権利を保障するために、人々のあいだに政府が設置され、その権力基盤は、被支配者の同意から引き出されるものであることを。もし、どんな形の政府であっても、これらの目的を破壊する場合にはいつでも、政府を改革あるいは廃止し、最も人々に安全と幸福をもたらしそうだという原理に基づき、新しい政府を設置する権利があることを。




アメリカが「支配されて当然の二等国」扱いされていた背景としてはキリスト教の普遍史観からの流れもあるのだろう。普遍史観的世界地図「TO図」では世界は「ヨーロッパ・アジア・アフリカ」の三つに分けられ、ヨーロッパ以外の二つの国は支配されて当然の劣等国とみなされていた。新大陸アメリカも最初はインドと勘違いされていたので「支配されて当然」の流れを受けたり。

この辺りは中華思想と同じく、長い間武力的には中東・中国に劣っていたヨーロッパが創り上げたコンプレックスの裏返しのように思う。



この辺ちょっと細かく見たいところもあるんだけど話がそれるので後述するとして



そんな感じでアングロサクソンの政治的文脈からの「コモン・センス」というのは「人は、王権や一等国などによる無法な支配・搾取から生まれながらにして平等である」という文脈を内包する。また、「その平等性を保障する」、という良心と誇り。これがアメリカの独立宣言の記憶、イギリスのマグナ・カルタの記憶とともに思い出されるのだと思う。


翻って、『英国流のカモン・センスから言えば、田中角栄氏の「犯罪」は、果たして、あれほどのヒステリックな断罪が行われるべきことだったのか』



この設定はなんかとてもびみょーな感じがする。


見てきたように日常言語で使われる「コモンセンス」は価値判断以前の共通感覚、授業の内容を理解できるか以前に講義を受ける前に当然知っておくべきルールみたいなものに思う。(ex.授業中は勝手に立ち歩かない。私語を慎む。消しゴムを投げない。机の上に登らない。ケータイ電話の電源を切る。テストで(許可されてなければ)カンニングしない)


それとは別に、そういったアングロサクソンの政治的文脈における「コモン・センス」というのは「王権や一等国などの無法な振る舞いに対して、民衆は『法』をもって対抗できる」ということを含意する。


「中央政府による一方的な横暴とそれに対する民衆(地方)」という構図で見た場合、田中角栄も家紋・扇子的に評価されるのかなあ、とか思うんだけど、それは印象的評価であってその際の方法を問わないことになる。


「角栄の宿題」というのは、ステークホルダー民主主義的に「地方に利益配分が行われてない」という背景を含みつつ、そこに「話し合い」や「法的・制度的正当性」といったフェアな手続きをふくまなかった、ということになる。


ウォルフレンが指摘したような人脈重視の人治国家の内々の取り決めによって利益配分がされてしまうということ。


そこから政策などを重視した法治国家になれるか、というのが課題というところ。



そして、その問題を継いで「政策」や「法治」を目指していたのが小沢一郎だったように思うんだけど




小沢首相後の変化予想: 極東ブログ
http://htn.to/RovCQa


現状では地方へのひも付き補助金をひも付きじゃなくすることによって「各自治体の自由に使えるお小遣い」がバラマき、ポピュリズムを狙う、と。



「田舎は政府からの補助金で回ってる」ってのはあって


日本の田舎の問題はきちんと資本主義が定着していないことだ。 | makilog
http://daisukemaki.jugem.jp/?eid=1


その補助金を「地方の自由に使わせてやる」っていいつつも内実は一部の労組や公務員用の専用餅になる、と。



この辺はモロに人治国家への先祖帰りなのかなとか思うんだけど、どっかの誰かみたいに「分かっていてやってるんだ。体制が整ったらきちんとしたアート(仕事)を仕上げるさ!」ってことなのかもしれない。







そんな感じで、民主主義的政治下における政治的「良識」というのは民主主義的法制度にしたがう、あるいはその公正性を担保するように透明性を守るということだと思う。



国家と同じように工場も「システム」としてとらえたとき、その中で「システムの論理」とは違ったところで自らの納得を得るよすがとなるのもこの辺りの「良識」だろう。


限られた場(「世間」)の常識やそれによって作られる無言の圧力(空気)は抗しがたいものだけれど、「場の正しさ」ではなく自分の中の行動規範として良識がインストールされていれば後悔するにしても最小限にダメージが抑えられるのではないか?

http://tumblr.com/xauhnh6hy

http://tumblr.com/xauhnh84p






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関連:

「会社とか学校と家庭」「システムと生活世界」「壁と卵」「聖と俗」との間ぐらいの話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161255211.html

会社や学校といった「システム」と家庭のような「生活世界」(親密圏)の間で育っていくコモンズな感覚について( ≠ コモンセンス)



「世間」関連だとこのへん


空気を読むこと / 読まないこと: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/67143091.html


「世間」と<世間>と「公共性」の間   (ネットはネガ・エントロピーを超える.....のか?): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/65888412.html

公共性と世間のプロトコル相違の問題(およびアーキテクチャ設計について): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/71341707.html


「合理の中に非合理が、近代の中に前近代が入ってるんだね」って話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/128448698.html








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「コモン・センス」の流れの辺り





王と臣民を差別することは「自然」なことじゃない
http://tumblr.com/xauhne8wf



「王権の世襲はでっちあげだろう」という話
http://tumblr.com/xauhnesqk



イギリスの起源はギャングの親玉
http://tumblr.com/xauhngzoq



→ cf.ヴィンランド・サガ



デーン人(ヴァイキング)の王クヌート亡きあとイングランドの統一はノルマンディ公ギョームによって為された。統一の際は、大規模集約ではなく飛び地的に所領(荘園)が分散して与えられた。これによって諸公は反乱しにくくなったが、諸公同士は頼り合う必要が出来、これが後のイギリス議会、マグナカルタへ(王権の法的限定)とつながっていった
http://tumblr.com/xauhnf6xx



ノルマンディー公はフランス諸公でありながらイギリス統治も兼ねることになった。結果的にフランス王よりも強大になり、これが100年戦争の背景となっていく
http://tumblr.com/xauhnfw6q





posted by m_um_u at 17:04 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
すみません。
冒頭のカジュアルはナチュラルですか。
もしカジュアルが正しいのなら、勉強不足ですみません。
Posted by ぶんぶ at 2010年09月07日 13:50
「ナチュラル」だと「天然」的意味、「カジュアル」だと「他意なく日常的に」って感じですね。

Posted by m_um_u at 2010年09月08日 07:38
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