2010年08月30日

「今年の夏俺全身ジャスコ〜♪」、と彼女は言った

先日「東京ってのは付加価値のテンプレートだよねー」って話と「昨今ではCDとかモノ買うときにネットの評判とか見て買うけどそれやってる内にお腹いっぱいになっちゃうよねー」、って話見ててなんかモニョったところでそれらをまとめてつなぐような話があったのでちょっと考えてみたいなぁと思った。



最初の話


付加価値の坩堝「東京」 - G.A.W.
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100826/1282754609



これは別文脈だと「消費主義的な欲望のテンプレート」ってことであまりポジティブに語られるものでもないように思うんだけど、マーケティング的には「付加価値」って用語で語られてそういう視点から見直したほうが偏向うすれて中立に見える場合もあるなぁとか思ったりした。

とりあえず東京というのは物理的なリソースに対して情報的なリソースが過剰な街だなぁという印象は同意。

もちろん1000万都市の人口を満たすための物理的なリソースを基盤としつつ、ってのは前提だけど。


特に都心なんかでは地方に比べて圧倒的に空間が足りない。都心もそうだけどそこに至る電車が。人多杉。ありえない。いつも祭りみたい。


そんで物理的には過密になった空間に必要とされる祝祭性を補うために情報がテンプレートされていく。あるいはより多くの欲望を喚起させるためのテンプレート。

「買いたいものはわれわれがつくりあげるのだ」的なあれ


そういった欲望のテンプレートに彩られた都市のあり方に対して、「祝祭都市」って言葉が頭に浮かぶしそれはそのまま「スペクタクルとしての都市」であり「メディアとしての都市」って文脈にも接続できるだろうけど今回考えてみたいことからは逸れそうだから置く。


バブル周辺を境に東京の都市としての性格もよりハイパーリアルな方向に、欲望が多層的に積み重なって展開される方向に変わったんじゃないか?とか思うんだけどこっち方面に住んでまだ間もないのでそういう肌感覚的な実感は足りないかな、とは思う。なのでこれはこの辺で。




次の話、



HMV渋谷店閉店をきっかけに、ラーメンについて考えた - くらやみのスキャナー
http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/20100826/p1



「昨今は商品の評判聞いて買えるようになったから便利だけど買う前にお腹いっぱいだよねー」ってのはデータベース問題にも通じるかな。

「データベース問題」ってのは東浩紀さんのオタク論で「もはやオタクはモノそのものではなくその背後にある物語、その背景知識の構成要素(モジュール)の集積としてのデータベースを消費してるのだ」って話、いわゆる「データベース消費論」関連で出てきたもの。「だけどオタク第一、第二世代が残していったデータベースが大きすぎてオタクニューカマーはついてけなくなるよねー。ガンダムなんかいまさら見れねー」みたいな話

http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/60487717.html


「データベース消費」って文脈でオレが勝手に「データベース問題」って呼んでるだけだけど


それに倣えば音楽の方でも新しい消費世代というのはそういった批評とか気にせずにてけとーに自分たちの気に入ったものを消費してるのかもしれない。ライトユーザー的に。

もしくはデータベースとアテンションの関係を考えると「最近はいろいろほかに楽しいもの増えちゃったから時間足りない。そんなに吟味しないでてけとーに買って消費しちゃえばいいじゃん」ってのもあるのかも。コミュニケーションツールとして音楽を使用する場合は自分の属するコミュニティに合った現在人気の曲をチェックできてたらいいわけだし。


そういったものを便宜的に「量的なもの」とすればそれとは別に自分にジャストで合った「質的なもの」も必要となる。そういうの探す場合は掘る労力が必要だろうけど好きなものに対してだったらそれは厭わないのではないだろうか?(それでも「めんどくせー」「音楽じゃなくてももっと楽におもしろそうなものあるし」ってのもあるだろうけど)



こんな感じで東京の都市空間というのは欲望を喚起させるための付加価値的情報が広がっている、ということになる。空間を欲望のテンプレートが覆った祝祭空間。広告やテレビディスプレイなんか分かりやすいけどそれ以外にもファッションとか人が持ってるものなんかも。

それらが「欲望」とされるのはふつーの生活における必需品(消耗品)的なものとは分けられるものだから。機能的合理性に対して付加される「余分なもの」なので。

まあ、そういったものを広範な意味で「文化」と呼んだりもするのだろうけど。


そういった欲望を喚起させるための付加価値の氾濫はときには情報過多で怪訝に感じられることもあるだろう。「批評うぜー」「他人との優越ゲームうぜー」「データベースうぜー」って感じで。


しかし、そういった情報に付随するウザさがストンと腑に落ちる瞬間がある。



空間の商品化 ≪ Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2010/07/29/commercializing-real-space/



高品質で満足感のあるサービスはそれなりの額の金を対価としたプレミア性に基づいてることについて。「それってけっきょく金でほかの人間排除してるから成り立ってるんじゃね?それってけっきょくKY的な落ち着かなさつくるし」って懐疑が入ったりするわけだけど体験してみるとなんか納得したとか。

「ほかでは見れない絶景が拝めるような空間のプレミア感(稀少性)」と「その場所の特別性(プレミア)を高めるための物語付与(意味付け・ナラティブ化)」って2点を通じて高められた空間の価値を実体験することで納得が得られた、と。



この話は端的に言うとハレの話かなと思った。


祝祭はもともとハレの日で、それは日常の生活とは異なる異界でありだからこそ過剰な演出・スペクタクル・情報量も腑に落ちるわけだけど、それがいつも続いてると居心地が悪くなる。


現代の消費的な欲望は宗教的性格を持っていたハレを市場的に再生してみせたもの、あるいは現世の法と聖性との境界領域に属する「市場」の性格を商業的な部分だけデフォルメして再現したものといえると思う。

しかしそれは商業的なところだけクローズアップしたデフォルメであるがゆえに失われたバランス、居心地の悪さというのがあるのだろう。現代人の場合、普段の生活が異常に忙しく、その忙しさのストレスを金―消費であがなうようにできてるので気づきにくいだろうけど。

でも、普段の生活でそういったスピード感、それを支える情報量に耐えきれなくなって違和感が生じる。自分のいる空間と実存に対して欲望がオーバードライブしてるので。(端的に言うと「ちっぽけな自分の部屋に比して広告やテレビでみる都会生活のきらびやさから疎外が生まれる」)



そういった欲望、付加価値、情報の実生活に対するオーバードライブに対して、「特別な場所での特別な体験」というのは空間と情報量的に整合性をもたらすのだろうなぁ、となんとなく。




そんなことを漠然と思ってたらなんかこんな話題が



Togetter - 「田舎のジャスコは「擬似東京」!渋谷=三重のジャスコ。レベル的に。」
http://togetter.com/li/18345


何でもある田舎のジャスコと、東京を知る人と知らない人との格差 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月
http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20100830/p1



これ自体は「ジャスコ化とジャスコ化の東京への還流の是否」みたいなので見てきたので別にいまさらって感じ。「三重のジャスコはほかとちげーんだぜ」ってのはあるだろうけど


(地方と)「東京」から考える: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/37783115.html


幻想・過去・未来 (迷い道くねくね〜♪): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/156671991.html


日本における「都会と地方の話」は「中心と周縁」、「都市と村」、「文明と野蛮」みたいなのと似てるね、って話(+「若者不幸云々って世代格差ってよりは地域・階層格差なんじゃね?」みたいなの): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158783815.html


オレも最初の方は「地方 vs. 東京」みたいな感じで考えてたけどいまさら地方も東京もなく両方とも消費的に覆われることの是否みたいなところで仮止めしてた。


(ちょっと語弊はあるだろうけど)「ジャスコ(あるいは郊外型SC)的な消費形式というのは特にとんがったファッションというわけではなく現代消費社会の中の最低限の生活必需品(家族向け商品+ファッション)」的なものだけど、そういった最低限の必需品への参加券さえ手に入れられない人たちがいる、という問題。

あるいは、

そんな感じで「消費」を参加券とするのではなく「神楽」とか「ねぶた」みたいな地方アイデンティティから地方愛みたいなのを膨らませていく人々もいるわけだけど、そこにも馴染めない人々がいる。


そういった人々の疎外感をどう埋めるのか?



自分的には「身体への回帰」みたいな感じでDQNというか、非PC圏の人々の元気さに希望を見出してそれと同じように野放図にやっちゃってもいいんじゃないかなー、って思った。

具体的には過剰に「批評」や「欲望」といった周辺情報に囚われずにもっと広い世界見てく、みたいなの。物理的世界でもそうだけど世代や人種超えたそれ。そうやって創られた情報環境に左右されずにリアルに世界を体験し自分なりに納得していくこと。それが良い方向に転ぶか悪い方向に転ぶかわかんないけど。


そうやって自分の目と耳で「何でも見ていく」ってこと


歴史とか経済観大切にしつつ



その際にまとっていく衣はジャスコでもしまむらでもなんでもいいように思う。




posted by m_um_u at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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