2010年08月08日

日本における「都会と地方の話」は「中心と周縁」、「都市と村」、「文明と野蛮」みたいなのと似てるね、って話(+「若者不幸云々って世代格差ってよりは地域・階層格差なんじゃね?」みたいなの)

muse-A-muse 2nd: 幻想・過去・未来 (迷い道くねくね〜♪)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/156671991.html


人はなぜ「貧しくても幸福な生」の物語に憧れるのか | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2511



kousyouくんとこの見田せんせラインの話をまとめると「貨幣経済なゲゼルシャフト的なものに対して疎外感をもった人々はゲマインシャフト的なものに回帰したいと思うようになる。関係性への欲求、あるいは『昔は人と人の関係にあたたかみがあった』という幻想はそういったものから生まれる」ってことなのかな。

それ自体はアリだなぁと思うんだけど鈴木さんとこの話は、「東京に疎外された地方の人たちが独自性を出すときにもやはり東京発の消費幻想を基盤としている」ということ、あるいは「そういった経済的に還元されるものを嫌った人々が創り上げる消費に乗っ取らない「地方の独自性(物語)」的なものは同質化に向けてみょーな求心性をもっていて、やはりそこからも疎外される人々が生まれる」、ってことだったように思う。

つまり、

「通常は都会に対して地方の強みとか独自性というのは人間のあたたかみ(そのつながり)といったソフト面やそれを載せる『山、川のような都会にはない自然』みたいなハード面のように思われるが、『どこの地方に行っても似たような駅前の光景、女子高生や若者は似たようなファッション』といった消費的均質性(画一化)を基盤としつつ、『そこからの独自性』を追求するような地方の現実においてはある一定の経済的基盤がなければアイデンティティをもつことからも疎外されていくという現実がある (もはや地方のアイデンティティの出発点は経済的に還元される)」

ということ。

あるいは、そういった郊外(ジャスコ)化を基盤とした独自性の追求から疎外された人々がつくるプレーンな「地方の独自性」幻想はみょーな同質性をもっていてそれにはついていけない(疎外される)人々がでてくる、ということ。


そんな感じでゲゼルとゲマインのハイブリッド的なことが起こってるのが地方の現実である、ということ。それが郊外化という形で逆輸(流)入されてる現実が東京のベッドタウンなんかにもあるわけだけどそれは別項ということで触れない。


単純に「金じゃなくて人のつながりだよぉ」的なゲマイン回帰でもない、あるいは回帰しようとしても「ちょっとそれ突っ込み過ぎじゃね?・・ついてけねー」的に疎外される人々が出てくるということ。そういうのはなんだか文化人類学者のフィールドが段々と文明化されてくのを寂しがる際の様子にもなんか似てる。


そう、こういった日本の現実というのは東京のような「進んだ都会」が「遅れた(未開発)の田舎」に影響を与えていく過程、先進国が「発展途上」国(低開発国)に影響を与えていく過程にも似てる。


それをして一部の文化人類学者なんかは「フィールドがなくなっていく」って哀しむのかもしれないけど、そういった変化は現地の人々の生活にとっては基盤となるような必然だし、その意味で変化も含めて経過を観察していこうというのが文化人類学者の態度かなぁとか思うけど。


中心と周縁、ゲゼルとゲマインということに関していえば中世のヨーロッパ、あるいは日本の都市と周辺(村社会)との違い、村社会への都市の影響なんかを想う。それは「自然」に対する「文明」側からの「進歩」や「理性」を盾にしたアプローチとも言えて…。

いまはそれが「消費」になってるのだろうけど、そういった「遅れた周縁」「野蛮な未開」に対する文明(中心)側からの視線というのがそのまま「都会」と「地方」に当てはまるように思う。


なので速水さんの「ケータイ小説的」なアプローチというのは洗練された都市民と野蛮な周縁の民、あるいは文明と未開といった話の現代版とも思える。


文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ : 『ケータイ小説的。』 速水健朗 (原書房)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/07/post_204.html


かつて「文明」側から無文字社会に向けられた差別の視線、それが現代の日本ではPCと非PC(ケータイ)を境に表れているように思う。差別というか棲み分けといってもいいかもしれないけど。

PCに比べて長い文字列に適していないケータイでは短い文字によるコミュニケーションが重視されるように思う。そういったコミュニケーションでは得てしてあらかじめ決められた符号の中に多くの情報が圧縮される。もしくは「江戸っこ的しゃべり」のような符丁のようなもの。ケータイ小説的では「そのテンプレの一部として浜崎あゆみの歌詞がある」ということが表されていたようだ。



かつて文字社会、文明国からは「文字のないところでは歴史はつづられない」≠「情緒がない野蛮人」とされていたのと同じように「PCができなければホワイトカラーにはアクセスできない」という蓋然性があるように思う。

それがそのまま「情緒がない」という偏見にまでつながるのかはびみょーなところだけど、少なくとも「恋空」に対する視線というのはそういったものをふくんでいたように思う(自分も含めて)。


でも、そういった人々…大文字の歴史では語られない歴史を生きる人々こそがむしろ現代日本のマジョリティを形成するのではないか?ネットみたいな文字社会≠理性的な社会を中心にしてると分かりづらいかもだけど。(※「一部スクツはゴミ溜めじゃないのか?」はひとまず置く。あれも広い意味での理性遍重のコンプレックスのように思うので)


ひらたくいうとmixiやモバゲーなんかでたまに見られるDQNやヤンキー的メンタリティ、あるいはゆるふわリア充。あれがけっこう日本のマジョリティなんじゃないかって勘覚。それは一昔前だと「大衆」という言葉でまとめられていたような人々のように思う。


そしてそういった人々、たとえばどっかの建築現場に務めるヤンキーのにーちゃんなんかがふつーに結婚して家庭もって日本を支えていく。昔はヤンチャだったぶん、その反動として保守になるみたいな感じで。


現代の「大衆」というのはそういうものではないかと思うんだけど、それはちょっと「大衆」や「ヤンキー」期待の逆差別的ロマンティシズムともいえるかもしれない。









いまさらながら、「朝まで生テレビ〜若者不幸社会〜」東浩紀 ”退席” に思う
- What is value ?価値って・・「ナンシー関のいない世界で」
http://blog.goo.ne.jp/ebisu67/e/5b1fa8dfa68a447b59dbb12c488a438a



こないだまでそれなりに話題になってた東浩紀朝生退席話。この話は直で見てなくてネット経由の伝聞程度だけど

「若者不幸社会というけど、(年金、社会保障関連でケンカの構図を作り出し)世代間抗争をあおって番組を面白くしようとしても意味がない。堂々巡りになるだけ。なのでそういった世代間抗争を煽るような構図はやめにして、いまある資源を有効活用するような話、いまある資源と技術に誇りを持てるような話をしよう」

ってのは部分的に正論で分かるんだけどそんなこといってもけっきょく経済的なところを基盤にするというのは地味に必要であり、若者が働いてガリガリ消費しやすいような税金・社会制度にしないと話にならないなぁと思った。

そうしないと根性論的なことになるだけでそっちのほうがキツイなぁ、と。もっとも東さんは文化面の話のほうがしやすいしそっちのほうがおもしろいのだろうから我田引水するのはアリだろうけど。


それとは別件で「最近の若者は元気がない」というときに想定される「若者」というのはどの辺の話なんだろう?、と

たまに成人式なんかでハメをはずしているガキンチョどもなんかは「元気ない」ってことなのか?とか


「そういうのは短期的にハメを外してるだけで長期的に見て元気がある=将来に希望を持っているというのとは違う話」というのもあるかもしれない。しかし、それとは別に「社会の大多数の若者」として認定されないようなDQNとかヤンキーが自分たちの半径○○mのスモールワールドの中でヤンチャにポジティブに生きて通過儀礼を経験し社会の成員に編成されていく / あるいは自らそれを選び取るというようなハマータウンの野郎どもチックなことがあるんじゃまいかなー、って。

「過去にヤンチャしてた分だけ社会に組み入れやれやすい」とかそういうの。


そんで、そういった人々は発散してなかった人々よりも強固で保守的な「社会」の構成員になっていくように思う。



その昔は祭りというのは相当にやばいものだったらしいが - Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070605/1181012495



「かつての若者はやばい存在、あぶない存在であるのが当たり前で、そういった『危なさ』も彼らの労働力への期待と引き換えに大目に見られ、『祭り』のようなストレス発散イベントを通じて社会的に編成されていっていた」

というような話。


集団の社会心理的なものはよくわかんないんだけど、若者特有のストレスや好奇心のようなもの、刺激を求める気持ちや荒ぶるエネルギーが「祭り」のような文化装置を通じて社会的に「正しいこと」として濾過なり変換なりされ、それを通じて「荒人」たる若者が社会に認容され社会的に編成されていく、ということはあるように思う。つまり若者のDQNな衝動や行為が一定の場を通じて「ただしい」と認容されることで若者たちが安心し、自分の居場所としてその社会を同定していくというようなこと。

それは「DQNの許容」であり、「もともと若者はDQNなものである」とすれば「若者の許容」ということにもなる。

ヤンキーとかにはそういったDQN性の発散時期というのはあるように想像されるが、「文明化された若者たち」にはそういったものがあるのだろうか?



<最近の(文明≠PC圏の)若者の祭りはネット(2ちゃん)の祭り>、あるいは<ネットの「祭り」は旧来型社会の若者の「祭り」衝動が吹き出したものでありカーニバルのようなものだ>とするムキもあるのかもしれない。

しかし、個人的にはそこには肉体からほとばしるようなDQN性はなく理性的にスポイルされているように思える。「おとなしく皮肉を言ってるだけ」って感じ。自分たちの環境がどんなに悪くても直接的な運動や団体交渉、あるいは暴力的な対抗に訴えるのではなくネットで皮肉をいってカタルシスを得る程度の。


だとするとそういったネット的な「祭り」というのは、元来の荒ぶるエネルギーの放出場としての祭り、肉体(身体)的なエネルギーの放出の場としての「祭り」とは異なった性格を有するように思う。


それは北田暁大が指摘したような「アイロニカルな型の踏襲」的なものといえるのではないか?


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/80796779.html






そういった「スポイルされた若者」というのはどう作り上げられていくのかといえば「これはやっちゃダメ」と早いうちから失敗の予防線的に禁止の呪縛に囚われ、その代替として消費的幻想を当てられてきたことによるのではないか?


「若者は不幸である」という命題が当てはまるような現実がもしあるとしたら、「不幸」の直接的な要因というのはまずもって経済的な基盤であるとは思うのだけれど、そもそもの「不幸」≠「元気がない」ことの原因というのは理性の方向に禁止・矯正されその代替として消費的にスポイルされた現実があるのでは?



単純に言えば、「DQN、ヤンキーはなにも考えず身体の声にしたがってリア充謳歌してるからたのしいのだろうねー」って感じになり、どちらかといえばそういったものとは対局にある自分からすると「無邪気なヤンキー礼賛ってのもどうだろう?やっぱ情緒ないのヤだし。あったとしても自分の情緒とは違うだろうし…」って感じになるんだけど



なんとなく「下妻物語」を思い出す


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超映画批評『下妻物語』85点(100点満点中)
http://movie.maeda-y.com/movie/00329.htm


あれはオタクとヤンキーってわけではなくロリとヤンキーの話だったわけだけど、ゲゼル的な理性の突端での裏返り的なバロックやロココへ傾倒していく女の子とゲマイン的な肉体への忠実さで「ジャスコナメんな!」と自分のいまを肯定していく女の子の出会い。

そういった形でゲゼルとゲマイン、理性と非理性、文字と非文字、PCとケータイが出会ってお互いの文化的キャズムを越え相互理解をしていくこと‥それを通じて「自分たち」の足元をみつめて自分たちの物語をつくっていくことは可能なのだろうか?

過剰に理性にとらわれその代償として消費に依存して自分の居場所(実存)を見失うのでもなく、肉体や感情に野放図に従うのでもない、そういったものの中間的なものとして自分を自制し現在の自分のあり方を「是」とすること。


両者の出会いによってそういったことが可能なのだろうか?



そんなことを思ったりする






なんか長くなってこんがらがったのでスケルトン箇条書き ↓




地方のアイデンティティ

消費的にアイデンティファイの基盤を立てていく →経済的に疎外な人が現れる

村社会ロマンティシズム的な同質性が「オラが村」幻想を作っていく →「ロマンティシズム同質性ついてけねー」なひとが現れる



若者不幸

エネルギーがスポイルされてるから?(不幸=元気が無い、としてとらえたとき


ヤンキーはスポイルされてないよね?


無自覚に現実を謳歌≠たとえば消費にいくのもどうか?

無自覚に行くのと理性・内省・情緒に入る、のとの間ぐらい



「下妻物語」


アイロニカルな裏返りとしてのロリとジャスコ(基層的消費幻想)化のヤンキーとの出会い


そういった形で理性(スポイルされた野生としての野菜≠草食系)と野生の間みたいに「自分たち」の足元をみつめて自分たちの物語をつくっていくことは可能なのだろうか?





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関連:
Togetter - 「速水「ケータイ小説と郊外」から 「ポスコロと都市と周縁」」
http://togetter.com/li/1162



Togetter - 「ヤンキーとアメリカの大衆の類似性、および保守の関連性」
http://togetter.com/li/352



muse-A-muse 2nd: bunkamura「ブリューゲル 版画の世界」展へ行ってきたよ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158036122.html


※都市から疎外された「大衆」関連




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