2010年07月31日

bunkamura「ブリューゲル 版画の世界」展へ行ってきたよ

先日bunkamuraでやってるブリューゲル展行ってきて


http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/10_brueghel/index.html


感想やらちょっと気になって調べたくなったものがあったのでもろもろまとめて


面倒なので概要はそのまま引用させてもらう


16世紀ネーデルラントの巨匠ピーテル・ブリューゲル(1525/30-69)は日本人にとても親しまれている画家です。ブリューゲルは聖書の世界、諺、子供の遊び、民衆の祝祭、農民の労働の主題を描いています。特に寓意をこめた作品では人間の弱点や愚行を諷刺 と教訓、ユーモア精神によって表現しています。私たちはこうしたブリューゲルの芸術からヨーロッパの民衆文化の"ルーツ"や当時の道徳観を知ることができます。
 ブリューゲル版画は不特定多数の購買層のために制作されたので、当時の人々のさまざまな関心に応えています。例えば、アルプスの大自然の雄大さ、諺や 「徳目」シリーズでの日常生活のあり方、《誰でも》や《錬金術》での人間の貪欲な姿、縁日を祝う民衆の解放感、船舶シリーズでの高度な造船技術などを伝えています。ブリューゲルの非凡な表現力はヨーロッパ中の評判となり、まさに16世紀の版画芸術の頂点に達したのです。さらに時空を超え、現代人の心に語りかけてきます。



行くまでちょっと勘違いしててヒエロニムス・ボッス気分だったんだけど、ボッスとブリューゲルの関係みたいなのも軽くまとまっててわかりやすかった。「ブリューゲルの百鬼夜行みたいな絵はボッスからの影響が強く見られるんじゃないか?(当時その手の絵といえばボッスって感じだったし)」とのこと。



ヒエロニムス・ボス - Wikipedia
http://bit.ly/bhWMev


ブリューゲル←ボッスがああいった百鬼夜行、魑魅魍魎的なモティーフを描くようになった背景は詳しく書かれてなかったけどおそらくは当時の大口パトロン(あるいは顧客)だった教会の意向を汲んでのものだと思う。日本にもあるけど「地獄絵的なもので民衆の風紀を正す」みたいなの。日本の地獄絵とか幽霊画は「忌まわしいものを家中に置くことによって災いを遠ざける」って忌み名的な意味合いもあったように思うけど、江戸に流行った幽霊画なんかはバロックというかビザール的意味合いもあったと思う。


閑話休題



とりあえずそんな感じで宗教画-戒め画の一種としてボッス-ブリューゲルのあの手のモティーフは踏襲されていったように思うんだけど、そういった図柄のモデルというのは都市の外に住まう民衆・農民だったんじゃないかなぁ、って。特に謝肉祭や四旬節絡み


謝肉祭 - Wikipedia
http://bit.ly/9h9dU3

カーニバルの語源は、一つにラテン語のcarne vale(肉よ、さらば)に由来するといわれる。ファストナハトなどは「断食の(前)夜」の意で、四旬節の断食(大斎)の前に行われる祭りであることを意味する。

一説には、謝肉祭は古いゲルマン人の春の到来を喜ぶ祭りに由来し、キリスト教の中に入って、一週間教会の内外で羽目を外した祝祭を繰り返し、その最後に自分たちの狼藉ぶりの責任を大きな藁人形に転嫁して、それを火あぶりにして祭りは閉幕するというのがその原初的なかたちであったという[要出典]。カーニバルの語源は、この農耕祭で船を仮装した山車carrus navalis(車・船の意)を由来とする説もある。

現在はその起源である宗教的な姿を留めず単なる年中行事や観光行事になっている地域も多い。



もともとはゲルマンの食料調節的な祭りで、田植えなんかも終わったあとに余剰な食用動物を食べるっていうストレス解消+お疲れ様祭りだったわけだけどローマ-カソリック+都市の習俗には合わなくて「…下品」って見られていったみたい。んで都市部なんかでは貴族や坊さんといった「えらいひとたち」の圧力でなくなっていったんだけど、仮面舞踏会みたいな形で生き延びていった。

世界ふしぎ発見なんかでたまに映されるようなヨーロッパの田舎の大きくて異形な仮面(大きな団扇みたいなの)なんかはその名残だと思う。そういった仮面には謝肉祭のような民衆の荒ぶるエネルギー・奔放の名残りがあったように思うんだけど、都市民の財と権利意識の高まりの中で「仮面舞踏会の先頭を歩く権利」なんかも売り買いされるようになっていった。そういった流れで謝肉祭→仮面舞踏会は「農村のストレス発散祭り」から「都市部のおされビザール祭り」みたいな感じに変化していったみたい。この辺は「中世の窓から」辺りだったっけな

中世の窓から (1981年)
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muse-A-muse 2nd: 「合理の中に非合理が、近代の中に前近代が入ってるんだね」って話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/128448698.html


で、そういった都市部「以外の」あるいは都市部の中でもいわゆる「都市民」とは階層が異なった層の習俗(ex.謝肉祭や四旬節)をモデルにボッス-ブリューゲルは魑魅魍魎絵を描いたように思うんだけど、そのとき彼らの視線というのは冷徹に「他者であり劣ったもの」を眺めるようなそれだったのか。それともそういった都市民以外の民衆生活を半ば肯定的に認めるようなそういったものだったのか。

この辺りについては特に史料もないので各人の想像に任せるものだろうけど、その後のブリューゲルの民衆生活をモティーフとした絵柄を見ているとあながち非都市民にネガティブな感情を持っていなかったのではないか?と思う。むしろその視線は好意的だったのかな、とか。「ブリューゲルの描く怪物のようなもの、魑魅魍魎たちはなぜか憎めない。怖くない。 それは彼の描く異形のモノたちの輪郭線が丸っこいからかなぁ」なんて先日友人と話したりしたんだけど、そういった丸っこさにも彼の思いが表れてるのかなぁ、って。


「中世の窓から」の話が出たのでついでに。


この時代は「贈与経済(あるいは物々交換を基本とした経済)から貨幣経済への転換期」だったということで、それに伴い従来のモラル・価値観が変容していった。従来型の価値観を持っていた人たち、あるいは貨幣経済を中心とした経済のルールの変化によって経済的に疎外された人たちはそういった時代の変化に対して不安や不満を持っていた。ブリューゲル展にも展示されていた「大罪」「徳目」シリーズへの要請というのはこういった背景から生じたものだったのではないかと思う。変化の中で昔ながらの規範・モラルにすがりたいという気持ちが徳目シリーズにつながったり。あるいは新興成金層が身についてない教養を補うためにクラシカルでエスタブッシュな主題(七つの大罪と七つの徳目)を求めていった、などなど。



「七つの大罪」「七つの徳目」以外の徳目シリーズ、いろはかるた的に民衆の生活上のモラル・教訓を描いたシリーズは「中世の窓から」では道化師オイレンシュピーゲルの滑稽話なんかがあった。これは日本だとキッチョムさんとかあの手のノリのちょっとしたエスプリというか皮肉みたいなのが効いた教訓話みたいなの。落語みたいな。そういった教訓が一枚一枚カルタ的にイコンになっていってたのはどういうことなのか?ってちょっと思った。


おそらく嫁入り道具というか、家長になったものの教訓とかそういったものを分かりやすく表現・共有するためのイコンとしての役割があったのではないかなぁ。この時代は大学はもとより幼少期の集団教育システム(学校)もまだ一般化してなかっただろうから、そういった層が知識を伝播していくための道具として絵は重要な役割を持っていたように思う。七つの大罪・徳目シリーズ、魑魅魍魎絵なんかもそういった熊野比丘尼の曼荼羅布教的意味合いを持っていたのではないか?と思うんだけどこの辺も解説やらなんやらないのでわからんかった(まあ想像に留める)。



当時の「知識伝播・共有のためのシステム」の背景として。16世紀半ばの当時はちょうど宗教改革によって教会の権威が落とされていった時期にも重なる。


宗教改革 - Wikipedia
http://bit.ly/bwcHmA


これは同時にとそれまで教会に集中していた知識が民衆に分散していく背景にもなっていった。その道具立てとして活版印刷の影響がある。


活版印刷 - Wikipedia
http://bit.ly/bneKXU


活版印刷というと枕詞のようにグーテンベルクが連想されるけど、グーテンベルクはそれまでにある程度整っていた活版印刷のシステムを集大成して集めた、というだけで発明者ではない。実際グーテンベルク以前にルターなんかも活版印刷活用して「教会のボウズたちは原書といってることちがうじゃーん!」ってやってったわけだし

http://tumblr.com/xauem0tma

http://bit.ly/9c16cE


知識はこういったハード的な側面による汎用(コモデティティ)化のみならずリテラシー的側面による下地を背景として普及していった。たとえば、それまで口承文化のなかで暮らしてきた人たちがいきなり文字文化になるってのはハードルが高いわけだけど、「その際のクッションとして家庭における母親の読み聞かせがあった」ってキットラーは言う。
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

「メディアの普及と浸透の下地はハード的変化のみならず、それ以前のリテラシーの下地があるからだ」ってこのあたりの話は吉見俊哉さんとか、水越伸さんなんかが「ソシオメディア論」として言ってるのと対応する。


マクルーハンの有名な託言「メディアはメッセージ」ってのはそういった解釈がされる。つまり、「メディアはメッセージ」というのはそれまでに積み重なってきたメディア使用の社会的素地が物理的集成としてその時代を代表するメディアガジェットに表れる、という象徴的なもの。テレビやラジオといったガジェットが現れるのはそういったリテラシーの時代精神のようなものの積み重ねでありメルクマールのようなものといえる、みたいなの。なので、メディア論におけるこういったギロンでは「iPadなどといった新しいガジェットによる影響」というよりも「それが現れるに至った社会的基層、リテラシーのコンテクストとはどういったものか?」というほうが注目される。だって、そうしないとCAPTAINとかセグウェイみたいに「騒がれた割にはつかえなかったねー」みたいなことになるし。
http://twilog.org/m_um_u/hashtags-bookasmedia



あ、また話それた。。戻そう




こんな感じで当時の背景としては経済システムの変動、価値観の変動、宗教改革→知識ハブの変動などがあったように思うんだけど、では当時のブリューゲルの取次ぎであったヒエロニムス・コックの店(四方の風)はどういった性格のものだったのか?顧客としてはどのような層が付いていて、どういった制作・広告・流通・販売システムを確保していたのか?

その辺についてあまり詳しい情報は見かけなかったんだけどとりあえず、「元々画家の家庭に育って風景画を得意としてたんだけどギャラリー的な代理店を経営するようになって」うんぬん
http://bit.ly/dB530e

「当時、版画は今日の出版とかマスメディアと同じく、いわば知識と情報の伝達の手段であり、ジャーナリズムの機能も果たしていた」、と
http://morutan.tumblr.com/post/883592428

そういえばブリューゲルのアルプス紀行なんかはまさにそんな感じがした。

てか、アルプス紀行シリーズでみる当時のヨーロッパはいまだったらほんとに砂漠って感じだなぁとか思ったわけだけど、当時のリアリティとしてはあんな感じだったんだろうな(なにもない砂漠に城と集落がポツンポツンみたいなの)



ブリューゲルーコックが活動の中心としたアントワープは大航海時代の要衝として隆盛を誇っていた。しかし80年戦争によってスペイン側に敗れ失墜していった。対してスペインから独立を勝ち取ったオランダ-アムステルダムはその宗教的寛容さから多くの豪商が集まるようになり繁栄を極めて行った
http://tumblr.com/xauem3exx


ブリューゲルの展示における「戦争」「大航海」の主題はこのあたりを背景にしているものと思われる。


posted by m_um_u at 17:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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