2010年07月17日

幻想・過去・未来 (迷い道くねくね〜♪)

こっちに移り住んで半年とちょっと、生活のルーチン的にはようやく慣れたけどまだ「その土地独特の当たり前の感覚・常識」みたいなものがわからなくて戸惑うことがしばしばある。

東京は広島に比べてみょーに家が密集しててどこを歩いてるかわからなくなったり、いきなり突き当たりで迷路から脱出できなくなったり。

そういうのも最近ようやくiPhone手に入れたから少しずつ解消されていくのだろうけど


でも、やはりその土地の性格、それを支える歴史のようなものを知っておきたいと思って住んでるところ周辺に関するムック買ったり。


そんなこんなでこちらにもゆっくりと馴染みつつ広島のことなんかも思ったりする。来月には広島にしばらく帰るし



そういうことを思っていたときに電車でこのエントリを見た。



東京と私 (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2010/07/01_1227.php



「ヨソと比べて文化と呼べるようなものがなにもないところで生まれ育ったわたしたち」

そういう自己規定はこの年代からすでにあったわけで、以前にちょっと思った「東京と郊外」とか、「郊外にもなりきれない地方」のことをぼんやりと思い出したり。


muse-A-muse 2nd: (地方と)「東京」から考える
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/37783115.html



このときはまだ「東京ナニサマ?」的ヒガミとあこがれが入り交じったコンプレックスのようなものがあったように思うけど、いまは東京周辺の感覚に慣れてそれが「当たり前」になっていくことがちょっと気になったりする。

ここで書いていたように「東京というのはみょーに過剰な消費幻想のテンプレートの上に成り立っている」という感覚は変わらないんだけど。


そんで最近のこのエントリなんか思い浮かんだ。



郊外とイエとナショナリズム « Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2010/07/04/suburb-home-and-nationalism/



ここでは上述してきた論点、

「郊外化によって無機質でフラットな土地になること」
「そこでのアイデンティティの問題」

などに加えて

「画一化に対して個別的な幻想をまとい地方ごとの独自性を出していくこと」
「でもその独自性は東京発の消費幻想を基盤としていること」
「そういった経済的に還元される独自性とは違った各地方独自の特殊性を『守りたい』意識がオラが町的ナショナリズムをつくりあげていくこと」
「しかし、そういったナショナリズム的なものに還元されないマイノリティが地方から弾きだされて東京に吸収されていくこと」

などがあげられている。


というか、「幻想−希望の行き着く先は問題や不安をはらんだ不安定なものだけど、彼ら/彼女らの物語をヨソ者が笑えるのか?」ということ。「恋空は外から見るとアレゲな話だけど、ああいったリアリティを実際に生きている子たちがいる」みたいなの。



そういえば少し前にまた放送されていた「耳をすませば」なんかも東京の団地的郊外(多摩以西、聖蹟桜ヶ丘)における希望の話とも言えたと思う。「俺たち/私たちはこのままここでサラリーマンとして一生を終えていくのか?」的なものに対する「違う未来もあるかもよ?」的希望。

そういったメッセージが暗に込められているところがあるのでそれをお仕着せに感じる人達は「サラリーマンでもいいじゃない!そこに誇りを持てば」とか「中学生のうちに恋愛なくてもいいじゃない!」とか過剰に反応してしまうのだろうけど、自分的には単に「そういった未来もある」という選択肢程度に感じられた。その意味で希望−将来に対する幻想なのだろうし、あの幻想を必要とするような地味なリアリティが基盤としてあるのだろうなぁ、と。



話それたな、少し戻すか。「東京の消費幻想が溢れ出すことによってそれが幻想の基本ラインとなり『ふつうのひと』になるための経済的な敷居をあげてしまう」こと。「それに対するために経済的に還元されない地域固有の幻想(おはなし)を喚起させていこうとするけどそれにも馴染めなくてあぶれていく人たちが出てくる」こと。

基盤となってるのは「消費幻想(東京)が地方に溢れていってそれに見合う可処分所得がないので疎外感じちゃって(うんぬん)」ってとこなのだろうから、経済的には「景気良くして所得回るようになれば解決するんじゃね?」ってとこかなとか思うんだけど(その方法は別の問題として)。あとは「大企業ってほんとにいまのまま東京集約してる必要があるのか?」とか。

そゆのとは別に「オラが町」とか「自分の生まれ育ったところ」に対する記憶とか愛着というのはもうちょっと違った形で未来に結びつけていけないものかなぁ…。ナショナリズム的に違ったところがいろいろ削られてひとまとめにされていくのではなくて、「違ったものは違ったもののままゆるくつながったり離れたり、ほかのものとくっついたり離れたり、なんだったらそれだけで大きくなったり・・いろいろ」みたいなの。


地方とか、それなりの大きさの共同体の幻想とアイデンティティの関係を考えるとよくわかんないけど、少なくとも自分の問題としてはそんなにひとつのものにしばられているほどのものなのか?とか思ったりする。環境が変わるごとに歴史は受け継いだりリンクしたりしていくけど、その色だけに染められるのも違うって感じの。



コミュニティがまさに壊れるときに、アイデンティティが生まれる | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2159


「個人を追求していくと、歴史に行くしかないんじゃないか」 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=1841



こうしょうくんなんかも似たようなこと思ってるのかね。




あと、あまり関係ないけど日本という国ができていった過程とも似てるな、とか。(以下、「日本史の誕生」から軽く)

「中国の植民地経営的なものが出自の日本やアジア圏の地域共同体は中国が乱れたときにその政治・経済的統治から離れて国家として独立していった」といわれるわけだけど独立を支えたのは経済的自立性はもとより幻想だったかなぁ、とか。「その国家の歴史」という幻想。日本の場合、それは中国からの独自性を主張するために作られた歴史(日本書紀)だったようだけど、そういった歴史ー過去が同時に未来に対する希望にもなったのかなぁ、とかちょっと思う。











タグ:東京 地方
posted by m_um_u at 23:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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