2009年12月08日

サルガド展にいってきたよ  アフリカという神話と複製技術の行く末

恵比寿でやってるサルガド展に行ってきたのでメモ的に


東京都写真美術館 > セバスチャン・サルガド アフリカ 生きとし生けるものの未来へ
http://www.syabi.com/details/sarugado.html


フォトジャーナリズムはよくわかんないのでロバート・キャパ展ともう一個ぐらいしかいったことなくて今回もどうしようかなぁという感じだったんだけど「日曜美術館」でサルガドの特集やっててそれみたらいい感じだったので見に行くことにした。

「日曜美術館」で気になっていたのは「サルガドの写真は単なる事実を切り取るものではなくて、そこに慈愛を載せている」とかいっていたところ。

日本人ジャーナリストの人がある写真をみて「すごい…ただその一言です…」といっていた。ルワンダ内戦で虐殺されたツチ族の骸骨が並ぶ部屋を撮ったもの。それはふつーに撮ればただ凄惨で露悪的なものにすぎないのだろうけど、そこに窓から光が降り注ぐ。

それも演出の一部だし、ってのはあるのだろうけどそれを構成しようと思った物語性というか、それの土台になってる考え方がすごいのだろうな、と思って。あとは「もともと経済学者」ってことなので宮本常一さんのフィールドワークな写真の滋味のようなものが感じられるかと期待して見に行ってみた。



最初はフォトジャーナリズム的な展示でよくあるような写真がいくつかあった。しかしそれはフォトジャーナリズム的作品によくあるように「悲惨」ということをクローズアップして表現しようとしているのではなく、人間の生命力に対する畏敬のようなものをもっているように感じた。「ああ、こんなところにも人が・・・」的な驚きというか


次にオリエンタリズム的に女性の生命力を讃えるような作品群が展示されていた。いままでの写真とは趣きを変えた女性のしなやかな裸体をとらえたもの。この辺は少しゴーギャンを思ったけど性に対するベタッとした関心ではなく、そういったイロを廃した毅然とした神聖さがあるように思った。


「ゴーギャン的」ということでは「オリエンタリズム」的な逆差別的な過剰持ち上げも絡むのかなぁとぼんやり。

ジャーナリズム的なコミットも「リベラル」と称しつつともすると特定の対象を過剰に持ち上げてしまうきらいがあるので。あるいは過剰に「悲惨さ」をアピールする傾向。

サルガドの作品ではその部分のイロ、恣意性を白黒な表現によって廃しているように思った。差別も逆差別的な視線も廃した透明な白と黒。

「ベルリン・天使の詩」でみたような色彩を帯びた白黒。

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5 霊的な目で自分を見つめる。
5 史上最高の映像詩
5 ベルリン その風景
5 家にあると安心
5 当時のベルリンを知らないけれど


そういった美しさは対象にコミットしつつも私的思い入れをしすぎないという律によって保たれる。その律の緊張感がなんとなく伝わってきて作品のすばらしさとなっているところもあるのかもしれない。


では、そういった自律がどのようにして保たれるのか?

「対象をリスペクトすること」という言葉がぼんやりとうかびつつ注ぎのブースへ


次の作品群は戦争とはうって変わって動物や砂漠の風紋など。

構図と瞬間の陰影、あるいは幾何学的な美しさで構成されてるんだけど、なんか別の惑星に降り立ってそこの美しい風景をみているような錯覚を持った。

この辺の捉え方、全体に漂う静かな詩性のようなものはハンマースホイを思わせたり。


muse-A-muse 2nd: ハンマースホイ展に行ってきたよ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/110380300.html


無駄をそぐことで生まれた荘厳さと、それに触れることで感じ得る敬虔さのようなもの



そして最後のブースではふたたび戦争の周辺的な日常をとらえるところから。そして、さらに一歩踏み込んで武器を持たぬ民衆の長い旅路のようなものを描いていた。

このブースの最初の方では「これ中世の旅の光景とも似ているのでは?」と思っていたのだけれど、あとのほうでは神話のほうが近かったように思った。

というか、出エジプトで的なものであり、そう考えると前のブースの別の惑星のように感じた作品たちは創世記の地球を描いたものだったのかなぁ、って。


戦争による被災→貧困と砂漠が与えるその試練が砂漠の風として表され、毅然として風に立ち向かおうとするその姿がなにか運命に立ち向かおうとする人の意志を見ているかのような…


そして、そういったことをぼんやりと思っていたら全体に漂っていた畏敬の念が理解できたように思った。


サルガドは半ば聖書の神話的なものを重ね見ているからこそあそこまで敬虔な気持ちになれたのかもなぁ、とか。


もしくは、彼の対象への尊敬の念が観客たるぼくにそう思わせるほどに足るだけのものだったのだろうな、と。


それが名画の一場面のような光、ウイリアム・ブレイクのそれを思わせるような白と黒による色彩の再現を成功させていた理由ではないか




絵画の時代から写真、デジタルカメラの時代になって複製技術的なものによりアウラの消失があやぶまれたりしたけれど、複製技術を用いてもこのような形でアウラを表現できるということ


それはわれわれがこれから進む道に対しても一筋の光明のようなものを見せてくれたように思った




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関連:
複製技術とは何か? | notes
http://blog.breathnoir.velvet.jp/?eid=221



タグ:art
posted by m_um_u at 00:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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