2009年12月03日

是枝裕和, 2009, 「空気人形」

是枝監督の「空気人形」を見てきたのでできるだけ軽く。いつもながらネタバレありだから気になる人はみないように


「空気人形」公式サイト
http://www.kuuki-ningyo.com/index.html


全く予備知識無しにいったのでエンドロールで知ったのだけど業田良家さん原作の映画化なのだな


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業田 良家
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なので是枝監督にしてはちょっとドギツイ、というかわざとらしすぎるなと感じたシーンも納得行った。


感想書くに際して、本来なら原作も読んだ上で映画との違いを語るべきなのだとは思う。その部分に是枝監督独自のメッセージがあるはずだし。

でも、今回はソッコーメモ的なものなので割愛。とりあえず自分が感じたことだけ記しておく。なので是枝監督のメッセージなのか、業田さんのメッセージなのか曖昧なところが出てくるだろうけど、まぁその辺は流していこう。



最初に感じたのは(こういう言い方もなんだけど)精神的に病んでいて認知能力がないをいいことに性を搾取される若い女性のこと。
カタコトの日本語と「性の代用品」というところからそういうことを思った。

そこからさらに援助交際していた制服少女たちのことを思ったり


承前4 - MIYADAI.com Blog
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=549

宮台 でも、九七年の酒鬼薔薇事件から少年犯罪ラッシュが続いた頃、援交する女子中学生や女子高校生たちが「メンヘラー」になっていくんですね。それで僕は分析し直す必要にせまられました。

(略)

つまりね、援交が、自由のシンボルから不自由のシンボルに変わったわけ。先端的な子というよりも自傷的な子がやるというイメージに変わったんですね。これは「超越系」の子が撤退したという意味では必ずしもない。むしろ「超越系」であることが、カッコイイものからカッコワルいものへ、先端的なものから自傷的なものへ、と変わっちゃった。そのせいで、「超越系」の中でも、周囲からリスペクトされて集団をひっぱる子は援交から撤退し、周囲からダサいと思われている「生きにくい系」が援交するようになりました。




メルヘンチックに偽装させているけれどそういうことを描いているのかなぁ、と。実際映画が進むにつれてそれとリンクしたメッセージもちらほらでてきていた(「みんな人形」「みんなどこか欠けている」「人形と同じ」)


「メルヘンチック」ということについていえば「アメリ」っぽいなと思った。あの話も「わりと現実離れした女の子がひとりの男の子に恋をして追いかける」って映画で、それがゆえにあの映画を仕入れようとした叶井さんは最初「ストーキングホラーかと思って仕入れようと思ったんです」って言っていたけど、この映画もちょっとそういう現実離れしたところをもちつつ、全体的に「メルヘンだから」ってお約束を観客に共有させることによって映画が成立していた。

あとはオートマタだからかな?


オルゴールの小さな博物館 解説 − 19世紀のロボット (オートマタ)
http://www.musemuse.jp/Musemuse_Comment/comment_automata.html


前世紀的情緒を残したフランスの機械人形。オートマタを経由してパリに至る意味空間の通奏低音は不恰好で前近代的な哀愁をたたえたアコーディオン

その情緒ゆえに最新式ではないということ=「欠けている」ということが愛されていたり。Rebecca Hornだったら「不恰好で健気なわたしの小さな子どもたち」というかもしれない。





そう、この映画の重要なメッセージのための要素である「欠如」「欠落」がここででてくる。

以前のエントリでもいったけど


muse-A-muse 2nd: 人形考 (欠落と神聖)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/43758064.html


人形は欠けているがゆえに神聖性というか魅力をもつところがある。

そして人も欠けているがゆえに補い合う。関係しようとする。

それがこの映画の一番大切なメッセージっぽかった。



「どこか不揃いで不完全な欠落を抱えているぼくたちは人形とどこが違うのか分からない」

「人形もこころをもってしまえばどこからひとと違うのか分からない」


こういったテーマは手塚治虫の「アトム」や木城ゆきとの「銃夢」や「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」に代表されるP.K.ディックの作品ほか既存のロボット-人間的な作品群に共通するものだけれど、この映画はそこからさらに一歩進んだメッセージがあるように思った。


「心を持った人形はひととどこが違うのか分からない」というのは「心を持ってしまえば人間と同じ」→「人形もこころをもてばいいのに」という願望を含むもので、押井守の「イノセンス」もこのテーマに基づいて作られたものだったらしい。


松岡正剛の千夜千冊『未来のイヴ』ヴィリエ・ド・リラダン
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0953.html
 
この映画にはすでにご覧になった諸君は感づいたかもしれないが、全篇が『攻殻機動隊』で姿を消した草薙素子のイメージの行方をめぐる物語になっていて(したがって草薙素子のパートナーだったバトーが主人公)、しかも『未来のイヴ』数百年後の物語にもなっている。
 とくに押井監督のリラダンへの敬意は本物で、ロクス・ソルス社のガイノイド2052「ハダリ」がその名のままにずらりと登場する。冒頭にも、リラダンの次の言葉がエピグラフとして掲げられた。
 「われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか」



ここではエワルドは「理想の女性」たるアンドロイド・ハダリーと蜜月の旅に出で添い遂げることになる。それはそれである意味ハッピーエンドだったのだけれど「空気人形」ではその後の「未来のイヴ」とも言えるものが描かれる。

「理想の女性の代替物」としての人形とそのご主人さまにして恋人たる男との対話。


人形はいう、

「わたしはあなたの性の代用品なの?」「振られた彼女の代用品なんでしょ?」「わたしのこと好きなの?」「じゃあなんでわたしのときには誕生日ケーキで祝ってくれなかったの?」

男は答える、

「そういう面倒くさいことが嫌だったからおまえを選んだのに、なんでこころをもってしまったんや!」


「未来のイヴ」やそれまでのアンドロイドものでは理想とされていた「愛するロボットが人間になってわたしの前に現れること」を男は否定する。それをもって人形とこの男との関係は破綻し物語は既存のロボットものから脱した一歩を踏み出す。


テーマは依然として「人であるというのはどういうこと?」というもの


このテーマについてはすでに答えが出されていて「欠落はあっても」あるいは「欠落があるからこそ人と関係していくこと」であり、「その関わり合いの中で人間が作られていく。肉をもった体かどうかは関係ない」(「ロボットよりも人間らしくない人間はいる」)ということだったと思うんだけど、ここからの展開はそれに肉付けをするようなものだったように思う。


人形は自分の生みの親の人形工芸師の青年のところに戻る。人形との対話の中で青年は人形が見てきた世界の汚さ、あるいは人形が人間らしくなりたいという願望をもっていることを悟る。それを察して人形に尋ねる。

「この世界はたしかに汚いものであふれてる、でも君の見た世界に美しいものはあった? 」

人形は今までに見た美しい光景、想いを寄せる青年と一緒にバイクに乗ったことを思い出す。


以下のセリフはちょっといったかどうかうろ覚えなんだけどおそらく青年の台詞のあとにはこうつづいていたと思う


「もしあったとしたらそれが生きる意味ってことなんじゃないかなぁ」


それを受けて人形はもう一度世界に旅立つ。愛する彼の元へ。 「わたしがこの世界にいる意味はこれなんだ」



「一緒に暮らそう」

「でも…ぼくは…」

「……なんでもあなたのしたいことをしていいよ? わたしはそういう風に作られてるから」

「………なんでも…いいの?」

「うん」

「……じゃあ、ひとつだけ。きみにしかできないことがあるんだ」

「なあに?」

「……空気を抜きたいんだ」

「……え?」

「きみの空気を抜きたいんだ」

「…………いいよ。それがあなたの望みなら」


青年は人形を受け入れ二人は一緒に暮らし始める。そして最初の夜

二人は裸で抱き合い青年は人形の空気を抜き、また吹き込むということを繰り返す。それが二人の性の儀式


「セックスがなぜ興奮と快楽をもたらすかといえばそれが一瞬死に近づけるからだ。ぎりぎりの小さな死を共有しそこから蘇生すること。それが性的興奮と快楽をもたらす」というようなことを大澤真幸がいっていたように思うけど、このシーンはまさにそれだなと思った。

あるいは「銃夢」でイド(ケイオス)が壊れたガリィの臓腑に手を差し込んで修理するシーン。ガリィは半ば恍惚としてその手を迎え入れていた。


もしくは「欠落したものになにかを注ぎこむこと」ということの象徴的表現として「息を吹き込むこと」というものがあったのかもしれない。

ヒトの生殖行動では通常精液が交換されるものだけれど、その部分が息だったのだろうなぁ、と。それは擬似的なセックスの中でヒトの精液を受け止め続けて来た空気人形にとってははじめての本当のセックスだったともいえて、エロティックさと同時になにやら神聖さのようなものを感じた。


また「空気を吹き込むということ」は魂を吹き込むということとも言える。プネウマであり精霊、神の息吹として


聖霊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%9C%8A


映画のラストで息吹が舞っていたのはこのことを表していたのかなぁと思った。


欠落を埋め関係をもたらす神(奇跡)の息吹


それは多くの人のささやかな日常を見守り、またひとりの少女の生活を再生させる。


長らく摂食障害になっていた少女はひさびさに朝陽を浴びた日にゴミ捨て場に横たわる人形と、その墓標のように散りばめられたガラス瓶を見る。


少女はつぶやく


「………きれい」




これによって少女が再び世界に戻ることになったのかどうか、そこまではこの作品では描いていなかったのだけれど少なくとも人形の死が犬死ではなかったことがこのラストで証明されていたように思った。


誰も無駄に生きてはいないし、みんな誰かに関係して生きている


「誰も知らな」くても、意味がないことなんかない



誰もが誰かに関係して生きている







--
追記:
中盤からこの映画は「誰も知らない」の後継なのではないかと思った。


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あの映画をみた感想で、「あれではなんの解決にもなっていない」、というようなものをみた。

「おそらくあの少年たちはその後、少女が援助交際によって得た金によって養われていくのかもしれない。そして少年たちは再び捨てられるだろう」というもの。

映画の冒頭に出てきた人形は性を商品化することを通じて精神が崩壊した少女のように思った。そして人形が愛することになった青年はかつて彼女が捨てた少年だったではないか、と。

青年は「捨てられた」ことによるトラウマを抱え、人を完全に信じることができなくなっている。おそらく世間一般でいう普通の男女交際や性交渉もできなくなっていただろう。そのようにして何かを失った青年を再び少女が抱擁する… あるいは青年を捨てた母親が彼の元に戻ってきた、そういう物語。


そこでは大人も子供も、老人も少女も、聖も俗もすべてがあるがままに受け容れられる。

彼らが犯した小さな罪も、彼らが奮った小さな勇気も、少年を捨てた母親も、そうなるまでに母親から女性性を奪って空気人形とした社会への怒りもすべて等しく。



そのときかつて異臭を放っていた宝石は輝ける宝としてあらたな少女に引き継がれていくだろう。




しずかなる希望(ひかり)をたたえて





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関連:
カトラー:katolerのマーケティング言論: 誰も知らない(Nobody Knows)の絶望そして希望
http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2004/08/post_7.html





posted by m_um_u at 23:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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