時間の加速と人間圏 - HPO:機密日誌
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20091105/1257438023#c1257542970
ちょっとコメント欄長くなってきたので自分とこでひきとってエントリにしたほうがええんかなぁとか思いつつも貯まってるエントリもあるのでってことで逡巡してたらやっぱ長くなっちゃったし自分的にもまだちょっと残尿感みたいなのがあるのでこちらでひきとっとこう。
最初の話は以前にもひできさんが気にされてた話だなぁって感じ。全体的には「技術の進歩によってわれわれはどこに向かうのか?」-「攻殻機動隊的な世界におけるリアリティ(実存)とは?」的なのかな。
なので以前と同じくメディア論における関連図書を紹介しつつあいかわらず自分も未読だなぁとか…
「場所」と「社会」 (book review)
http://www.tku.ac.jp/~juwat/blog/book_blog/2007/05/post_59.html
あとはヴィリリオのメディアと速度と時間、場所論。よくしらんけどハイデガーとも関係あるみたい
とりあえず一番最初の話のアウトラインとしては、「人は文明(技術)を用いて(自然(nature)を開拓し)自然にある動物とは違う動物、宇宙人みたいな存在になってしまった」、みたいな話。
この辺りは「自然 / 人」の二項対立によって作られてきた近代の合理性の賛美(いわゆる「進歩」のワナ(「自分たちは進歩しているのに対しておまへたちは野蛮」))に注意しつつ、技術であり文明の向かう先とはどういうものなのか?というところに思いをはせたり。
「われわれはどこからきてどこへ行くのか」
「どこに向かうのか?」ということでは封じ手的にちょっとついったでつぶやいてたりした。
http://twitter.com/m_um_u/status/5492458575
http://twitter.com/m_um_u/status/5492495444
てか、この話は少しご紹介(ムチャブリ)したこれを受けてのものつぶやきなんだけど
戦国時代は寒冷化による食料争奪サバイバル戦争だった:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090911/204592/
人口学的には、男性の識字率が50%を超えると、その社会全体の不安定性が増して攻撃性を帯びる。さらに何十年か遅れて女性の識字率が50%を超えると、やがて出生率が2付近まで低下して、社会全体が落ち着きを取り戻し、攻撃性・好戦性は有意に低下してくる。そのメカニズムは、次の通りである。
男性識字率が50%に達するということは、若者世代の大半は字が読めて、書物などから新たな知識体系の吸収が可能であり、自我に目覚めるのに対し、彼らの親の世代は大半が伝承による伝統的知識体系に頼っている状況である。
この「50%」って数字がなんかベキと関係するのかなぁとか思ったので。(オラの理解では)ベキ乗則というのはシステムがある段階を越えて変化する際のわりと蓋然性の高い一般法則って感じなので。いわゆる「キャズムを越える」とかそういう言われ方されてる際の指標。「キャズム越え」なんかはもろにネットワーク外部性関連だからこの辺なのだろうけど、あとはデファクトとれるかどうかの指標とか。ギブスンなんかが「蓋然性の壁を越えるんだ」って表現してたアレだと思う。
んで
その際、なんらかの壁を越える閾値的なものというか、ベキ乗則にしたがって指数関数的に膨らんだなんかの値によって壁が越えられるんだろうけど、そのベキが発生する際、システムはどの方向に向かってベキってるのかって問題がある。
新たな系の法則(価値観)が生まれるのかそれとも旧来の系の価値を辿るのか。ここでいう「系における価値」というのはルーマンが「貨幣」「愛」「権力」などで示していたものをイメージ。
http://www.nagaitosiya.com/b/exchange.html
細かいところで自分的認識とはちょっとずれてる気もするけどカテゴリのたて方としてはそんな感じ
そんで戻って、文明あるいは技術といったものが進もうとしている方向性というか、その基盤となっている価値、あるいは原則的なルールというのはどういったものなのか?
メディア論的に、というか人の情報処理機構的には「アナログ(全体)→デジタル(分節)」は鉄板のように思う。言語なんかにしてもそうだけど人は生のまま感応し認識していたものをメディアを使って分け、それを自分の中で組み立てなおして認識してきた。いわゆる「分析」という過程。
分析的過程-デジタル的な認識を外部に表出し、その表象を見直し反省する過程を通じて長期的展望を得てきた。
しかし、外部化したものに頼ることによって以前のような全体知的観能力(感性)が失われたように思う。
そういった知が失われてしまったのだとしたら、理論的には次代は2つの弁証法的なものが求められるわけだけど。。
あるいは分節(分析)と全体の弁証法的発達は一つの系だけでとどまるものではなく複数の系をまたがった螺旋状の繰り返しのものだったのかなぁとかも思ったりするけど。(システム → サブシステム → システム → ……)
とりあえずそんな感じで(一見透明にみえる)技術にもなんらかの発展の方向性のようなものがあるように思う。この辺の議論は技術決定論批判なんかでも言われてきたことのように思うがいわれてなかったかもしれないのでうろ覚え。
muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話 (応用編)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129946855.html
というか、ゲシュテルの話にも通じて
ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/12/post_19d2.html
人というのは自分の作り出した子供(技術-文明-システム)に飲み込まれそうになりつつ、それを超克していこうとすることを繰り返しているのかもしれない。ベヒーモスやリヴァイアサン、人形や「壁と卵」。
そういった「文明」による時間感覚がタテの歴史認識だとすると古来からあった時間認識やそれに基づく死生観(あるいは実存)というのは円環状のものだったのではないかと思う。
ここでいったような
muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129773060.html
「文明」≠リテラシー(識字化)≠ゲゼルシャフト、という仮定に基づけば、「文化」≠オラリティ(口承)≠ゲマインシャフト、的な区分けもできる。
ただ、この区分けもけっこう曖昧なもので「文化」的なものも都市の中で発生しているし、文字が流入してきてもゲマインシャフト的な感覚の人々はいた(あるいは現在もいる)ということはあるのだけど、まぁとりあえずテンニースがしたぐらいに曖昧でちょっと分かりやすい区分けとして。
そんでゲゼルシャフト / ゲマインシャフトの時間感覚の違いで最大の特徴は「繰り返し」ということにあると思う。
それが生じるのは口承文化圏の歴史の語りに依るものではないかと思う。すなわち歌(抑揚)に載せて歴史を紡いでいくわけだけど、歌われる言葉は変わっても抑揚は変わらない。ラングとパロールみたいに。それで「同じ歴史が形を変えて繰り返されていく」って認識が身体に染み付いていくんじゃないかと思う。
ちゃんと調べたことないんだけど、いわゆる輪廻転生的な考え方の分布というのもこういった歴史認識の分布と対応するのではないか?
目の前の人は死んでもまたよみがえる。同じ名前を伴って (反対に言うと名づけられるまでは人の世に生を受けていない cf.ヤノマミ
そのようにして死は終わりではなく極端に恐れる対象ではなかった。
しかし、単線的歴史観によって時間と生命の有限性が再認識されてからはわれわれの生は常に死の恐怖におびえることとなった。それによって時計の針が進み始めたともいえるんだけど、それは本当に「文明」的で「進歩」的ですばらしいことだったのだろうか?
そしてゲゼルシャフトな現代のわれわれの生と性のあり方、人口は国家と産業によって基底されている
技術の進歩によって人口は増え、言語→文字による記述と反省の過程が再帰的な承認を促し、われわれを個別の「正義」に向かわせる。その結果として戦争があるわけだけど、それはより大きな視点からすると自然による人口統制的なものでもあるのかなとか思ったりもする。
最近の居場所の話も含めたlifeのコンセンサスとしては、「システムによって基底されたものだったとしてもそういったベタをわれわれが認識し、反省し、再選択することを通じてわれわれ独自の文化がつくりあげられていくのではないか?」、ってことだと思う。
ゲゼルシャフト的な都会の中にも文化ができ、それを基軸にしてわれわれの居場所ができていく
文化系トークラジオ Life: 2009/09/27「“居場所”の現在」 アーカイブ (特に後半の外山さんが出てきた辺りから)
http://www.tbsradio.jp/life/20090927/
そういった生身の、血の通ったつながりを通じて国家や産業によって過剰に加速された感覚に対することができるのではないか?いわゆる「地に足が着く」という感じで。
あるいは、それを通じて遺伝子によって決められた縛りへの恐怖にも向き合えるのかもしれない
心の中の暗い核 - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070125/1169707298
単に「みんな仲良くヌクヌクしてたらこわくないよー」ってのとも違って、異なった感覚を持つ人たちがなんとなく繋がるというか、繋がらなくても似たような感覚持ってる人がいるってことに気づく安心感というか。
時間というのもおそらく個別のものなのだろうし
私の前に携帯電話が存在するということ、あるいは現成公案 - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20040626/p2
なんか雑駁になってきたのでいちおまとめると、「われわれの時間や実存感覚というのは技術-文明によって過剰に煽られてブレてしまったところがあるかもしれないがその感覚というのは目の前のわたしとあなたのつながりを通じて修正できる」、ということ。
それとは別にわれわれの奥底には決して他者とは共有できない個別の部分もあるわけだけど…まぁこれは「そういったものをお互いがもってる」って認識しとくだけで良いようにも思う。たまには川原でひとりで穴掘ってる時間が必要というか…
さらに、そういった話とは別個にわれわれの技術/文明がどこまで行くのかって不安はあるわけだけど、この辺は昔ながらの不安というか、人はそんな感じで技術を通じて疑似生命を作り出して行くようなところがあるし、昔からやってきたことなのだからそれほど不安になることでもないかなぁ、とか。
着地点というか、帰るべき場所さえ見失わなければ大丈夫なんじゃまいか
プラネテス (4) (モーニングKC (937))
posted with amazlet at 09.11.11
幸村 誠
講談社
講談社
おすすめ度の平均: 

もうひとつのフィーの物語
ロックスミスには彼自身の葛藤があったんだろうな、と思う。
人がいる 愛がある
これくらいがちょうどいい
目を背けずに。

