2009年10月17日

都市民の社会契約としての社会保障とそこから疎外される人たち (それを受けたメディアの形の変化→社会への影響について (仮)

ついったでのお話を受けてちょっと思ったこと関連メモ。

前段階としてこないだのエントリ2点があるわけだけど


muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129773060.html

muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話  (応用編)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129946855.html


オラのほうの前提としてはこの2つのエントリ的な「都市民的な社会とそれ以前の村落共同体的な共同体とは価値観や思考様式が違い、近代は都市民的なものを中心としてきたため村落共同体的なものを切り捨ててしまった(それがための矛盾や誤謬が生じている)」というもの。

ハーバーマスのあれも「都市民的な自由」をデフォとしてるので(村落共同体的な)大衆、あるいは都市民の中でも貧困層的なものへのまなざしってゆるそうだな、って感じ。「新聞は社会の木鐸」論の最終的な帰結であるマスメディア論における公共性論の流れもその影響を受けることになると思う。


そんで下の話だけど

この話以前の自分的な感覚としては都市民は一律に社会権の恩恵を受けていて、半ば基本的人権として設定されているものと思っていた。それは国家の庇護に入ることと引き換えに大衆が手に入れたものかなぁ、と。

んでもどうやら基本的人権と社会権とではまた違ったもので、「社会権は財政的に身の丈に合う範囲に保障される」、と。つまり社会保障の多寡は税金払ってる率によって決められるって原則っぽい。

そうするとやっぱブルジョアな都市民と貧困層的なものも含んだ大衆との間では分断が出てくるよねーって感覚なんだけど…


まぁ、とりあえず以下こないだのログ







そんでこれを受けて自分的に読んどいたほうがいいなぁと思ったものを思い出したので以下メモ


本来大衆は荘園の隷属民であったため基本的人権とかなかったわけだけど都市がデフォ化して都市民の幅が拡がっていったのとリンクして大量購買層としての「大衆」ができあがりその権利も確立していった…(まだちょっと仮説的だけど)


その幻想を受けて出来上がっていったのが近代的な新聞でありその理論的支柱が市民的公共性ということになるのだろうけど、では、「市民」に含まれなかった大衆はどうなったか?大衆の声を拾い上げる動きはあったか?


明治期の大衆紙に属する人々がどのような層を対象としどういった理念のもとに具体的な行動を起こしていたか。大衆/市民の間に揺らぎはあったか?


こういう話は津金澤とかの小新聞研究かなぁと思ってみたけど小新聞そのものだけだと単行本化はされていないのね。それでこんな形、と


現代日本メディア史の研究
津金沢 聡広
ミネルヴァ書房
売り上げランキング: 856564



あとこの辺とか


大衆紙の源流―明治期小新聞の研究
土屋 礼子
世界思想社
売り上げランキング: 220528



土屋礼子『大衆紙の源流−明治期小新聞の研究』
http://ishibashi.hippy.jp/shohyo/kawamura2.htm


 著者の指摘する小新聞の魅力とは、ふりがなや俗語、ヴィジュアルな挿絵を用いて幅広い読者層を開拓し、筆禍事件に見舞われながらも、「諧謔と風刺をこめた裏側からの政府批判」をたくましく展開して、「民衆的な政治の楽しみかた」を追求したところにある。だが、それを現在の国民型大衆紙は失っていったというのが、はっきりと語られていないが、著者の批判であろう。また、小新聞は中新聞化へと進んでいくなかで、論説で「不偏不党の中立性」を掲げて、「非政治性」を強めていく。著者によると、「政治的に当たり障りのない娯楽読み物と報道を中心とする企業化」を小新聞は歩んでいく。その一方で、「小新聞の読者は、公衆にとって重要な要件である党派性を拒否した」と指摘している。「不偏不党の中立性」と「非政治性」は同じだろうか、それを主導したのは新聞側か、それとも読者側なのだろうか。記事分析を通じて、このような点を批判的に考察すべきだったが、本書ではほとんど抜け落ちている。


前半部はcivic journalism的な観点から、後半部は「報道における客観中立とはなにか?」的な観点からおもしろい。



上記の流れからは直接関係ないけど最近の関心的にはこの辺もおもろそう


近代日本のメディア・イベント
津金沢 聡広
同文舘出版
売り上げランキング: 139717



松岡正剛の千夜千冊『近代日本のメディア・イベント』津金澤聰廣
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1017.html

こういう特色に共通しているのはメディア・イベントが、かつての神話的儀礼や祭祀的儀礼や世俗的儀礼に近くなっているということだ


この辺の話はちょっと前に出てた年中行事の話にも絡みそう。

つまり、「かつての日本の中世では天皇・貴族・寺社が荘園を持つことを許されていたがその荘園ごとに年中行事があり、村落共同体的な大衆の公というのはこれの励行によってはぐくまれていったのではないか?」、という話。

この辺の話は「生活上での普段の励行の実践が思考以前の血肉となり指向性をもっていく」というエートス的な話とも似ている。


そこから考えると近代日本のメディア・イベントというのは日本における年中行事→エートスの涵養的なものだったのかなぁ、と。

今朝のつぶやきとも関連する






関連でこんな本も出てきたのでメモ。

大正文化 帝国のユートピア―世界史の転換期と大衆消費社会の形成
竹村 民郎
三元社
売り上げランキング: 55535
おすすめ度の平均: 4.0
5 大衆消費社会を形成した大正という時代
3 大正時代の再発見



「消費社会の完成によって意味空間がどう変わったのか?」ということについての分析とか考察とかはしていなくて、日本の大衆消費社会ができあがっていった流れについての記述って感じだけど


そういえば「消費する大衆の登場によって資本主義はできあがっていった」としていたのはゾンバルトだったっけな?


恋愛と贅沢と資本主義 (講談社学術文庫)
ヴェルナー ゾンバルト
講談社
売り上げランキング: 65601
おすすめ度の平均: 4.5
5 上流階級の性愛と贅沢が資本主義社会を生み出した。
5 資本主義を考える時の必読文献
4 『経済論戦は甦る』の祖の祖?
4 オートクチュールと不倫の要因は、フランスの宮廷にある・・・。



松岡正剛の千夜千冊『恋愛と贅沢と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0503.html


「ひとりひとりでは木っ端な人々が購買力を持つようになったので国家は無視できなくなった」(→
国民国家的に統合)ってとこまで言ってるのかどうかわかんないけど

まぁまだヴェーバーのプロ倫読んでるのでそのあとにはちょうどいいなー




--
追記:



モンテスキューやらロック、ルソーやらいちお読もうかなぁ。。しかしシュミットとかのほうが良さそう


posted by m_um_u at 17:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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