2009年10月08日

中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話

網野×阿部対談読んだのでいちお。


中世の再発見―対談 (平凡社ライブラリー (66))
網野 善彦 阿部 謹也
平凡社
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おすすめ度の平均: 4.0
4 歴史家の対話



どっかで「網野はアジールな話をしたがっていたが阿部は贈与交換な話をしたがっていて食い違っていた」みたいなこと書かれてたように思うんだけど8章の「<公>とはなにか?」で二人の食い違いが統合されていくような話になっていたように思った。

wikipediaかと思ったけど


阿部謹也 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E8%AC%B9%E4%B9%9F#.E7.B6.B2.E9.87.8E.E5.96.84.E5.BD.A6.E3.81.A8.E3.81.AE.E5.87.BA.E4.BC.9A.E3.81.84.E3.81.A8.E5.88.A5.E3.82.8C

網野は、あくまで日本と西洋の共通点にのみ着目して、相違点などにはほとんど興味を示さなかった。一方阿部は、両者の相違点のほうに関心を深めて行き、網野との会話が次第に噛み合わなくなってゆく。また網野は、「世間」の枠にきっちり納まってしまうタイプの人物で、歴史の切り口こそ斬新なものを見せたものの、その考え方や発想はいわゆる「歴史学者」の域にとどまった。阿部はというと、金子光晴や高村光太郎の詩に耽溺し、石牟礼道子らの文学者や国文学者・西郷信綱のような他ジャンルの人々と普段から交流し、何より「世間」と距離を置いた個人的な世界を持つなど、ジャンルにとらわれない広い精神世界を持っていた。そうした感性の違いが、やがて二人を別々の道に進ませることになる。



ちょっと違うっぽい。


両者の違いについて、この本からだと阿部はむしろ歴史的検証よりも「贈与交換」という普遍的な枠からとらえたがって焦っているように感じられた。網野はそれについて「そうかなぁ…」的に自分の知ってる範囲の話を述べるにとどまる慎重さを見せていたけどやきもきした阿部が8章で自分の思い描いてるパースをぶちまけたって感じだった。


ここで展開されていた公の話としては網野のこの本も関わるんだけど

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))
網野 善彦
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5 東西の個人と社会そして「自由・平等・平和」の成り立ち
4 「日本の歴史をよみなおす」のほうが上かな?
5 網野史学の出発点
5 民俗の歴史学は本書で始まった
4 日本中世の自由とは何か




無縁的な世界だと公的なものが大義とか神聖的な属性ではなくエンガチョ的な差別の構造と関わってるって感じだったんだけど、その辺のニュアンスがどうもつかみきれてなかったりした。差別というか、村八分などといった差別のもととなる規範としての世間体というのもそういった構造の中から出てきたもののように思う。
ただ、「無縁〜」の世界観では世間からエンガチョされた人々も生きていけていたし、公性に近い中立地帯ということで「公」が大義名分とか神聖性だけもっているということであればそちらの世界にいってしまったほうが良いように思えてなんだかしっくりと理解できないところがあった。

といっても「村八分」は「二分(水路)」残すことによって村=社会への復帰の契機を残している、それがゆえに社会からの完全な断絶ではない、ということで完全な世間からの断絶(無縁)ではなかったわけだけど。


その辺のところは網野的にも不完全だったみたいなことはこの本(「中世の再発見」)でも書かれていた。構造と反構造の話(後述)。



それで8章の話になるわけだけど、以下阿部の仮説。(※「オレ部分」は本文には書かれていなかった部分の補足的注釈)



公共性概念自体がしっかりと固まったのは18〜19世紀のヨーロッパ都市。その根っことして市民レベルでの公観がでてくる根っこのようなものがあったのではないか。


<公>の根と思われるものが発生した時期は11〜16世紀の贈与→貨幣経済移行期と重なるっぽい。この時期にはまだ貨幣経済やそれに付随する合理的価値観にはアレルギー反応が示されることが多かったが、それまでの伝統社会的価値観を教会が引き受けることによってそれ以外の部分(貨幣経済的合理性など)が発達していった。

オレ:
伝統社会的価値観に基づいたものとしてはたとえば贈与交換型経済があった。贈与交換は貨幣経済のように1:1の対価的に換算されるものではないのでどちらが過大(あるいは過少)感を持ち交換が終了することがないわけだけど、この過大あるいは過少感をいったん教会が引き受けることによって貨幣経済へと移行していった。これにより近代の公的な仕掛けが生まれた。

贈与交換的な交換関係では「顔の見える」の等数交換であり「1回贈り物をされたら不特定のものに対してでもいいので1回贈り物を返す」のが当然とされていたが、貨幣経済的な贈り物をした後に財が帰ってくる時期にタイムラグが生じるようになった。前近代では支配者は戦争で奪ったものを配分することで支配者たりえていたが、近代ではもらいながらも現世的には返さなくていい首長が教会を介して誕生した。


(221-222)
互酬の関係のなかで、お返しは天国でする、つまり死後の救済というかたちでそれをいったん普遍化したうえで返すという回路をつくった (略)二人の人間の関係があって、お互いに物のやり取りをして暮らしてきたけれども、あるとき、あなたに対するお返しは今までの形じゃなくて、あなたの死後の救いのために、あるいは子孫のために天国に摘みます、ということを誰かが言ったとします。これは、従来の慣行のうえでは、ある意味ではたいへん困ったことです。しかし、そこで絶対的なものが出され、それを社会が承認していくのがキリスト教の受容だったわけで、社会全体がその方向に非常に傾斜した時期が11世紀ごろではないかと思うのです。




市民レベルでの理性的な法というか法以前の慣習的規範としての公が伝統社会的な非合理性を孕んだものから合理的なものに転換したのもこの関係ではないか。そして、ここで成立した公的なるものの観念がその後の17・18世紀に生まれた公共性観念の元となったのではないか、と (←阿部説




つまり、ヨーロッパ的な公共性観念のもととしての公なるものというのは、従来村落共同体にあったような伝統的価値観(cf.ゲマインシャフト)を教会という変換装置を通じて近代・都市民的な価値観(ゲゼルシャフト)に変換してしまったもの、といえる。

「変換」というか前のエントリでもでてきたように

muse-A-muse 2nd: 「合理の中に非合理が、近代の中に前近代が入ってるんだね」って話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/128448698.html


「地」「図」的にいえば、本来は伝統的な価値観のほうが「地」であり貨幣交換に付随する合理的な行動やその規範(価値観)というのは「図」の部分だったわけだけど、いつの間にか両者が入れ替わってしまったって感じ。「地」である伝統的価値観の割合がいつの間にか減っていっていつしか「図」程度になり、だんだんと「図」ほどの割合もなくなっていった。一部が教会における懺悔の風習のように残されたぐらいに。


このとき「合理性の受け容れに対するアレルギー反応が教会によってバッファされた」というのが大きかったように思う。この辺「日本人が宗教信じない」というのとも関係するのかも。


日本人の宗教観というのは宗教を信じることによって現世利益的な「お返し」は期待するけど真の意味で信じたことがない。なのでその価値観のために死ぬとか宗教的価値観が人生をしばる価値観(エートス)になってない。そういう人がいてもごく一部だったり。

つまり宗教という非合理的であるはずの文化装置に合理的な機能が期待されている。

では、村落共同体における伝統的価値観、非合理的な価値観のようなものはなく徹頭徹尾合理的だったかというとそういうことではなく伝統的な価値は明示的にしないままそのまま持ち続けられたのかもしれない。

「地」「図」的には社会全体(地)が非合理的価値観に依っていて特に合理化することもなかったためにヨーロッパのように教会のような変換装置も使わずにいちお「近代」化を果たしたということになったのかなぁ、と。

宗教によってバッファする必要なく非合理なままって感じ。



ただ、宗教的な規範が人間の一生を左右するほどの根っこ的な規範になったというのが「一般的」だったり「進歩的」だったりするかというとそういうことでもなく、ヨーロッパが特殊なのであって日本が「遅れているから反省しろ」とかいう話ではないっぽい。

「命をかけるほどの規範(公)が日本にもあったのか?」ということでいうと「たとえば一揆では惣的結合で血判を押した」って話が出てくるんだけどそれは共同体内の構成員による自律的なとりきめであり上からの公的なものではなかったのでは?、と網野はいう。

人の生死を掌握するような公が構造(システム)的なものだとすると、成員の自律的な取り決めによるそれは反構造、コミュニタスなものになる。無縁もここに当てはまるのではないか?、と


ここでもやはり「システムと生活世界」の構図が浮かび上がってくる。というか文明と文化といったほうが自分的にはしっくりくるかも。


上述では「それまでの伝統社会的価値観を教会が引き受けることによってそれ以外の部分、貨幣経済的合理性などが発達していった教会はその信頼性をもとに村落共同体の価値観を預かって都市型の価値観にすりかえて行った変換機だった)」っていったんだけど、中世における教会というのはリテラシーと知の管理術、データベースを司る知のハブ的な存在だったわけでそういう意味では文明の中心だったように思う。

「文明 / 文化」という言葉は日本語的には最初から識字が前提になっているけど英語的にはちょっとニュアンスが違う。civilizationとcultureであり前者は都市民的生活を後者は技術による自然開墾を前提とする。

「文明」ということばの語用としては技術による自然的側面の開墾的性格があるように思うのでこの辺はちょっと違和感だった。

推測だけど、civlilizationという言葉にはもともと教会を介した文化(リテラシーの獲得)的意味があったのではないか?リテラシーを獲得するのに付随してスコラ学的な概念や知識管理の方法、伝統的社会的価値観とは違った考え方が学べる。それによって都市民(civil)化し自然や自己の内なる自然をhackしていくことがcivilizaitonということだったのかなぁ、と。

それは構造(システム)的なものに組み込まれていく過程ともいえる。


それに対してcultureというのは構造的なものから零れ落ちる多様性であり、構造維持のための効率性や合理性を旨とする価値観とは趣を異にする考え方やそれに付随する行動様式、モノの蓄積だったのかなぁって感じ。

なので感覚としては「culture」は村落共同体的(耕す)であり「civiliztion」は都市民化ということなのかなぁ、と。もそっと単純に「生活世界」と「システム」ともいえるわけだけど、「生活世界」というのは近代化によって都市民的な構造(近代)の中に包摂された前近代的価値観=村落共同体的価値観に基づいた生活圏なのかなぁと思う。



構造側からつくられた「公」、「歴史」から抜け落ちていったものが無縁、的な記述が本書にもあったけど、そういった構造によって作られたものが近代であり、そこから抜け落ちた(「近代」にとっては)非合理的なもの、管理できないものが「無縁」であり「文化」的なものだったのかなぁ、と。

そして無縁や生活世界の中にも「公」はある。



阿部×網野的には「公」は上からだけのものなはずなのになぜ下から作られた「公」もあるのか?ということが問題になりこんがらがっていたように思うけど、おそらく「公」というのは明示的な法以前の、共同体の中で作られる慣習法的なものでありその意味では上にも下にも「公」はあったのだろう。

上と下というか当時の支配者的なものがつくる「構造」に含まれる成員たちの共同体とそれ以外のもの。便宜的に示すと「構造-公」と「無縁-公」みたいなもの。


そんでこういった「構造-公」と「無縁」の関係、あるいは国家ではなく人的集団の中おのずから生まれ出てくる「公」的なものの日本における展開について。

先ほども少し出たけどたとえば惣村なんかがあった


惣村 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E6%9D%91


あるいは自治都市としての堺とか


muse-A-muse 2nd: 日本におけるベヒーモスの芽生え   堺の場合
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121069392.html



ここで「ヨーロッパの城塞都市なんかはある程度の自治性を有したまま歴史を重ねていったように思えるがそれに比べて日本の自治的なものはなぜ潰えていったのだろうか?」という疑問が生まれる。江戸でも商人組合とかあったけどそういう時の政府によって直接的に管理下に置かれたものではなく、ヨーロッパの都市国家ぐらいの対等性をもった自治。


いままでの流れ的にいうと、ヨーロッパの場合は貨幣経済に基づく近代の特殊性に基づいて商人たちがある程度自由を獲得できたのでは?と考えることができる。

すなわち、「貨幣経済に移行することで財を増やすことが容易となった商人たちがそれをもとにして武力も蓄え発言権を増して行ったのでは?」、的な考え。

うろ覚えだけどこういった考えは柄谷あたりにもあったように思う

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)
柄谷 行人
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1 理想論
5 柄谷思想の入門書、読めば読むほど味が出る
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ただ、それだけだと江戸の商人たちが財的には幕府を超え発言力を強めていったのに幕府の管理下から抜け出るほどの自治力を持たなかった(結果、たまに借金帳消し徳政令なんか出されていた)ことの説明がつかない。


なので、地政学的関係で自治都市が発達・維持しにくかったのかなぁとかも思ったりする。



あと、経済圏と文化装置との関係とか。


そんなに豊かではなくて経済的リソースが十分でない社会では誰もが自由に経済的に発展できるわけではなく、限られたものが発展していって大きなハブをつくるように思う。

日本の場合は天皇、貴族、神社が荘園を持ち、稲作を中心とした経済圏が作られていた。それらの圏内では夫々に年中行事が作られていたらしい。なので日本の年中行事は農暦に基づくものだけではない。

そんで、そういった年中行事がそのまま文化装置となって人々の生活の中に溶け込んでいったのではないか?ヨーロッパにおいて教会が文化のハブとなったように、統治に際して「文化」というクッションが一つ入ることによってケンが立たず、民衆の叛意を逸らせたのではないか?広報によるブランディングみたいに。

そういうことも考えられる。


そんでそういった文化装置に基づいた信頼性があったからこそ天皇信奉もあったのかなぁとか思ったりする。





まぁこの辺も推論だからよくわかんないんだけどもとりあえずこれから公共性な歴史を追っていく際のひとつの筋ではあるかなぁと思いつつ課題にしとこう



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関連:
muse-A-muse 2nd: 司馬遼太郎, ドナルド・キーン、1972、「日本人と日本文化」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125351878.html


cf.日本では生死を掌握する規範がなかった(庶民自身が生死を自ら決めていた ― 日本人には宗教がない

→cf.司馬遼太郎=日本人には宗教がない = 武士道ももともと「主君のために死ぬ」とかではない



posted by m_um_u at 11:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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