2009年09月20日

「合理の中に非合理が、近代の中に前近代が入ってるんだね」って話

中世本とかそれにつづいてプロ倫読んでたらなんかモヤーンとしたものが浮かんだのでメモ的に


中世の窓から (1981年)
中世の窓から (1981年)
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阿部 謹也
朝日新聞社
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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
マックス ヴェーバー
岩波書店
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おすすめ度の平均: 4.5
5 解説が最高
5 宗教的意識内容(心理的動機)は、例えば資本主義の発展に対して巨大な影響を与えた。
5 最後の人間、同時代への驚愕から生まれた研究
5 資本主義はどこから来たのか?資本主義とは何ものか?資本主義はどこへ行くのか? 
3 社会学とは何ぞや



両方ともあとで感想書くかもだけど面倒だから書かないかもなのでいちお読んだ人の感想っぽいの貼って概略の手抜き。


阿部謹也の中世の窓から part 2
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/german/abe2.htm

叡智の禁書図書館<情報と書評>: 「中世の窓から」阿部 謹也  朝日新聞社
http://library666.seesaa.net/article/14329622.html


中世ヨーロッパ、11〜16世紀の北ドイツの生活とか変化、雰囲気を伝える本。近代以前のああいうじめっとした雰囲気がけっこう好きなのでよんでみた。「薔薇の名前」みたいな厳格さ+地味な生活的なああいうの。

あとは欧米文化の基層部分の芯のようなものというか、重厚な歴史の厚みの元のようなものを知りたかったので。


プロ倫については有名だからまぁいいや。たぶんあとで感想書くだろうし


「中世の窓から」について。リンク先にもあるように職人の生活とか位置とかについての細々とした記述もおもろいんだけど、この本の全体的な主旨のようなものがあるとするとやはり「贈与経済から貨幣経済-資本主義へと移り変わる際の人の生活や規律、価値観の変化」といったところだったかなぁ、と思う。

ここでいう貨幣経済-資本主義というのはその後のヨーロッパを中心として生じてきた爆発的な急進力をもったそれ。それまでモノやヒト、仕事など形をもったものをリソースにした取引がデフォだったのに対して貨幣を介して抽象的な価値を取引のリソースにできるようになり、それを元にして場所や時間といった制約にしばられることがなくなった。投機なんかもその派生だし。ヨーロッパの資本主義、近代資本主義の基礎というのはこの辺にあると思う。

貨幣経済自体はこれ以前にもほかの地域であったし、投機なんかも見受けられるわけだけどそれらを合わせて現在に繋がる資本主義的な型(セット)、簿記を土台として営まれる合理的な産業経営を作り上げたのはヨーロッパのそれのように思う。ヴェーバー的には「萌芽はあったかもしれないけど大量現象としては見受けられなかった」ってやつ。

もちろん「それは生産様式の性格に依るだけではなく、軍事力その他の要素も含めて先行できた国の勝ちパターンがデフォ化しただけったたのでは?」ともいえるわけだけど。

とりあえず(資本主義そのものが他所から伝わってきたものかもしれなくても)資本主義の型の受け容れ皿(元型)みたいなものがこの時代にできたんだろうなぁ、と。


そんで、興味を持ったのはこの時代の価値観の変化の部分。または変化の内実はどういったものだったかということ。

「贈与経済→貨幣経済」、あるいは「ゲマインシャフト→ゲゼルシャフト」って感じで後者が前者が単純に塗り替えていって「その過程で以前あった価値観や慣習はすべて捨てられた」っていうのともちょっと違うんじゃないかなぁ、と。

贈与経済とか共有とかに着目するひとは「昔は贈与経済だったんだから昔に戻ればいいじゃんそっちのほうが自然なんだし」みたいな論調とることがあるんだけどそれもなんか違うように思う。

そんなこと思ってたところで「中世のお金的価値観への転換期の話」のつづき的な感じでプロ倫のあとがき(大塚さんの)読んでたら「一見合理的にみえる近代資本主義の中に天職(Beruf)概念という非合理的なものが含まれている」ってあってこの辺かなぁ、って思ったりした。

阿部さんの本でもあったんだけど、近代型の貨幣経済-資本主義に向かう過程で昔の伝統的習慣を捨てられない人々がいた。「そういった人々をだます仕掛けとして教会的な方便が使われた」という話。

たとえば昔は貨幣には呪術的な力があると思われてて死出の路銀としてもたせるために死者と一緒に埋められたりして問題になってた。これが積み重なると貨幣の量が減っちゃうので。その習慣をやめさせるために「埋めなくても教会に寄進すればそのお金は死者にたむけたことと同じことになりますよ」とした話とか。

これなんかはまんまプロテスタンティズムの倫理が要請された過程にも似ている。

「プロ倫」という論文の出発点は、<「非合理な宗教」的戒律であるプロテスタンティズムの倫理を「合理性を代表する商人たち」が召還した?>、っていう疑問にあるわけだけど、なぜ商人たちがプロテスタントの倫理を召還したかというその背景について。いちおいっておくと「カトリックよりゆるかったから」ということではなくプロテスタントの倫理のほうがカトリックよりも厳しかったらしい。なので「なんでわざわざ厳しい倫理を?」って話。

阿部さんの本の説明によると、(贈与だかなんだかわからないが)伝統的な経済から近代的な貨幣経済に移行する転換点において人々はそれまでもっていた倫理・価値観をゆさぶられたんだそうな。それできちんとお仕事しない輩がたくさんでてきた。都市の有力商人たちはそれを憂いプロテスタントの戒律(宗教改革)を招きよせた、とのこと。

当時の人々がなぜこの戒律で満足したのか?については謎なんだけど、教会的聖性とそれに基づいた信頼がバッファとなったのかなぁとか思う。それ自体、聖性というのは論理的には非合理なものなんだけど歴史的積み重ねはあったし。あと非合理っていうとBeruf(天職)って概念も非合理。

貨幣経済下の勤労に慣れなかった人用に「それは神の下で定められた神聖な仕事だからしっかりはたらけ」的な方便として生み出された概念んが「天職」だったんだけど、これなんかも合理性的観点からするとなんの問題解決にもなってない。んでも近代以前の価値観を持っていた人たちはそれで納得した。聖性が重要だったので。


これってnation-stateの幻想-詐術とも似てる。stateなんかもともと村落的な生活送ってた人々には関係のないものだったんだけどそれをnation(パトリ的な土着、あるいは親近の大事なもの)とイコールで結ぶことによって「国家はキミ達にとって故郷であり家族も同じ」とした論理。

経済的価値観を変容させるときに教会的聖性を人質にとった、あるいはトロイの木馬として遣わして人々の信頼を勝ち取ったのと同じように、nation-stateの幻想ではnationを人質にとった。

それはある視点からみれば詐欺行為であり「どうなの?」って感じではあるけど、歴史的事実という視点から見るだけなら「強力な仕掛けとして機能したんだなぁ」って受け止められる。


以上のことが前提になってついったでメモ的に以下のことをつぶやいたり。ちょっと言ってきたことと重複するけど
(※注を要するリンクは一部修正)




society ってのは geselleschaft に通じるわけで、 ゲゼルシャフトのシャフトは「集まる」、ゲゼルには「(おそらく「性質の違うものが」)仲間になる、一緒になる」的なニュアンスがある。

対してゲマインシャフトの場合は「もともと同じ性質のものが集まっている」みたいなイメージ。英語だとコミュニティに相当する。


ドイツ語でよく「○○シャフト」という単語が耳に付くのですがどういう意味合いなん... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1420416309?fr=shopping_search

ドイツ語の意味について - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210530802



もともと日本は「個人」て概念がなくてゲマインシャフト的なものがデフォだったように思う。顔の知れた人々によって作られる共同体。

しかし近代になって都市なんかで働くようになると分業がデフォになって顔の知らない人々と交わり、協働したり取引をしたりしないといけなくなる。「性質の違うものたちが一定のルールに従って集まった固まり」的なものが生まれてくる。

そこで従来のアナログ的なリソース(信頼や物財、などといった地域固有のリソース)では交換関係が成り立たなくなる。こういったリソースはそれまでに積み重ねられた歴史をもとにして信頼が作られているけどヨソ者はそんなこと知らないし、都市はヨソモノたちがつくっているところなので。

そんでそういったヨソモノ同士の疑心をバッファするのが貨幣。貨幣の信用は国家がバックアップする。

貨幣は土地に根ざした縛りがないので自由が利くし、ヨソモノを受け容れることができるので取引の幅が広がっていく。

「社会」に戻ると、この言葉はもともとsocietyの翻訳語としてあてられたものだけど、さっきもいったようにsocietyにはもともとゲゼルシャフト的な「(異なったものたちが)一定のルールにしたがって造った集まり」的ニュアンスがあったはずなんだけどその部分は捨象されたっぽい。(cf.「翻訳語成立事情)


翻訳時のニュアンスとしては「一緒に」とか「個人の集合体」程度。 これまでにも同じ目的をもった人々の集まりを指す言葉としては「社」があったんだけどそれを拡張させつつsocietyの意味合いをつかみかねていたっぽい。

そういうのも受けつつ当時の語用としては「社会の公僕」とかなんとか「仕事」と結びついた共同体概念って感じでなんとなく敷衍していったっぽい。反対に似たような領域を指し昔から日本で使われてきた「世間」という言葉は悪い意味で使われるようになったり。

世間という言葉はゲマインシャフト的ニュアンスを孕むからだろうけど、特にその辺も意識せずに「世間」というのはなんか「閉鎖的なコミュニティ」的なイメージになってたり。

しかし、日本で「社会」って言葉が使われる場面ではほとんど「世間」でも代替可能だったような。そして「世間」って言葉に付随する歴史をたどっていくとそれほど悪し様にいうようなものでもないかなぁとか思ったりする。個人主義と共同体的な生き方の関係だけど。

てか、「ゲゼルシャフトもゲマインシャフトも根っこは同じ(ゲゼル>ゲマインて話でもない)」ってところも含めてゴニョゴニョ思ったりする。


想像の共同体について :ウィーンの路傍 パリの道標 山下祐樹
http://yukiyamashita.arekao.jp/entry-c6eb4889a6b80bd5bfb12f5ed53aa3f3.html

『そのゲマインシャフトとゲゼルシャフトという区分自体が無意味であるという理解が存在しているのも確かで、マンフレート・リーデル『市民社会の概念史』がその視点を持つ重要な著作である。リーデルの言語史的な分析からすると、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトは元来同一の源泉から生じていたものであり、テンニースのようにゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという流脈は存在しないという指摘を含んでいる』


それは「貨幣経済>贈与経済」ってわけではなく…って流れにも重なるんだけどここで反対に「貨幣経済<贈与経済」ってするのも変だなぁとか思ったり。



エントリにするときはこの辺のゴニョゴニョについてもそっとゴニョゴニョ考えれるといいんだけど… 言語化めんどい


阿部勤也さんの話をおってると贈与経済的なものをけっこうプッシュしてはるんだけど反面日本的な「世間」は嫌ってはってその辺で分離してるのかなぁとか思ったりする。



そんなことつぶやいてたらクマから、『 えーと。「世間」は実体のある何かっていうより、人の行動とかを抑制する何かなんじゃないかなぁ。と。だから、ゲマインシャフト/ゲゼルシャフトの延長じゃなくて、規範とか役割とかに付随するんじゃないかなぁ』、とかなんとか。

これは、「society」の翻訳語に「世間」という言葉が使われなかった理由、の説明としてはアリかなーとか思った。たすかに価値観と社会的実態をゴチャゴチャにして語ってたなぁ、と。


そんなこと思いつつごはん準備しつつタラーっとこの辺みてたらちょうどビビッドなこと言ってたり。


なんというか - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090916/1253060287


全体的には鳩山さんの「友愛社会」の一面性を皮肉ったpostで1Q84にも通じるわけだけど(仲俣さん的に「ニイマルマルキュー」とかいってたな)

<市民社会の出自として、市民は村落共同体におけるfraternityの原理の側の派生、fraternityは同性愛的な原理性をもつ。そして国家はこういった市民社会の構成員の自由を守っていった>、と。


「結婚」を神的聖性と村落共同体的な友愛の契約関係としたとき、その契約のの証として「子」(子供の再生産)が成されていた、って話かな?

そんで本来ならそういった結婚が(当時の)社会(association)契約的役割をもっていたわけだけど、社会全体を絶対主義が覆い国家によって構成員の自由が守られるようになっていった過程でそういった社会契約的役割を国家が担うようになった。

そこでは子供(人口)は再生産の要素として国家に包含されていくのだろうけど、もともと市民社会の原理としてあった村落共同体的な「友愛」の原理 ― 同性愛的なそれが市民を単純な再生産の道具とすることを許さない。

みたいな話だろうか。


とりあえず「現代の近代(合理)的に思える市民社会の中にも非合理とか村落共同体的な要素が入っていて(なんかわからんが)そのスパイスがあることで市民社会は健全に保たれてる」みたいな感じ。


単純に「村落共同体的なものに戻ればいい」ってことでもないのだろうけど



(あと、「神」と「子」と「精霊」とかいうのは「教会の聖性」と「子供の再生産」と「村落共同体なassociation」に対応するのかなとかちょっと思ったりした)


「市民社会の概念史」もそのうち読もう


オンライン書店ビーケーワン:市民社会の概念史
http://www.bk1.jp/product/00676526





posted by m_um_u at 11:33 | Comment(0) | TrackBack(1) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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Excerpt: m_um_uさんが興味深い記事をあげていたので、その記事の中で書いている「社会」と「世間」の関係について簡単に私見を書いておこうかなーと。muse-A-muse 2nd: 「合理の中に非合理が、近代の..
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