2009年08月08日

プラハ宣言を受けた今年の8月6日についての雑感

今年の梅雨はなかなか終わらなくて今日になってやっと「中国地方の梅雨は4日前にあけました」って聞いたんだけどだとすると8月6日にはもう梅雨が明けてたんだなぁ。てか、それまではすごしやすかったのに4日の晩とか5日の晩ぐらいから急に蒸し暑くなったような…。
 
でも、それが広島の夏だし8月6日周りというのはそういうもの。んでも、今年の8月6日は小雨模様でわりかし過ごしやすかったように思った。それもあって偵察がてら朝のうちに平和公園までジョギングにいったり。んでも慰霊碑周りにロープはってあって入れなくなってた。「関係者のみ」って感じなんだろうけど前からこんなんだったっけなぁ。。人は昼間ぐらいいた。帰り道で自分たちの記念塔前で同窓会的に写真とってるじっちゃんばっちゃんたちがほほえましかった。
 
 
今年中に広島を離れるかもしれないのでその後の式典にもいこうかなぁとか思ってたんだけどちょっと偵察してきた様子もあってなんとなく行く気がなくなったり。式典自体は形式的なもので聞きなれた文言聞いたり広島市長の宣言聞いたりするだけだし。今年はオバマのプラハ宣言を全面的に受けた内容ということだったし実際そうだった。









該当箇所的には2つ目の動画がそれで全体の文脈としては「テロリストの核保有に対抗するためには世界が協力して核廃絶につとめないといけない」というもの。要旨的にはこの辺のほうがまとまってる


ほぼ日刊イトイ新聞 - ぼくは見ておこう 「核のない世界」
http://www.1101.com/watch/2009-08-06.html


それでそれを全面的に支持する広島市長の平和宣言、と


asahi.com(朝日新聞社):秋葉忠利・広島市長の平和宣言(全文) - 社会 http://www.asahi.com/national/update/0806/OSK200908060004.html


これ自体はパフォーマンスとしてはありだと思うんだけどなにかオバマのやることを全面的に聖化というか正当化している面もあるのには違和感がある。特に一部の被爆者から。

前のエントリにも関連するんだけど


muse-A-muse 2nd: 宮台真司、2009、「日本の難点」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125069355.html


オバマのプラハ宣言は新たな世界軍事秩序の構築に向けての牽制的な意味合いもあると思う。

そこまで行かなくてもテロでもっとも標的にされるのはアメリカだし、それに対する警戒ということで本気になったってのもある。「冷戦後一番の脅威はテロ」ってことで。

なので国益を含んだ上での発言なのであって利害関係を含んだ上でないとこの結論は出なかったように思うんだけど一部の人は「オバマが正義の意志をもって核廃絶宣言をした」って感じでベタに受けてるみたいでなんかその辺に違和感があった。


もちろんオバマ自身にもそういう面がなかったとはいえず、そういう面も含んだ宣言だったのでノリノリでパフォーマンスできたというのもあると思うんだけど、やはりそれ以前に全体的な利害があって国家的あるいは超国家的決定というのはできていくものであって、核廃絶の願いを受け入れてほしいならその辺の事情も汲み取ってから意見しないとダメだろうなぁ、と。


逆に言うと、もしオバマが「正義の意志」とか「アメリカの道義的責任」を第一義的に考えて核廃絶を訴えているのであれば、冷戦という形で核兵器所有量を増やし核拡散を助長したロシア・アメリカの二大国が率先してペナルティを払って核廃絶を訴えていくべきだと思う。

核の問題も環境問題と同じで後発国にしてみれば「そんなこといっても先に使ってたやつらはそれでジャンプアップしたじゃーん」ってことであり、全体としては「あいつが刃をすてないからオレもすてない(あいつがもってるから俺も持ち続ける)」っていう囚人のジレンマ的なチキンレースだと思うんだけど、だったら経済的にプレイヤーの利害を調節することはできるはず。代価としてはなにもお金に限ったものではないように思うけど。

そんで、そういったゲームであるならば環境問題の政治経済学と同じく先発国が発展する代わりに空気を汚した代価を環境税という形で払っているのと同じく、核兵器開発を率先してひっぱってきた旧ソ連(ロシア)・アメリカの二大国はそれなりのペナルティを後発国に示すことによって核廃絶を牽引していくべきだろう。「道義的責任」というのならそれが筋道のように思う。

そこまで踏み込めないのならやはりプラハ宣言というのは政治的タテマエであり、「アメリカの国益」のためのものって感じ。つってタテマエとか国益否定してるわけじゃないけど。少なくともそう考えるとオバマのスピーチというのはそんなに聖化されるべきものでもない。



しかしパフォーマンスとしてはこれまで原爆投下正当化の論理がデフォだったアメリカの国家元首が核の誤りを示したようなものであり歴史的・共時的意義のあるものだったと思う。やはり「ヒバクシャの声」だけだとなかなか届かないので。



そんなことを思った今年の8月6日でした




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追記:
あと、今年は原爆症認定の基準が下げられた(「1審で勝訴した原告について控訴を取り下げて原爆症と認定するほか、1審敗訴の原告は議員立法で創設する基金で救済する」)。

オバマのことよりもむしろこっちのほうが地味に進展だったように思う。選挙前のびみょーな時期だし「国がいままでのことに謝罪しない」という不満もあるみたいだけど。



タグ:ヒロシマ
posted by m_um_u at 18:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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