2009年08月05日

宮台真司、2009、「日本の難点」

前にエントリしてたの関連でこれ読んだ


日本の難点 (幻冬舎新書)
宮台 真司
幻冬舎
売り上げランキング: 1046
おすすめ度の平均: 3.5
3 答えは同じでも
3 読みにくい??いやいや結構本質をとらえた内容です
4 現代日本の論点が1冊でまとめて読める
5 読めばなにかいいたくなる本です。
4 宮台に詳しい人にはオススメだが



全体的には小話の連続みたいで「なんかpodcastみたいだなー」って感じだったんだけど「元ネタは『日本の論点』」ということで仕方ないのか。そんな感じで現代用語の基礎知識的に「現代社会を斬る!」的な本でとらえどころがないといえばそんな感じなんだけど、まえがきでかかれてたことが気になったのでそれに沿って読んでみた。曰く、

(7-9) 先に紹介した「収束しつつある物差し」が意味するところを一言で言えば、「相対主義の時代の終わり」です。相対主義の時代が終わっただけでなく、相対主義に対抗して「絶対的」なものへのコミットメント(深い関わり)を推奨するような素朴な立場があり得た時代も、終わりました。
 相対主義の否定が不可能だと知りつつ相対主義を「あえて」否定するしかない――「普遍主義の不可能性と不可避性」とはそうしたことです。僕が今世紀に入ってから「ベタからネタへ」という言葉でアイロニズム(全体を部分に対応させつつ全体を志向すること)を推奨してきたのもそうしたことが背景です。
 振り返ると、ポストモダン化を予兆して「境界線の恣意性」を問題にした20世紀的人文知(言語ゲーム論やシステム理論)から、1994年あたりから専門家に知られ2001年以降人口に膾炙した「コミットメントの恣意性」を問題にする21世紀的人文知へと、転回したことになります。
 「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日本人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義にあたります。かつて流行した「社会構築主義」や「脱アイデンティティ」といった物言いもこの系列に属します。「境界性の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたらします。
 これに対し、「コミットメントの恣意性」は、「境界性の恣意性」については百も承知の上で、如何にして境界線の内側へのコミットメントが可能になるかを探求することが大切だという認識です。認識が実践的に逆方向を向いていることが大事な点です。
 分かりやすく言えば、「境界線の恣意性」を問題にする段階が「素朴に信じてはいけない」という否定的メッセージだとすると、「コミットメントの恣意性」を問題にする段階は、対照的に、こうした否定性への自制や自覚を持ちつつ「コミットメントせよ」という肯定的メッセージなのです。
 「恣意性に敏感であれ!」という段階から「恣意性を自覚した上でコミットせよ!」という段階への変化です。



<「なにが正しいか」という問題設定の時代は終わって「なにを“正しいとされるもの”にするか」の時代になった>、という話。「なぜコミットせざるを得ない状況になったか」ということについては後述になるけど、本書の全体的なテーマはこの辺にあるのだなと思って読み進めた。

てか、いまみるとまえがきにもその理由としての背景が端的に書いてあるのでこれをそのまま要約すればいいか。

その前段階としていちおいうと論理展開としては、「いまは各人がコミットせざるを得ない状況になっている」←「なぜなら既存の土台がゆらいでしまってコミットせざるを得ない状況が出現したから」、って感じ。

その「既存の土台」「永遠に続くと思われたゲームのルール」というのは端的に言えば安保を基盤とした日米の蜜月関係、と。これが9・11以降の米国の政治的凋落、金融危機による経済的凋落によって崩れてしまう可能性が出てきた。
もしくはかつてに比べ日本が基地交渉において自国を高く売る機械が到来した。それは経済→軍事プレゼンスの弱まりから米国が世界に張り巡らせた基地を縮小せざるを得なくなったから。その中でも沖縄なんかは重要ポイントになるのではずせないけど、「それがゆえに高く売れる」、と。また、「かつてに比べアメリカに軍事的に守ってもらう」、ということにそれほどの有効性が見出せなくなった。アメリカは安保を切り札に貿易・食糧輸出入の外交を有利に進めようとするが、米国の世界における軍事的プレゼンスに翳りが見え始めた現在、日本は不利な条件で安保にしがみつく必要がないのではないか?それならば自らが軍備をもてばいい、と。


「日本が軍備をもつこと」とか「米国の軍事的プレゼンスは本当に落ちたのか」ということについてはもろもろびみょーなところがあるように思うんだけど、とりあえずこんな感じで米国が弱体化したので日本はそろそろ「安保に守られてる間に経済成長」みたいなコンボがキラーコンボにならなくなってきたんじゃないか?って話らしい。

この辺が4章「米国論」な話。


んでもこれだけだと「各人がコミットメントせざるを得ない」というところまでいえるのかな?

ここまでで自分としては、合理的な人間であれば「自分が生き延びることのみを考えるんだったら社会的コミットメントをする必要はない」と思うはずだけど。それが「コミットメントの必要性の自覚」って話に繋がるには「かつての社会に比べて現在の社会と自分の問題が繋がるように変化していて、社会の問題を考えないことには自分も損をするって状況が現出している」という前提がないといけない、と思った。


そんなことを思いつつ5章「日本論」を読み進めるに

「社会が複雑化して統治権力も正しい決定ができなくなる」 → 民衆に任せたほうが無難 →んでも「民衆の要求と統治権力側の政策が対立する」 → じゃあ「痛い」政策はみせずに人気とり的な政策を発表すればいい → とりあえずそれで様子見るべ

って感じらしい。そんでそういう社会になると自然にコミット意識が生まれるかというとそういうわけでもなく「社会がコミットメント意識を個人に埋め込むべき」、と。

理由としては「人々が合理的な選択をした結果バラバラに行動しているとその結果として社会を滅ぼしかねないから」。



つまり「コミットメントをせざるを得ない状況」というのは個々人の自発的な意識に基づいたものではなく、複雑性に対応すべく統治権力がわが自覚的に政策の中に埋め込んでいくものであり、その結果として個々人がコミットメントとしていく社会が生まれる、ってことらしい。



この辺はなんか自分的にはちょっとがっかりしたけど最初のお話に帰って、「なにが正しい」ではなく「なにを”正しいとされるもの”にするか」、と考えるとするとこういう方向で当然なのかなぁ、とか。もはやネタ(みんなでつくった仮置き的制度)がベタ(ずっとそこにあった正しい決まり=<システム>)になってしまっている社会の中にあふれ出た複雑性に対抗するにはもう一度ディールを巻きなおしてネタを作る必要がある、ってことで。

あと、「現代社会学は「みんなの想像力」と「価値コミットメント」の二つの柱が揃ったところから出発した」ってのはなんかいいなぁ、と思った。



そんなこんなで<システム>と<コミットメント>ということでもうすぐこの話に続くわけです(予定)





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おすすめ度の平均: 4.0
2 できそこないのパラレルワールド
5 楽しみです。
4 楽しく読める
1 つまらない
4 使命感を持って書いてるのかも







あと、補足的にいうと「日本の論点」的つくりということで今度の選挙の論点としても参考になるなぁとか思ったとです。



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関連:
muse-A-muse 2nd: ネットの公共性をめぐっての古くて新しい話  現実に即したパワーゲームか原義的公共性か
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121028286.html



muse-A-muse 2nd: 壁と卵の話(壁作りの是非について)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/114813373.html





posted by m_um_u at 20:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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