小林秀雄の流儀 (新潮文庫)
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山本 七平
新潮社
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生活者の視点と経験と知識
一身一頭人間として生きた批評家一つ前のエントリの課題に対するヒントでも掴めればなぁ、って
muse-A-muse 2nd: 「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html
自由を求めて却って不自由になったり、一見不自由なようで自由だったり…要はその中で当人が言葉に縛られないで自由に動けるかってことなのだろうけど。善とか悪とかそういったものもそういった言葉に過ぎなくて、それに縛られていると却って不自由になるのかなぁ、とかなんとか。かといって野放図なエゴを追求しても満足はなくその辺の匙加減かなぁ。。「生」に向けての匙加減みたいなの。
この辺りの匙加減について、この本はなんとなく良さそうに思えた。そんで実際辺りっぽかったんだけど、以下はそのメモみたいなもの。「オレ※」ってちてるところは自分の感想とかメモ、ほかは要約。メモのはじめとか終わりについてるカッコ閉じの数字はページ数を表す。
以下は一章:小林秀雄の生活、のメモ
小林秀雄のように※「自由」に生きるには?
(※言いたいことだけ言って書きたいことだけ書いて生活するには?
「常識におぼれる」のではなく「常識を活用する」
(オレ※:世間の常識におぼれるのではなく自分なりのスタンダード(道)を持つ) 「常識という原石を磨く」
「私立」する
(世間の常識にとらわれて一身両頭人間にならない 一身一頭人間)
「私立」(自分の中にスタンダード)なく世の中にそれを依存する人は世に不平をいうようになりそれがとどまらなくなる(23)
そういうものにとらわれないで考えるには?↓
「考えるということは合理的に考えるということだ」(24)
一つあるいは若干の着手を先ず発見していて、それを実地において確かめる(人々は普通、読みという分析から着手という発見に至ると考えるがそんな不自然な心の動き方はありはしない)
見ることと生きることの中間に精神を保持する(26)
言葉は邪魔になる (27)
(オレ※:予断を捨てる)
歴史は事実を知的に再構成するだけのものだけはない(29)
オレ※:現実は「事実」の強制力によって切り取られ矮小化されるが、人間は「事実」だけではなく自らのイメージ(内的感覚)によって生きている
本居宣長も内的感覚に基づいて記述をしていた (神の国日本)
生きたいように生きる、考え(書き)たいように考え(書い)ていくには、まず世間の常識にとらわれすぎないようなスタンダード、自分なりの指針のようなものを持つべきだ、と。
しかしそれがブレていないかどうかを計るにはどうしたらよいか?
「合理的に考えることだ」、と小林(山本)は言う。
ここでは合理的に考えるということと論理的に考えるということの違いが挙げられているように思った。論理的に考える場合は帰納的に各個の事象を素材に論理的推論によって結果を導くものだけど合理的に考える場合は違う、と。
「われわれが考えるとき、すべてを論理的に推論しているわけではなくあらかじめ出ている答えを後から論理によって納得させることが多い」って言ってるように思えた。
この辺の感覚は現象学的かなぁとか。「世間的な言葉や常識、文脈にとらわれないで自分の感覚(リアリティ)に基づく」ってところもそうだし。なので小林も、小林が探求した本居宣長も現象学的な考え方や生き方をしてたんだろうなぁ、と。
以下は2章:小林秀雄の「分かる」ということ、メモ。基本的にはいまいったこと(「現象学的な認識に立ち戻ること」)と変わらないみたい。
「分かる」のはじまり − 一つの見方(世界)にハマってそれを基本としてあらゆる事象を理解するようになる (「つきもの」)(64)
「科学的分析」はあらゆる事象を要素還元し「分析」するがそれが果たして「分かる」ということなのか?(70-71)
感動してないのに感動しているかのように振舞うこと(78-79)
オレ※:事実認定的でない内的実感(感動)を繋ぐため、あるいは繋ごうと足掻いた揺らぎの残照として芸術的言葉があるのであり、最初から修辞的にそれを用いたものはカッコヨクオモシロクあっても空疎な嘘。
「分かる」ということは言葉の牢獄から解き放たれ最初の感動にたち戻ること
本当の意味で「椅子を見る」とはいわば「疑いようのない椅子という実在」を見ること。これは凡人にはほとんど不可能に近い。ゴッホはできた。それならば、われわれはそれを見ればいい(102)
科学者は最初にあるがままの自然に対する素朴な疑問をもつ。その驚きを沈静させようとして分析して行くうちに対象はより複雑さと精妙微妙さをまして行く。それによって科学者は最初の驚きに立ち還るともいえる(104)
オレ※:知ることによって自然の中のキセキがより理解できるようになる
美というものがたち現われたとき一個の壷は「一個の壷にすぎない」ことを越えて「純粋な色と構造とを露に」する(110-111)
そんなこんなでいまは4章までいちお読んだ。3〜4章はドストエフスキー関連ということで、ドスト未読なので参考にならなくて読み飛ばしたけど。とりあえず残りの5、6章を読み進めてみる。


