2009年06月18日

「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話

甲野善紀さんのDVD見ていろいろ思ったので感想とか欲しいものリストも兼ねて。

甲野善紀身体操作術 [DVD]
アップリンク
(2007-05-25)
売り上げランキング: 1471
おすすめ度の平
均: 4.5
5 彼に興味がある人は買って損はない
4 価値あり



最初の興味はさいきんちょっと重いもの持つことがあって、そのときに自分が合理的な身体の動かし方に興味持ってたことを思い出してまた甲野さん関連のものを見たくなったということから。前にNHKブックスから出てる小冊子買ってたんだけど実家に置いてきててこないだ行ったときに探したらなくなってた。それで仕方なくもう一回注文。そんなに高くないし


甲野善紀の暮らしのなかの古武術活用法―2006年7月~9月 (NHKまる得マガジン)
甲野 善紀
日本放送出版協会
売り上げランキング: 5107
おすすめ度の平均: 5.0
5 介護する人、される人にむけた、優れた介護術がここにある。



近所のツタヤで甲野さんDVDレンタルしてるの見かけたし。なのでちょうどいいな、と。

NHKブックスのは図解だけでいまいちわかりづらかった。やはりこの人のは動きそのものを見ないと。ということでこれを再び注文し届いたころにツタヤのセールで借りに行ったり。

最初は全体に通呈するコツみたいなのが盗めれば自分的に応用できるかなってつもりで見出したんだけどやはり見てもよくわからんところはわからんかった。古武術手品みたいな感じで。それでも膂力による打撃に頼るのではなく重心移動の速度によって威力を生んでるのだということはわかったけど。「タメをつくらずノーモーションから打撃を行えるので相手に構えるスキを与えず、こちらも最速の攻撃ができる」、と。そんでその際の力は重心の高速移動によって生み出す。物理的に速いってよりも演算速度が早いって動き。てか、脳に考えるゆとりを与えないで考えるよりも先に身体が動く(動いたのは別の私)ってことだけど。反応→反射→音速→光速…

そんで生み出された早さと重さが武器になる。子泣きじじいのように自在に体重や速度を操るってイメージ


これ自体は書いてみると納得できるんだけど実際にやって会得するとなると大変そう。とりあえず効率的に力を発揮するときに身体をひとつにまとめることかなぁ、って自分的には理解した。身体が伸びてる状態で無理に力がかかるとテコの原理で反作用点が壊れちゃうのだろうし。


技についてはそんな感じで1回見ただけだとまだよくわかんなくて、「DVDが手元にあったら何回も見れるかなぁ」、とか思ったわけだけどやはり目の前で実演みたり投げられたりしたほうが体得するには速いのだろうな。そうはいってもなにやられたのかわけわかんないのだろうけど


動きはそんな感じでみつつもう一つ面白かったのがインタビューだけまとめた特典映像のほう。なんか意外だったがこの人武術プロパーかと思ってたけど最初は農大入ってそこで工場生産的に生物を生産するいわば機械主義的なアプローチに辟易していろいろ本読みあさって武道にたどり着いたらしい。

武道を志したのは道を変えるときに自分が得たインスピレーションを感情レベルで体感できるのは身体性があるものだと思ったからだ、とのこと。「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」ってインスピレーション。これは「バガボンド」にも出てきて井上も影響受けてるみたい



バガボンド 29 (モーニングKC)
井上 雄彦吉川 英治
講談社 (2008-11-28)
おすすめ度の平
均: 4.5
5 武蔵の成長
4 成長しつつある武蔵
4 殺し合いの螺旋から逃れられるのか
5 深い
4 内面を描くということ




「バガボンド」のこの巻ではそのもののセリフが出てきたり(「おまえのこれまでもこれから先も天によって完璧に決められていて それが故に完全に自由だ」)。武蔵のセリフではなく沢庵和尚のセリフだけど。武蔵は「天と繋がってる感覚があるときは自由だって感じる」みたいなこと言ってた。


そんでやっぱり対談してたりする


「武」
「武」
posted
with amazlet at 09.06.17
甲野 善紀井上 雄彦
宝島社
売り上げラ
ンキング: 48458
おすすめ度の平
均: 4.5
5 スラムダンク、バガボンドと武術の接点はいかに?
3 死に方の美学
4 武士と現代
5 武術の奥義は、現代スポーツをも変える!
5 甲野氏は何を求めているのか






「決まっている」と「自由」っていう二律背反であり矛盾が並立し、それを納得できるというのが人間存在の実存性ということで。この辺、ハイデガーかなんか読んでたのかなぁとか思いつつオラも読んでないのでわからん。ただ、「決まってる」ってのは「死」ってことなんだけどこの辺が武士道とかネイティブアメリカンの感覚に通じるのだろうな。「武士道とは死ぬことと見つけたり」ってやつ。

「死が決められたものだと実感すればそこに行き着くまでは自由だ」ってアレ。そういうものとして受け容れればそこにたどり着くまではボーナスタイムになる。なので、不安やよけいな思索の必要がなくなりその分からだや心が速く動く。

「予断をなくす」ということでこの辺はまぁふつーに聞いたのだけど、おもしろいなと思ったのはふつーこれ系を語るときはもっともらしくというかもったいぶって語るものなんだけど甲野さんの場合なんかあっけらかんとしていてほんとに実感したんだなぁって感じだった。

そういう実感を得た喩えとしてもふつーこれ系では聞かないようなものだったし。「同じきっかけを与えられてそれが元でヤル気になって人生が変わる人と変わらない人の違いってなんなんでしょう…って悩んだときに“それは決まってるものなんだ”って思ったら楽になったんですよね」とか


いまヤル気にならなかったり機会が巡ってこなくても“決まってるものだ”ってことにしとけば楽なのかもなぁ。

運命論的に「決まってる」って自縛によって可能性をつぶすとしたらしょうのない話だけど、すくなくともムダに悩まなくてすむ。ということはその分自由に動ける。




「決まっているがゆえに自由」ということではなんとなく山頭火のことを思い浮かべたり。



muse-A-muse 2nd: まっすぐな道でさみしい?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/118269736.html


山頭火の場合も先人の作った文脈や言葉による自縛、予断から逃れようとしてより自由な表現を追及して行ったようだった。そして最終的に「まっすぐな道」にたどり着いた。

自分的には「まっすぐな道」というのは世間によって決められた「まっとうな道」みたいなののことかと思ってて「そういう道を行くのはつまらない」って話かと思ってたんだけど、マンガ的にはその辺の解釈は違うみたいだった。山頭火自身が求めた自由(道)を究めるためにそぎ落としていったもの、家族との普通の生活を振り返って「寂しい」、と。

その孤独自体もひきうけるってことではあったのだろうけど


自由を求めて却って不自由になったり、一見不自由なようで自由だったり…要はその中で当人が言葉に縛られないで自由に動けるかってことなのだろうけど。善とか悪とかそういったものもそういった言葉に過ぎなくて、それに縛られていると却って不自由になるのかなぁ、とかなんとか。かといって野放図なエゴを追求しても満足はなくその辺の匙加減かなぁ。。「生」に向けての匙加減みたいなの。

甲野さんの場合は「それは体が教えてくれる」みたいなことなんだろうけど



身体性にいったってことだとオウムなんかも想起するけど彼らが身体を志しつつもけっきょくは機械論的アプローチになったのはなんか皮肉っていうかすれ違いだったのだなぁ、とか思う。「オウムに影響を与えた」という中沢新一の例の本はまだ積読だけど


チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)
中沢 新一
講談社
売り上げランキング:
15386
おすすめ度の平均: 4.0
5 今だからわかる
5 リアリティとマーヤ
1 体験的密教論
5 詩のような文です
4 中沢新一代表作の一冊!!






あと、○年代の身体論との違いとか関わりとか。メルロ=ポンティ経由だったか

プラトニック・ソフィエンスの創造:新叡知科学へ向けて:メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/renshi1900/archives/50869953.html


甲野さんの話って現象学的だなぁとか思いつつ「農大やめた時期にいろいろ乱読した」っていってはったので時期的にはメルロ=ポンティの身体論の影響もあったのかなとか思ったんだけど、農大やめた時期というのが1970年代中期だったみたいなのでその頃に現代思想系の身体論ってどうだったかなぁとか思ったんだけど思い出せないし甲野さん自身も特に語ってなかったので関係はないのだろうな。


てか、メルロ=ポンティの話的にも身体における二律背反みたいなのがあるのか


 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において、元身体を排除しているのである。この排除は、単に、元身体の排除だけでなく、元知・即非・元身体という超越的差異共振性(霊性)を排除しているのである。そして、近代主義が飽和状態になると、否定された元身体が反動して発動するが、それと同時に、超越的差異共振性も発動するようになると考えられるのである。

 この観点から見ると、メルロ=ポンティの身体論は、身体的連続的同一性と超越的差異共振性との混淆であるように思えるのである。そう、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と同質であると思えるのである。

 ここには、身体的連続的同一性と超越的即非性との未分化的混淆があると考えられるのである。身体的連続性は感覚的であり、超越的即非性は思想・観念的である。思うに、前者が文学的レトリックとなり、後者が理論的考察となり、混淆して、あのような文体を生んでいるように思えるのである。



なのでちょっと現象学系を絡めた話も聞いてみたいんだけど内田センセとのこの対談ではそういうのもなかったみたいですね


身体を通して時代を読む (木星叢書)
甲野 善紀 内田 樹
バジリコ
売り上げランキング: 119709
おすすめ度の平均: 2.0
1 参考程度
2 内田さんの話が多い
3 有益4割、たわごと6割



内田センセも合気やってて身体性と思想の関係、「言葉以前の身体」うんぬんってことだとベストマッチだと思うんだけど現象学の話が出なかったのは却って不思議だ。。





まぁ、とりあえず「読むもの」リストできたのでここまで




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関連:
muse-A-muse 2nd: 九鬼周造、1930、「いき」の構造
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/40630844.html

※いきも諦観から発せられるわけだけど、「結婚してからのほうがモテる」、とかもそういうの含んでるのかもね。



タグ: 身体
posted by m_um_u at 23:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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