とりあえずハンマースホイ展はこちら
ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情 Vilhelm Hammershoi:The Poetry of Silence
http://www.shizukanaheya.com/
上野の西洋美術館でやってて12月8日までとのこと
以下、ついったのpostを中心に楽しちゃおう。最初のメモはこれ
メモ:肖像における印象派的実験@1890s(→プシュケー的輪郭?)→オランダの光的な光の取り入れ+遠近法実験@1990s→両者の総合としてイーダの肖像、ゲントフキ湖→光によるデフォルメを嫌ってか弱い光のモチーフ
メモ:光や正面からの画像だと表面にとらわれて実体が追えない。では光や輪郭をぼかしたところにある本質とは?
これだけだと個人的メモっていうか、人に会って話すときにこれを噛み砕いて話す場面を想像してたらなんかワキワキしてきて夜中につぶやいたのが以下
最初はおーざっぱな美術史的概説
絵画においてリアリティとはなにか?といったときにまず対象を忠実に再現するというのが頭に浮かぶ。それで写真みたいな表現(写実)が発達していったわけだけど
でも、それはあくまでも写真的なうまい「絵」であって、「うまい絵ですね」というとこが意識されてしまう。絵であって「あの人」じゃない
翻ってあの人があの人として同定できるよすがとはなにか?あの人が歳を重ねて変化していってもなぜ我々は「あの人」を「あの人」として認識できているのか?
ただ写真のように切り取るのではなく「あの人」として認識(意味づけ)するためのよすがも含めて再現してこそリアルなのではないか?
アートの抽象への発展の動機の一つとしてそういうものがあった。ピカソとかジャコメッティとか
抽象画というのはそういったリアリティの本質的な部分(よすが)をつかみとり拡大したものだと思う。「よすが」の部分については哲学用語でなんかあったような気がしたけどいまちょっと忘れてる。。
あと、「写真のようにではなく」という部分は写真をやってる人からすると異論があるかも。写真でも撮り方によってはリアリティが写し撮れるし、撮る人によって写真に投影される意味が違ってくる。その意味では無色透明で客観的なものではない。
カメラや映画などといった新興メディアにおけるリアリティについてはベラ・バラージュあたりかな?
http://maromaro.com/archive/2003/10/12/19751924.php
んでもその辺はちょっと話がそれてくるのでこのまま進もう。抽象画はそんな感じで客観ではなく主観、単なる肉としての身体ではなく人間やモノを同定する際の本質的な部分を抽出し拡大したものといえるわけだけど…
でも抽象で表現していくと抽象(記号)にとらわれるというか、記号自体がオーバードライブしていく。記号をかけあわせた中に新しいリアルを創造していく遊び
そうやって築かれた世界はその文脈に慣れ親しんだ人にとっては先端的な「リアル」なのかもしれないけど、予備知識のない人にとってはガラクタとか宇宙人的な記号にすぎない
そういったものが普段我々が感じているモノや人、空気や触感、音や記憶と言えるのか?それは画家とそのサークルのルールに慣れ親しんだ人たちだけのリアルなのではないか?
本質的な部分を記号的に拡大し、「記号×記号」って感じで抽象な世界を拡げていくとその意味世界にとらわれるようになってしまう。サークル内用語というかジャーゴンというかそういう問題。
それはリアルを越えたリアル(ハイパーリアル)ともいえるけど、それでは当初の目的である「リアリティを描く」というところからは遠のいてしまうのではないか?
我々が見ている世界は具象でありながら意味によるテンプレートで認識されている。つまり具象と抽象の中間
ハンマースホイはその中間っぽい。抽象派よりは先だったので抽象的な手法に対抗してというわけではないのだけれど
われわれがモノや人を認識するときにはただ見ているだけではそのモノ(者)をそれとして認識することはできない。ストックしてある意味世界(スキーマ)にアクセスすることで世界は始めて色を持ち、そのもの(あるいは「あれ以外のもの」)として認識できるようになる。
この辺みると分かるのかな
分裂病の少女の手記【改訂版】:みすず書房
http://www.msz.co.jp/book/detail/02341.html
ハンマースホイはその中間、抽象表現を意識しつつもそこに逃げず(過度に抽象に遊ばず)に具象的な表現の中で抽象的なもの、事象の本質的なものを表そうとしている、と感じた。んでもそれはこのときの興奮も手伝ってということだったのかもしれない。
ちょっと好きになると過剰に相手を評価したくなる的なアレ。
なのでそこまでのものではなかったのかもしれないけど、そういう可能性もあるなぁというか、少なくともそのときにそこまで想像を膨らませる材料になってくれた。
で、以下は上記の線に沿った彼の作品の謎解き
彼の絵が顔を描かないようにしていた時期があったのは人を描写するときに見た目の義体にとらわれないようにするために思える。顔は表面的な情報の集積地だし
「義体」というのがわかりにくいかもだけどこれは攻殻機動隊用語で機械でできた代えの体ぐらいの意味合い。オレも体は物質的で表面的なものに過ぎないと思ってるので「体=義体」的感覚がある。
「顔は情報の集積地」というのは経験的に分かることだと思う。顔がすべてではないけど身体の中でもっともその人の人となり(あるいは生きられた経験)が分かるのが顔のように思う。
しかし「顔」というのは同時に美醜の価値観が投影されるところなので顔にとらわれすぎてるとそのひとの本質が分からないだろうなぁ、という話。
なので顔を消す
んでも足りなくて人を消した状態まで行き着く。人がいない状態で人の痕跡を表そうと(そこに人を同定するときのよすががあるので
そうこうしつつ自然やモノ自体の空気感、全体的なリアリティを表そうとしていく。んでそこで得たものを肖像というか人物画に応用していく
手法にとらわれそれが前景色化しすぎないように。画家の自己満足にならないように(依頼ものなのであまり遊ばず写実ってのもあったかもだけど
「前景色化」というのは「前のほうに来てそれのみがスポットライト浴びて目立つぐらい」の意味で。「顔を消している」とか「後姿」とかそういったものは本質をよりうまくとらえるための工夫でありデフォルメ(写実の解体+本質的特長のクローズアップ)であるわけだけど、デフォルメ的表現への評価が高まってそれに応えてるうちに自分がその表現に囚われてしまわないように(記号遊びに終わらないように)。
妻であるイーダの肖像はそうやって得た経験、手法の総合的なものだった。写実でありながら写真的な写実以外のもの(時間や記憶)を表現。酷薄なまでな写実にしつつもそれが露悪的にならないように
イーダの肖像というのはこんな感じ
http://nunocha.exblog.jp/9864260/
遠目でわかりにくいかもなんだけど年をとったほうのイーダの肖像は目の下のクマとか血管、首のしわ、特に梳かしていない髪の様子といった老衰や生活の疲れのようなものをそのまま写し撮っている。そういうのは女性にとって隠したい部分だと思うんだけどそのままに。
あと目の表情。すこし冷めた夫婦であるような印象を受けるんだけど、でもこれが日常というか、ほんとにふつーなんだろうなぁ。
出展用に愛とか美とかで演出するのではなくあくまでもふだんの生活の空気感であり温度のようなものを表現したのか、と思った。これを見てるとイーダとハンマースホイの会話のテンションなんかも想像できるし。
で、そういったリアリティを意図的に表現する場合、「疲れ」とか「経年」などをクローズアップしすぎて、場合によっては露悪的ともいえるぐらい過剰になってしまうこともあるように思うのだけど、この作品ではそういった欲が統制されていたように思った。
それまでの肖像のように実験的な要素もなく、それまでつかんだ手法で必要なものだけを最小限選択してつくられた表現。
それで肖像についてはこの作品で完成したように思ったんだけど
その後モノや光、環境全体の中でどのように人間存在は影響を受け調和していくか、ということを追って行ってたような…同じ構図だけど時間が違ったり、それ以外にも存在を構成すると思われる要素が変えられていた
暗がりの中での表現とか、遠近法とか光の加減とかをもうちょっときちんととらえて表現できないか、とか。そういうことを思っていたように感じた。
風景画についてはゲントフキ湖の天気雨を描けた時点で完成か、と。あの曇り空の中での光と影の質感、風の感じは出せないよなぁ。。あと、「われわれのリアリティというのは輝くような光でもなくかといって真摯なまでの闇というわけでもない。その中間」、的なことを感じさせた。
それで、こういった作品解釈とは別のところで個人的にちょっと感じるところがあってすこし涙が出た。「イーダの孤独」ということ。
「イーダの肖像」でこの夫妻の生活がなんとなく想像できたんだけど、冷め切った夫婦関係の中でその後もモデルとしてのみ利用されていく(それを許容する)イーダの気持ちってどんなだったんだろう?って思って。
というよりも普段の生活のなかでイーダはあの部屋から出ることがあったのだろうか?とても限定された自由だったんじゃないか?とかそういう…。
そんなのあの時代の女性の大部分がそうだったわけだしふつーのことなのだろうけど。そして「冷め切った」というわけでもなくことさらに不幸なわけでもない、ふつうの夫婦のあり方としてあるものだとも思うんだけど、一度そういう風に思ってしまったらなんだか勝手に想像が膨らんで泣けてきてしまった。
そんなことを思ったのでした
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