2008年10月13日

吉本隆明、1982、「<反核>異論」

ちょっと前に読んだ小熊さんの本の吉本まとめに違和感があったので吉本隆明の「反核異論」再読してみた。


「反核」異論 (1983年)
「反核」異論 (1983年)
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吉本 隆明
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違和感というのは小熊本では吉本をして戦争の影響で教養をつめなかったはねっ返り世代(前の世代へのクレーマー)的にまとめていたような印象があったんだけどそれだけでもないんじゃないかなぁ、と。

吉本の一個前の世代というと丸山真男辺りが代表的なものになるのだろうけど、丸山真男などが「社会的コミットによって正しさを再構築する」ってちょっとガチガチな感じで行っちゃったのに対して、「社会ってのは"正しさ”だけじゃないんだぜ?」的なオルタナとなったのが吉本たちだったんじゃないかなぁと思って。


「社会」というか「大衆」への視線といったほうがいいか。


正しさのフィクション - 論理的、理性的につめていくと「正しさ」的に硬直したりタテマエ-教条的になるところがあるけどそゆの回避して嗅覚でホンネみつけてくるっていうか。


大衆への視線ということだと鶴見も含まれるのだろうけど鶴見が(ハイカルチャー的なものに対する)大衆的なものを民主主義的な可能性として見ていたのに対して、吉本は大衆的な集合の暴力性のほうを問題としていたみたい。大衆のイナゴ的側面というか、民主主義のフィクション的な面というか…。

そんで、そういったものを問題としつつも否定せずそれをそういうものとして是認するというか…。まぁ、とりあえず、「社会ってのはそんなにキレイゴトばっかじゃないんだぜ」的に



吉本についてはそんなことを感じていたので小熊のまとめはちょっと違和感があった。そんでなんでこの本かっていうとfinalventさんとこでおぬぬめだったので


吉本隆明に教わったことは多いが - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060729/1154130638



んでまぁ内容なんだけど



当時の代表的平和運動である反核運動への批判は吉本的なコミットメントのない言説(泥をかぶらない場所からの言説)への批判って感じなんだけど改めてみてみるとほんとtwitterとかblogとかでたまにみる名指しdisみたいな過剰さで「だいじょぶかこの人?」って感じだった。

んでもいってることは正論。


(1)反核なひとたちはアメリカは批判するのにどうしてソ連は批判しないんですか?
(2)反核運動、反米運動を隠れ蓑にポーランド運動を見捨てることを正当化してるんじゃないですか?
(3)この時機に平和だけで理念的運動したって却って戦乱を招くんじゃないですか?(軍需物資の生産を停止すればそれに依存している国家は崩壊し戦乱を招く)


特に(3)関連の<三つのG>批判だと当時(82年)まだEUなんかもできてなかったころだけど汎欧州主義的なものを警戒してたし…。つか、このじじぃ英語読めないくせに「わたしが調べたところだとヨーロッパのそれと日本の平和運動のそれとでは事象に対するニュアンスが違う」ってどうやったんだろ?

いまだったら世界経済的なバランスも加味してうにうに読んだりするのかなぁ…。でも、当時の平和運動派に対する吉本のコンプレックスがここまでのポテンシャルを発揮させたのかもしれないのでびみょーといえばびみょーなんだろうけど。



とりあえず理性とか論理とかな「正しさ」一辺倒だと折れやすいんだろうからこういう生活の実感的なオルタナな部分も含めて考えていく必要があるだろうな、とか思った


posted by m_um_u at 09:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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