2008年08月02日

リアリティ・トランジット (サバイブ時代のリアリティって?)

 子供の頃、太陽は、今よりカッと黄色くデカかった。家の前には、親父の作った朽ちたバギー。家のまわりは、林を造成した荒地が延々と広がり、巨大な木の根っこが、ゴロッと転がる。足元には、無数の蟻が慌しく走り回る。 陽炎。 焼けてヒビ割れたアスファルトの匂い。虫やカエルやヘビ達が、そこかしこにこびりつき、身を焦がす。 日曜の炎天下、大人達の監視も法も無く、ただ、太陽と無秩序と死があった。 僕は、そこが好きだった。

(木城ゆきと、「銃夢 6巻」)






「不可能性の時代」を読んでて


不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))
大沢 真幸
岩波書店
売り上げランキング: 3001
おすすめ度の平均: 3.5
5 偶有性の隠蔽としての第三者の審級
3 頬張りすぎた肉片?
5 まさしく天才だ。
3 細部にこだわらず
4 「不可能性の時代」の表徴都市はアキバ



それ関連でログとりエントリってか、思ったことをつらつらとつぶやいたのをもうちょっと明確にして反省しとこうかなぁ、と


むーたん - 不可能性の時代 あるいはネタベタ時代のサバイブ論(仮)



klovのエントリにもあるんだけど


我々は何を隠してきたのか、あるいは「不可能性」の変遷 - No Hedge!


「不可能性の時代」という本はかつて見田宗介が示した時代区分に沿って戦後日本を「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」と分けたもの。「現実はその反現実により構成される」ということで「現実」の対義語になりそうな言葉(「理想」「夢」「虚構」)を挙げ、それぞれを戦後の代表的な時代変化に対応させている。

ほんとは「理想の時代(1945-60) - 夢の時代(1960-75) - 虚構の時代(1975-90)」って区分だったけど大澤的に「夢と虚構って虚構一本でいいじゃん」ってことでまとめられてる。

それぞれの時代の特徴をすげーおーざっぱにいうと、「理想の時代」というのは敗戦直後、超越論的進級が「天皇」から「ブツヨク(その果てとしてのアメリカ型生活)」へとシフトしていった時代。「虚構の時代」というのはモノ的なものが定着してその上に物語(フィクション)的テンプレートが張られていった時代。まぁバブル期までの日本的ケーザイ成長とリアリティの変化って感じ。「不可能性の時代」というのはブツヨクも虚構も極まっちゃったんだけど極まって複雑化したがゆえに満たされない実存が行き場を失ってパンクする(不可能性にブチ当たる)っていう時代。


東浩紀や木原善彦が、大澤の(元は見田宗介の)命名法を援用して「理想の時代」「虚構の時代」に続く現代を「動物の時代」「現実の時代」と名づけていた。だがそもそもこの見田―大澤の「〜の時代」という命名法は「現実」の対義語としてどのような言葉が参照されているか、という考察に基づいているものであり、その考察を省略した命名法はオリジナルの意図には反するものである。(東については大澤との対談で直接指摘されていたようだ。)

大澤は、隠された「現実」を捜し求める「現実への逃避」と、ジジェクのいう「カフェイン抜きのコーヒー」のような徹底した形式への没入という「極端な虚構化」に現代社会が引き裂かれている、と指摘する。

生々しく、時に暴力的な「現実」への欲望と、コーティングされ、美しく安全な「虚構」への耽溺。これら二つの相反するベクトルが同居する現代社会は、つまるところそのどちらの視座にも捉えられない、<現実>を隠蔽しているのではないか、と彼は述べる。現実にも虚構にも捉えられぬ<現実>は、その名のとおり名状しがたい「不可能なもの」である。大澤はここから「虚構の時代」に続く現代を「不可能性の時代」と名づける。



「不可能性の時代」ではふだんは虚構で覆われている心地よい虚構があるときむき出しの現実となって襲い掛かってくるそのときのギャップっていうか、むき出しならまだいいんだけどなんか複雑に意味が絡まっているがゆえに対抗できなくなって立ちすくむというような状況が生まれる。

まだ読んでる途中なので具体的な例が出てたかわかんないんだけど、このギャップってのは映画「マトリックス」における現実の裂け目(「あ、デジャヴュだ」)的なものを彷彿とさせたり、あるいはこの辺とか


極東ブログ: 過去のメディアが今のメディアと競合する時代


 小林信彦がテレビの戦争ドラマのリアリティがおかしくなっているということを以前時折触れていたが、もう触れるのもイヤになってしまったみたいだが、映像や物語で語られる戦争のリアリティの質感がどっかで根本的に違ってしまって、ちょっと偽悪的にいうと、そこで提出されるイデオロギーのリアルな希求がリアリティに置き換わってしまった。たとえば、戦争の悲惨を理解することがリアルな映像なのだというか。でも、本当の映像というのは、たえず各種のイデオロギーというかそういう理解を裏切る雑音的な要素があるものだった。リアルなものというのは物語を否定しちゃう矛盾を持っているもので、ある微妙な「おかしみ」というのか変な日本語だけど、いや別にナショナリストでも戦争賛美でも否定でもないけど、春風宇亭柳昇のラッパの話は面白いなあみたいな部分があるものだった。


 しいていうと、古い建物のすえた臭いのなかに、本当の歴史の感覚がすると感じることはある。自分が生体として生きて来た時間の、もっとも原初的なリアリティのなかでしか戻らないものなんだろうか。



こういうのは「Always 三丁目の夕日」で描かれていた超現実(虚構としての過去)への違和感と似てる。「あのころの現実ってのはもっとサツバツとしてたよね」的な(あるいは「匂いがあったよね」って感じの



そんでそれぞれの時代というかその限界を代表するようにショッキングな事件が起こっているわけで具体的には永山則夫事件、宮崎勤事件、サカキバラ事件なんかが挙げられていた。それぞれ「理想(ブツヨク)」「虚構」「不可能性」の時代に対応する。

永山則夫の事件はブツヨクとそれに対する窮乏(モノ的窮乏)から生じたってのは分かる。宮崎勤ら辺りもおーざっぱにいえば家庭環境+虚構のねじれみたいな感じ。サカキバラ事件でちょっと立ち止まる。「なにひとつ不自由ないはずだったのになぜこんな事件起こしたの?」、と。これに対して前述した「不可能性」という言葉が響いてくる。

(まだ読んでる途中なのでおーざっぱにいうと)ブツヨク(リアル)にも虚構(フィクション)にも完全な形で構築された現実の中で「他者性」が失われていく感覚、失われた「他者性」を取り戻すために構築された現実を過剰な力によって引き裂こうとする衝動。 (cf.「蓋然性を突破するんだ!」 W.ギブスン

サカキバラ事件というのはそういったものとして扱われている。


この辺の「ぬるい現実による檻」、「飽食の時代のサバイブ」って話では「平坦な戦場で生き残ること」っていう例のアレを思い出す


リバーズ・エッジ (Wonderland comics)
岡崎 京子
宝島社
おすすめ度の平均: 5.0
5 買いです。
5 平坦な戦場―その場所、その敵と何か?
5 乾いた世界
5 I really hope your come-back!
5 90年代のリアリティ



ここで引用されている「平坦な戦場で生き残ること」って言葉もW.ギブスンなわけだけど、ではそういった流れ、「ブツヨク的憧憬」→「虚構への(自覚的)耽溺」→「その2つを否定することで薄い蓋然性を取り払おうとする欲求」という流れがあるとしてアキバ事件というのはどのように位置づけられるのか。

某所では「永山則夫事件を髣髴とさせる」とか「格差社会の象徴だ」的な言われ方がしたわけだけどそれだけでもないように思う。アキバという場も絡んでたわけだし。

ここであの事件の内実について上記のフレームから触れていくことは本意ではないので控えるけど、ブツヨク的な問題と虚構的な問題の狭間って感じがする。てか、承認うんぬん的に他者を意識して視野狭窄してたようなのでサカキバラ事件からの流れとも違うような。(サカキバラ事件は周りに「他者」を感じられなかったために過剰な暴力性によって現実に風穴を開けようとした事件としてとらえられる)

そういう意味ではアキバ事件というのは先祖返り的な感じがしてるんだけどこれを単なる時代逆行としてとらえて良いのか、という感じもする。ここで「時代逆行」という言葉を使うのは語弊があるしなんか嫌な気持ちなのでもうちょっと慎重にしたいんだけど、反現実的なもののティッピングポイントとして各事件をとらえたときアキバ事件を動機を構成する要素というのはちょっとの虚構とブツヨク(その元としての他者を意識した欲望)ってことで「不可能性の時代」の事件としては先祖返り的な感じ。だってそれはまだ「不可能」な膜で覆われてなくて目の前にある現実だもの。リアルに触れてhackできる現実ってことで「不可能」って感じはしない。

「折り返し地点を過ぎてちょっと戻った地点が同じに見える」って話なのかなぁ。。




          ← 「虚構」

「折り返し」


          「現実+虚構2.0」→



で進んでる方向は違うんだけど傍から見ると同じに見えるというような。あるいは(こういう言い方もなんなんだけど)かつてなら事件をおこさなかったような凡庸な人間にも事件を起こすだけの契機ができてしまったようなそういう時代に突入してしまったのか。データベースは完成されていてそこからやり方を踏襲すればいいわけだし。(「無反省な形式の踏襲」

そこまで深刻な感じもしないんだけど、あの事件をいままでの時代の流れ(事件の系譜)にのっけて考えるとそんなことを思ってしまう。

つか、それ以前に不景気って要素も大きいのだろうけど



ベタがネタになってネタがメタになりそれらの総体がベタになっていく過程…

すなわち現実の対照としての反現実のモードがモノ的な理想から虚構へ、虚構から虚構の虚構へと相対化 → 形式化していきそういったことがベタ(基層的なリアリティ)

それをベクトルが変わっただけの反転ととるか、それとも折り返し地点を行き過ぎたところで生じた新たなモードとして捉えるか…。




「反省なき無反省」「表層化した形式の踏襲」ということではこの辺を絡めつつたけしのフライデー襲撃についてうにうにしたく思ったけど


muse-A-muse 2nd: 終わる(?)日本の占いズム


なんか長くなって疲れたのでそれは次のエントリで


posted by m_um_u at 19:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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