2017年07月20日

朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった


朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった。帰納ではなく



自由論 (光文社古典新訳文庫) -
自由論 (光文社古典新訳文庫) -

引用箇所の要、文脈としては「言論の自由とはなにか?」→「反対意見に対して開かれていることである」「それらはしばしば少数意見である」「少数意見がたいせつなのは、少数意見だから、とか、大勢が間違ってる中で少数意見は正しいことを伝えようとしているから、とかではなく、大勢の意見にしても少数の意見にしてもその時代・環境において特殊なもので後世から見れば正されるものである可能性があるからである。それらは後世、あるいは暫時的に修正されるためにその時点でできるだけ開かれたギロンの可能性を遺しておかなければならない」というもの。繰り返しになるけど、それらの考えが「正しい」からではなく「間違ってるかもしれない」ので多様な意見の可能性を残しておく必要があり言論・表現の自由は担保される。
そういった考えが暫時的な、あるいは不断の修正を要するものであるのに対して、数学のようなものはそれまでにできあがった一定の公理にもとづいて思考を組み立てていくところがある。すなわち演繹的。演繹と帰納の違い。



帰納的、すなわち一定の事象を根拠にいちから思考をつむぎそのうえで一定の(自分なりの、あるいは蓋然的な)公理に達する、のではなく、帰納的につくられた公理を所与の前提として思考やギロンを組み合わせていく、みたいなの。彼らのやり方を見てるとどうも彼らの主張の根拠とするもの(多くはPC(ポリティカル・コレクトネス)とされる倫理的な典範)の交換を通じて正当性を競っていく・ギロンして行くというの彼らなりのギロンのあり方だと思っているようで、その典範そのものの正当性を疑ったりギロンしたりする気もないみたい。まあなので中世あたりの盲目的なカトリックに近い印象がある。その辺を指してE.トッドなんかはゾンビカトリシズムとかな用語をつくったのかなというところだけどこれはまた別の話。

まあとりあえず「彼らと話してると宗教の人と話してるみたいにギロンの埒が明かない」「あれは一種の宗教なのだ」というのはこういうところから来るのかなと改めて思ったのだけど。そういうのはいわゆる「りべらる」のひとだけの特徴でもなくいわゆるフェミというか、急進的・本質的、あるいは初学的なフェミのひとにもある感じ。まあそれは彼女らがそういったりべらりずむの初学的なものだけをかじってるからかなと思うのだけど。根本から疑い再構築しようとするのではなく。

そういうのに加えて、最近改めて思ったのはこういった人たちはちょっとの言葉尻や表現でみょーに発火するのだなあ、ということ。自分の感覚が一般的なのかというとびみょーなところはあるだろうけど、一般的に見て看過できそうな表現や発言を一部だけ切り取ってみょーに「いかんだろ!」するやり口が見られる。そして「いかんだろ!」してるうちに自分たちがその「いかんだろ!」なオラショにとりこまれてどんどんヒートアップしていくマッチポンプ。少しまえにとりあげた漫画雑誌のチョイエロ表現にしてもそうだけど、ああいうのもふつーに雑誌を見てる限りは「パンチララッキー程度の読者サービスカットなのだなあ(巻頭カラーだし)」ぐらいで済ませるものだと思うのだけどみょーに取り沙汰す。あるいは、その表現自体はたいしたことない、というのを前提にしてる体はしつつも「その背後に無意識の構造がー」とか言い出す。なんだその亜フロイト流文学批評みたいなの?という感じの。60年代ぐらいにスーザンに「アホか」忖度されてたものだったのだけどそういうのは。。

反解釈 (ちくま学芸文庫) -
反解釈 (ちくま学芸文庫) -


話は戻って「一部だけ切り取ってみょーに発火する」な人々について。そういう「一部を切り取って」というやり方は特にネット的なやり方なのかなあという印象はある。あるいはTwitter的といってもいい。Twitterなんかは各発言にパーマリンクがあることがこういった場合には却って災いしてひとつの発言だけ文脈切除されて揚げ足とりされたりする。下の方でリンク貼っておくけど直近だと為末さんとか今井絵理子さんのなんかが印象的だった。あるいは上西小百合とかいう議員のひとの発言とか。

上西小百合議員の発言にサッカーファンが激怒「政界引退」も検討か - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13354264/

自分はこの人のことよく知らないでそれまでどのような発言や行動をし、どういった印象がついてきた人なのかよくわからないのでそういった先有傾向からの印象はないのだけど、やり玉に挙げられた問題発言というのは「サッカーの応援してるだけのくせに、なんかヤった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」というものだった。それ以前に浦和レッズの試合を観戦しててそのあまりの不甲斐なさを嘆いていたら浦和ファンとTwitter上で衝突してたみたいだけど。自分的には該当発言を見ていちお文脈確認すべく上西議員のTwitterホームに飛んで問題となったtwの周辺を見てみた。そのときの印象としてはサッカー選手とやり取りをしていてこれから先なにか具体的な仕組みをつくっていってサッカー振興に役立てていくみたいなことをいっていた。「サッカーの応援してるだけのくせに」というのはこの辺を受けてのものだったのかなあという印象で、単に負けの不甲斐なさをなじるだけとか負けても傷のなめ合いみたいなキレイゴトばっかいうだけで進展のない様子にやきもきしたのかなあみたいな感じ。あと、Twitter独特の煽り合いみたいなのでイライラしてたのもあったのだろうけど。そのへんはまあ性格的に「煽り耐性がない」とかいうことになるのかとか思ったりもする(某首相の街頭演説への辛辣な評価も含めて)。


今井絵理子議員のものなんかRTとかで飛んできたので問題発言なの?ってみにいったときには確かに該当の一連twは曖昧で嗚呼…ってかんじだったのだけど別件で為末さんのところみにいったら彼女の息子さんが難聴の障碍抱えてて、それもあって障碍支援的なところでやっていこうとおもってるんだって記事がリンクしてあった。「そういう立ち位置から多様性がどうとかな発言になるのかなあ」「まあいきなり障害者用に具体的なお金の算段とか施設の算段とか引き出し難く、とりあえず『世間的なやさしさ』みたいなのに乗っけてく言葉で囲い込んでく必要があるもんなあ。。『多様性』とか『社会的包摂』とかなPC用語というか」とかは思ったのだけど、ソレとは別に蓮舫さんの二重国籍にそれを絡めるのは我田引水すぎるだろうしピンぼけだなあとはやはり思うのだけど。「違った人、マイノリティにもやさしい社会を」以前にふつーに国籍法の不備をいぢればいいだけなのだろうし。


為末さんもなんか問題発言したらしく為末さんのTwitterホームを見に行ったら該当発言周辺でデキていた文脈を切除して炎上元となった発言だけをPC的に問題ダーしてる人ばっかな感じだった。該当発言は一見すると障害者排除的なネオリベ発想?みたいに見られるのだけど文脈的には「理想としては弱者保護→それを支える保険があって良いと思うけど、現実的にそればっかだとお金たりないので働ける人は働いた方が良い」系の話をしてると思えた。理想と現実に生きていく(資本主義競争社会の中で「やっていく」)ということは違い、彼の「認識」「気持ち」としては後者のスタンスの方が良いと思ってる、というのは競技者としてやってきた彼らしい考えだなと言う感じ。

今井さんにしても為末さんにしても、理想論は知っていつつ現実的に何らかの問題に取り組むと理想だけではうまくいかないので苦言とかエクスキューズをすると理想論教条主義者たちから文脈切除されて■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノとされる構図、だし、彼らは該当発言の文脈そのものも拾おうとしない(該当発言がどういう経緯からなされたのかを発言者のTwitterホームに見に行く程度の労力も払わない)のは確かなのだった。そういった意味でリテラシー的にどうなの?というのは初歩的なこととして思うのだけど、まあ彼らにしてみれば単にそれをマキにして騒ぎたいだけなのかもしれないから発言元の正確な理解とかはどうでもいいのかもしれない。ネットでよくあるテレビなんかの発言を都合よくコラージュして並べて立てるだけのあれにも似てる。


そういうサンプルとしてついですると、少しまえに騒がれてまだチロチロと狐火してるジャンプのラッキースケベ表現についても、当事者とされる発端の二人としてはわりと終わった問題になってるようだった。当該弁護士さんがRTされていた「例の表現はジャンプ以外のほかの雑誌で見るとなんともないんだよねー」みたいなtwはまさにソレで、「(ヽ´ω`)…ジャンプ以外だと問題にならないってことはその表現自体の是非をうんたらしてる薄フェミ界隈のギロンそのものがそもそも無効ってことじゃん」とか思わせるわけで。。ここでも「まあ彼女たちとしては元の発言の真意とかはどうでもよくて、たんにそれをネタ・マキにしてキャンプファイアーしたいだけなのだろうなあ」とか思わされたのであった。



冒頭の演繹の話に戻って概観すると、彼らは既存のPC典範を公理とし、自身の倫理や良心を掛け金とすることで公理カードの交換ゲームをしていくわけだけど、そのゲームの中で定められた型から出ないゲーム的なやり取り・モラルハラスメント合戦であるため根本的な倫理の問題や、問題自体の解決ということには思考があまり向かない、ということ。なので彼らの話題と関心は自分たちの都合の良いように視野狭窄的に編集されて伝聞されていくし、一つの話題を燃やし消化してしまうと(その問題は解決していないのに)次の話題に移りまたキャンプファイアーを愉しむ。根本的に思考するということがなくモラルをかけたゲームとしてソレを楽しんでるに過ぎないということ。あるいは自身がゲームのつもりでやってなくてもそういう態度で望んでるうちにそういったゲームに巻き込まれているということなのだろう。


こういったやり方は特にPCを介するようになって顕著になったのかなあ / 日本でPCがうんたらされだしたのはグローバリゼーションの影響が本格化した後期近代以降、すなわちプラザ合意を端緒とし、それがグローバリゼーション → ネオ・リベラル的な社会保障度外視でキツキツの企業倫理とノルマを説いていくのがふつーになった00年代以降あたりからなのかなあと想ったりもするのだけど、単にネットでのやりとりというのがその程度のモラル揚げ足取り的な型になりやすいと言うだけなのかなとも思ったりもする。特に後者の場合、PCとかりべらるとか関係なくネトウヨとかも似たようなことヤってて馬鹿って話なのだけど。


スピンアウト的に、元来、絶対核家族のエートスであった自由主義の典範であるとおもわれるPCがみょーに布教されたのは、トッドがいうようにアングロサクソン系がグローバルスタンダードになってしまったことからの片手落ちともいえるのだろうけど、初期には異なった家族系、異なった民族・人種間で無益な衝突が起きないようにライシテ的に設定されていたのではないかPCというのは?ソレがいつの間にかネタがベタ的に「PCを守らなければならない!」ってそれ自体が権力になっていって辟易されてるのでは?と思ったりもしたのだけど、このへんはまた別の課題として(誰か調べてるのかもしれないけどよくわからない)。



(ラブドールを家庭に連れ込んだ男性についてももうちょっと詳細に書いとこうかと思ったけどだいたいtwったからいいやもう。。構図としては同じだし)

































































posted by m_um_u at 22:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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