2017年07月20日

朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった


朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった。帰納ではなく



自由論 (光文社古典新訳文庫) -
自由論 (光文社古典新訳文庫) -

引用箇所の要、文脈としては「言論の自由とはなにか?」→「反対意見に対して開かれていることである」「それらはしばしば少数意見である」「少数意見がたいせつなのは、少数意見だから、とか、大勢が間違ってる中で少数意見は正しいことを伝えようとしているから、とかではなく、大勢の意見にしても少数の意見にしてもその時代・環境において特殊なもので後世から見れば正されるものである可能性があるからである。それらは後世、あるいは暫時的に修正されるためにその時点でできるだけ開かれたギロンの可能性を遺しておかなければならない」というもの。繰り返しになるけど、それらの考えが「正しい」からではなく「間違ってるかもしれない」ので多様な意見の可能性を残しておく必要があり言論・表現の自由は担保される。
そういった考えが暫時的な、あるいは不断の修正を要するものであるのに対して、数学のようなものはそれまでにできあがった一定の公理にもとづいて思考を組み立てていくところがある。すなわち演繹的。演繹と帰納の違い。



帰納的、すなわち一定の事象を根拠にいちから思考をつむぎそのうえで一定の(自分なりの、あるいは蓋然的な)公理に達する、のではなく、帰納的につくられた公理を所与の前提として思考やギロンを組み合わせていく、みたいなの。彼らのやり方を見てるとどうも彼らの主張の根拠とするもの(多くはPC(ポリティカル・コレクトネス)とされる倫理的な典範)の交換を通じて正当性を競っていく・ギロンして行くというの彼らなりのギロンのあり方だと思っているようで、その典範そのものの正当性を疑ったりギロンしたりする気もないみたい。まあなので中世あたりの盲目的なカトリックに近い印象がある。その辺を指してE.トッドなんかはゾンビカトリシズムとかな用語をつくったのかなというところだけどこれはまた別の話。

まあとりあえず「彼らと話してると宗教の人と話してるみたいにギロンの埒が明かない」「あれは一種の宗教なのだ」というのはこういうところから来るのかなと改めて思ったのだけど。そういうのはいわゆる「りべらる」のひとだけの特徴でもなくいわゆるフェミというか、急進的・本質的、あるいは初学的なフェミのひとにもある感じ。まあそれは彼女らがそういったりべらりずむの初学的なものだけをかじってるからかなと思うのだけど。根本から疑い再構築しようとするのではなく。

そういうのに加えて、最近改めて思ったのはこういった人たちはちょっとの言葉尻や表現でみょーに発火するのだなあ、ということ。自分の感覚が一般的なのかというとびみょーなところはあるだろうけど、一般的に見て看過できそうな表現や発言を一部だけ切り取ってみょーに「いかんだろ!」するやり口が見られる。そして「いかんだろ!」してるうちに自分たちがその「いかんだろ!」なオラショにとりこまれてどんどんヒートアップしていくマッチポンプ。少しまえにとりあげた漫画雑誌のチョイエロ表現にしてもそうだけど、ああいうのもふつーに雑誌を見てる限りは「パンチララッキー程度の読者サービスカットなのだなあ(巻頭カラーだし)」ぐらいで済ませるものだと思うのだけどみょーに取り沙汰す。あるいは、その表現自体はたいしたことない、というのを前提にしてる体はしつつも「その背後に無意識の構造がー」とか言い出す。なんだその亜フロイト流文学批評みたいなの?という感じの。60年代ぐらいにスーザンに「アホか」忖度されてたものだったのだけどそういうのは。。

反解釈 (ちくま学芸文庫) -
反解釈 (ちくま学芸文庫) -


話は戻って「一部だけ切り取ってみょーに発火する」な人々について。そういう「一部を切り取って」というやり方は特にネット的なやり方なのかなあという印象はある。あるいはTwitter的といってもいい。Twitterなんかは各発言にパーマリンクがあることがこういった場合には却って災いしてひとつの発言だけ文脈切除されて揚げ足とりされたりする。下の方でリンク貼っておくけど直近だと為末さんとか今井絵理子さんのなんかが印象的だった。あるいは上西小百合とかいう議員のひとの発言とか。

上西小百合議員の発言にサッカーファンが激怒「政界引退」も検討か - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13354264/

自分はこの人のことよく知らないでそれまでどのような発言や行動をし、どういった印象がついてきた人なのかよくわからないのでそういった先有傾向からの印象はないのだけど、やり玉に挙げられた問題発言というのは「サッカーの応援してるだけのくせに、なんかヤった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」というものだった。それ以前に浦和レッズの試合を観戦しててそのあまりの不甲斐なさを嘆いていたら浦和ファンとTwitter上で衝突してたみたいだけど。自分的には該当発言を見ていちお文脈確認すべく上西議員のTwitterホームに飛んで問題となったtwの周辺を見てみた。そのときの印象としてはサッカー選手とやり取りをしていてこれから先なにか具体的な仕組みをつくっていってサッカー振興に役立てていくみたいなことをいっていた。「サッカーの応援してるだけのくせに」というのはこの辺を受けてのものだったのかなあという印象で、単に負けの不甲斐なさをなじるだけとか負けても傷のなめ合いみたいなキレイゴトばっかいうだけで進展のない様子にやきもきしたのかなあみたいな感じ。あと、Twitter独特の煽り合いみたいなのでイライラしてたのもあったのだろうけど。そのへんはまあ性格的に「煽り耐性がない」とかいうことになるのかとか思ったりもする(某首相の街頭演説への辛辣な評価も含めて)。


今井絵理子議員のものなんかRTとかで飛んできたので問題発言なの?ってみにいったときには確かに該当の一連twは曖昧で嗚呼…ってかんじだったのだけど別件で為末さんのところみにいったら彼女の息子さんが難聴の障碍抱えてて、それもあって障碍支援的なところでやっていこうとおもってるんだって記事がリンクしてあった。「そういう立ち位置から多様性がどうとかな発言になるのかなあ」「まあいきなり障害者用に具体的なお金の算段とか施設の算段とか引き出し難く、とりあえず『世間的なやさしさ』みたいなのに乗っけてく言葉で囲い込んでく必要があるもんなあ。。『多様性』とか『社会的包摂』とかなPC用語というか」とかは思ったのだけど、ソレとは別に蓮舫さんの二重国籍にそれを絡めるのは我田引水すぎるだろうしピンぼけだなあとはやはり思うのだけど。「違った人、マイノリティにもやさしい社会を」以前にふつーに国籍法の不備をいぢればいいだけなのだろうし。


為末さんもなんか問題発言したらしく為末さんのTwitterホームを見に行ったら該当発言周辺でデキていた文脈を切除して炎上元となった発言だけをPC的に問題ダーしてる人ばっかな感じだった。該当発言は一見すると障害者排除的なネオリベ発想?みたいに見られるのだけど文脈的には「理想としては弱者保護→それを支える保険があって良いと思うけど、現実的にそればっかだとお金たりないので働ける人は働いた方が良い」系の話をしてると思えた。理想と現実に生きていく(資本主義競争社会の中で「やっていく」)ということは違い、彼の「認識」「気持ち」としては後者のスタンスの方が良いと思ってる、というのは競技者としてやってきた彼らしい考えだなと言う感じ。

今井さんにしても為末さんにしても、理想論は知っていつつ現実的に何らかの問題に取り組むと理想だけではうまくいかないので苦言とかエクスキューズをすると理想論教条主義者たちから文脈切除されて■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノとされる構図、だし、彼らは該当発言の文脈そのものも拾おうとしない(該当発言がどういう経緯からなされたのかを発言者のTwitterホームに見に行く程度の労力も払わない)のは確かなのだった。そういった意味でリテラシー的にどうなの?というのは初歩的なこととして思うのだけど、まあ彼らにしてみれば単にそれをマキにして騒ぎたいだけなのかもしれないから発言元の正確な理解とかはどうでもいいのかもしれない。ネットでよくあるテレビなんかの発言を都合よくコラージュして並べて立てるだけのあれにも似てる。


そういうサンプルとしてついですると、少しまえに騒がれてまだチロチロと狐火してるジャンプのラッキースケベ表現についても、当事者とされる発端の二人としてはわりと終わった問題になってるようだった。当該弁護士さんがRTされていた「例の表現はジャンプ以外のほかの雑誌で見るとなんともないんだよねー」みたいなtwはまさにソレで、「(ヽ´ω`)…ジャンプ以外だと問題にならないってことはその表現自体の是非をうんたらしてる薄フェミ界隈のギロンそのものがそもそも無効ってことじゃん」とか思わせるわけで。。ここでも「まあ彼女たちとしては元の発言の真意とかはどうでもよくて、たんにそれをネタ・マキにしてキャンプファイアーしたいだけなのだろうなあ」とか思わされたのであった。



冒頭の演繹の話に戻って概観すると、彼らは既存のPC典範を公理とし、自身の倫理や良心を掛け金とすることで公理カードの交換ゲームをしていくわけだけど、そのゲームの中で定められた型から出ないゲーム的なやり取り・モラルハラスメント合戦であるため根本的な倫理の問題や、問題自体の解決ということには思考があまり向かない、ということ。なので彼らの話題と関心は自分たちの都合の良いように視野狭窄的に編集されて伝聞されていくし、一つの話題を燃やし消化してしまうと(その問題は解決していないのに)次の話題に移りまたキャンプファイアーを愉しむ。根本的に思考するということがなくモラルをかけたゲームとしてソレを楽しんでるに過ぎないということ。あるいは自身がゲームのつもりでやってなくてもそういう態度で望んでるうちにそういったゲームに巻き込まれているということなのだろう。


こういったやり方は特にPCを介するようになって顕著になったのかなあ / 日本でPCがうんたらされだしたのはグローバリゼーションの影響が本格化した後期近代以降、すなわちプラザ合意を端緒とし、それがグローバリゼーション → ネオ・リベラル的な社会保障度外視でキツキツの企業倫理とノルマを説いていくのがふつーになった00年代以降あたりからなのかなあと想ったりもするのだけど、単にネットでのやりとりというのがその程度のモラル揚げ足取り的な型になりやすいと言うだけなのかなとも思ったりもする。特に後者の場合、PCとかりべらるとか関係なくネトウヨとかも似たようなことヤってて馬鹿って話なのだけど。


スピンアウト的に、元来、絶対核家族のエートスであった自由主義の典範であるとおもわれるPCがみょーに布教されたのは、トッドがいうようにアングロサクソン系がグローバルスタンダードになってしまったことからの片手落ちともいえるのだろうけど、初期には異なった家族系、異なった民族・人種間で無益な衝突が起きないようにライシテ的に設定されていたのではないかPCというのは?ソレがいつの間にかネタがベタ的に「PCを守らなければならない!」ってそれ自体が権力になっていって辟易されてるのでは?と思ったりもしたのだけど、このへんはまた別の課題として(誰か調べてるのかもしれないけどよくわからない)。



(ラブドールを家庭に連れ込んだ男性についてももうちょっと詳細に書いとこうかと思ったけどだいたいtwったからいいやもう。。構図としては同じだし)

































































posted by m_um_u at 22:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2017年07月14日

あれは彼女たちにとってはアレルギー反応のようなものなのかもなあ。。


朝に「バッドフェミニスト」を読み進めてなんとなく「昨日の対フェミ(ぽい人ら)嫌味みたいなのは言い過ぎたかなあ。。」とかおもって反省。ロクサーヌ・ゲイなんかがいってることだとそれなりに立ち止まって考えてみようと思うのに彼女らが言うことだとどうも言い過ぎに思えて言い過ぎで答えてしまうのはなんでなのかなと内省してみた。コインランドリー待ち時間をドラッグストアの買い物でつぶしつつ。

直感的に「彼女たちの訴えはアレルギー反応みたいなものなのかかなあ」と。一つ前のエントリで彼らのPCは宗教的なものなのかもしれないという話をしたけどアナロジーとしてはアレルギー反応のほうが近いのかもしれない。それだとライシテよりもわかりやすく一般社会からも線引しやすそうだし。食品などの成分表示よろしくコンテンツに「この作品には女性差別、恋愛、異民族が含まれてません」みたいなのを表示する。まあそういうのはなかなか分け難くさらに物議をかもしそうだけど恋愛とか異民族みたいなところだとなんとなく分かるようにはなってるか。その作品を見る前から。「女性差別は含まれてません」とかいっても作った当人はそのつもりはなくてもナチュラルに差別してるかもだからこの辺はわかりにくい。もっと中立的な成分要素があれば良いのかなとかは思う。たとえばピンク色、とか?いわゆるダサピンク的なあれ。まああれも過剰反応な向きがあるように思ってるのだけど。ネットの話題と関心的に。


ともあれ、彼女たちが女性の権利を侵害してる― セクハラだ―って一定の表現についていうとき、その表現に対して特になんとも思ってない / ちょっとはまずいかなーとおもいつつもスルーしてる人たちというのは食品において人工甘味料やらアレルギー物質に対してだいじょうぶなのと同じなのかなーと。まあ自分のことなのだけど。ちなみに人工甘味料は苦手。なのでアルコール9%系チューハイはどれも口に合わない。ざんねんなことに。
対して、一定の表現に過剰反応してしまう人たちはその表現に対してなにか過去になにかがあったりとか、あるいは最近の世間や女性同権的な教育の影響やらがトリガーになって敏感に反応するようになってるのかなーとか思う。後者の方はちょっとマッチポンプにも思えるのだけど、前者の方は自身の経験やら体質に基づくのだろうからどうしようもなさはあるのだろう。体質っていうか心の質っていうか、まあ性的トラウマやら発達段階での経験の記憶が元になったり?

「バッドフェミニスト」の叙述はまさにそれで、ゲイがまだティーンの頃に集団レイプされたことが語られていた。いわゆるデートレイプ的な。彼に「嫌われたくない」ためにそんなに好きでもない性行為をしているうちに彼の仲間にもそれをしてくれと要請され、断ったけど密室空間だったのでなし崩しに、というような。しばらくして学校に行くとそれは自分の「アバズレ」のせいだと吹聴されていた。自分から求めてやったものだ、と。

そういう過去がある人の場合どうしても過敏に反応するようになるだろうしその戦いを続けることで自身を保っていけるところもあるのだと思う。



ゲイのそういう過去と語りを聞いていると彼女の敏感にも耳を傾ける気になる。自分はその部分について特にそこまで思わないけど?とおもってもそういうのでアレルギー反応が出てしまう人がいるなら気を使っていこうという気に。なので、そういうので(彼女たちからすると)鈍感な人たちがわからないような性的侵犯な表現をしている―と叫ぶ時、たんに「世間的にただしいこと」の立ち位置からではなく、彼女たち自身の本当の痛み、そういうものをみたときにどうして痛いのか、嫌なのか?についての語りのようなものが聞けると違うのかなと思う。世間的に正しいからーというだけで頭ごなしにPC叫んでるだけだと単にそういうのをタテマエとして他者にマウントしたいだけの人たちなのかな?とも想えるので。

でも、そういう辛さや経験みたいなのもごく個人的なものだからいちいちカチンと来た表現などがあるたびに彼女たちにそういうものを告白せよというのも酷なものだなあと反省。そういった個人(プライバシー)の部分に触れずに済むように一般的なルールのようなものがあるのだよなーと。

んでもそういった「正しさ」を教条的・抽象的にやりとりしてるだけだと運用によっては「正しさ」だけにとらわれた暴力になるのだろうなーと二重国籍の件とファブリーズの件をみつつ想う。蓮舫氏の二重国籍の件だと仮想敵としてるネトウヨの言説に乗っかりそれへの反証を示すという態度を取ろうとしたのだけどその時点で仮想敵とするひとたらと同レベルの低俗に堕ちてしまった。ファブリーズの件も同様で、彼女たちが仮想敵?とする側の男性?側からの主張、「ファブリーズのCMでひどい扱いをうけてる男性の様子は看過されてるけどこれはセクハラにはならないんですか―?」に乗っかって彼女たちが自身に対してしているのと同じようなCM自体の内容分析から応えてみようとした。そのようにすれば、どうとりつくろっても、そのCM単体ではセクシャルハラスメントを含むものになるだろうけど。


ふたつとも教条的、セイギセイギにならずにきちんと人や経験、実際の痛みなんかをみつめ主張したほうがよいのではないかなーと改めて思ったのだった。










































バッド・フェミニスト -
バッド・フェミニスト -

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2017年07月12日

宗教、あるいは権威主義としてのりべらりずむ(あるいはネトウヨ)とライシテ


このブログ用にTwitterでの関連twを貼り付けたあとに蓮舫さん関連の話が多くなってしまいあとで編集しようかと思ったけどめんどくさくなったので割愛。端的には少しまえにあった東京都議選での民主党の大敗を受けて「誰かが責任を取らなきゃならない」「この機会に党首の二重国籍疑惑を払拭させよう」ということなのだけど。

民進党の迷走続く…蓮舫代表の資質を問う声はなお強く - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13325040/

まあ選挙の惨敗と党首の二重国籍は因果関係ないだろうから問題のすり替えのように思うのだけど。つまり政策で勝てない / 戦えなくなった民進党はもはや搦め手から求心していくしかなくなったのだけど、その際の「人気」という曖昧な要素に関わる部分に党首への疑惑があるとかなんとかしてるわけだけど本来なら政策で戦えばいいだけだから本末転倒感がある。よしんば搦め手(政局でありスキャンダルなどを介したポピュリズム)で戦うとしても、それを決断したのは党全体の意志だっただろうし直接の敗因は民進党の選挙対策委員会にあるはずだからそのあたりが責任を取れば良い話のはずだけど選挙対策委員長自らが党首の責任に話をすり替えてるみたい。まあこういうのの結果、党首が辞めるというのはよくあることだけど、そこに「党首が外人疑惑があるからだ―」て付け足したのは自分への責任追及逃れるためだったのかな―、と。民進党の内情をよくしらないのでわからないのだけど。形としては昔の学生運動のときのソーカツ的な内ゲバを思わせ正しくサヨク的ではあるのかなとか思ったりもする。単に皮肉だけど。

「こういうのも民進党内のまともな政策打てるグループが逃げ出したからかなあ」「蓮舫さんて見た目的には社民党とか女性党みたいなののほうが似合いそうだけど現在の民進党ってそういう系が強いんだったっけ?」「旧小沢グループとかどこいったんだろ?」「うわ…民進党になる際に維新の会とくっついたのか。。(お察し)」、みたいなことを思ったのだけど民進党の内情/構成について詳しくないので本質的なところがわかってない感はある。ちょっとそういうの知りたいなと思うも書籍では出てなさそう。自民党のは最近に中公新書から出ててそのうち読もうかと思ってるけど。

二重国籍疑惑、というか「民進党は売国奴だ―」みたいなネトウヨを中心とした?陰謀論みたいなのはけっこう前からあって、それに応ずる形でのソーカツだったのかなと想わせるも実際にそれをヤってしまうと認めたことになるんじゃないの?あるいは人身御供的に生け贄の乙女みたいなの捧げて手打ちみたいな。まあ乙女っていうのも変だけど。

そもそも外国人ガー国政に絡ンデーとかいっても未だ首相とか大臣にもなってないわけだから国政には絡んでないわけだし、よしんばそうなったとしても一個人としてここまで帰化してるわけだからスパイとかいうのも信じがたい。まあそれでもスパイ疑惑の反証とはならないのでそういった陰謀論疑惑が潰えないないひとには潰えないのだろうけど「どこまでやったらスパイって疑惑消えるんですかねえ?」みたいなことは思ったりする。

それとは逆に、こういったスパイ疑惑を否定する人たちがアメリカのロシアゲート疑惑を肯定的に捉えてトランプバーカバーカしてるのみるとダブスタぶりに(ヽ´ω`)てなる。まあ彼らからすると「国家に対するスパイ疑惑」「国家に対する外国からの組織的アタック」みたいなところが問題なのだけではなく「外国人として『差別』されてる」という人道主義的な見地?が焦点なのだろうけど。そもそもその外国人疑惑・批判的視線が国会議員≒内政に携わる → それが外国人だと内政干渉の可能性ガーてとこから生じてるのでわ?ていっても彼らには声は届かない。そして「日本人は帰化しても外国人は外人―てしていつまでも差別するんダー」てよくあるお題目みたいなのを唱え続けるのだ。ヒステリックに。その様子はちょうどこの季節だと夏の法事の集団読経のようにも想えるのだけど、よくある言い方からすると精神病棟のヒステリックな反応にも似てる。「Twitterは精神病棟に似てる」みたいなアレ。そして精神病棟の人たちのようにちょっとした不安が生じるとその不安を公正(穴埋め)するような題目を集団で唱え同調圧を強めていく。そこで理性的な意見(「それはちょっと違うのでわ?」)を唱えてもそもそもヒステリックな集団読経なので相手してもらえない。下手すると怒りに触れてクソリプを投げつけられまくる。集団読経してる人たちに茶々を入れるとこっぴどく叱られるように。


そういうのは彼らが平等主義・自由主義として掲げるりべらりずむ的な倫理題目が関わるところにはすべからく存在する。フェミニズム(女性平等運動)やら言論・表現の自由やら。そういった倫理は条件が整えば素晴らしいものだと思うし自分も大事/叶えていきたいとは思うのだけど、彼らはそれが一定の条件のもとに成立していることを考慮しない。あるいは「その条件が崩れているため整えるために声を発している」というのかもしれないけれど往々にして教条的にその倫理をお題目して唱えるのみの人たちはそのための条件の構築ということには無頓着だったりする。たとえば自分とは違った価値観や立場の人達との対話や交渉の余地がなかったり。それがなければ一定の条件のための下地も構築できないだろうけど。

そして彼らの一方通行の倫理の押し付けは暴力的に機能していく。セイギの暴力として。

あらためていうけど倫理とかのお題目の話以前に現実的でプラグマティックな環境の構築をきちんと考えてくれと言いたい。。あるいは以前じゃなくてもいいのですくなくとも並行して。そうしないと宗教倫理的なものの教条的な押し付けに過ぎない。


条件の話に戻ろう。

彼らからすると自由主義や平等主義というのは人類普遍のものに思っている / 思われているフシがあるのだけれどそういうこともない。「それが行き渡ってないのは遅れているからだよ」みたいな昔の西洋中心主義的な自由主義進歩史観に彼らは立ってるぽいところもあるけど。E.トッドなんかによると自由・平等主義というのは一定の家族系の共同体に相性のよいイデオロギーで、たとえば核家族的で個人主義的な絶対核家族たるアングロサクソン系の価値観として作られてきた。大家族的な価値観だと老人とかの教えを理性ではなく権威的(パターナリスティック)に踏襲していく傾向があるだろうけど絶対核家族の場合そういう必要もなかったので自由主義や個人主義が根付いていったのかもしれない。ちなみに家族系としては大家族系のほうが比較的新しい家族系のようだけど。

そういった家族系が下部構造となった上部構造が自由主義なわけだけどそれがアングロサクソンの覇権によってグローバルスタンダードのように錯覚されていった、みたいなことをトッドはいってたような気がする(うろ覚え)。

もちろん、そういった価値観は現在では尊いし、自分としても権威主義的に「口答えすんな!」って老人の価値や教えを詰め込まれていくのは嫌なのだけど。家族系をはじめ、アングロサクソンの共同体と条件が違う共同体ではその価値観を受け入れるためにまず下地となる条件を整えていかなければならない。たとえば絶対核家族では「父・母・子ら」という家族形態が基本ユニットとして暗黙に前提されている。いわゆる専業主婦モデル。「それがゆえに独身族を想定していなくてその部分へのケアがゆるくなるのだ」とトッドはいう。「そういったものは(大家族的な共同体なら全体で支え合うシステムがあっただろうけどそういうものがなければ)国家が代替して保証していかなければならない」と。デンマークやスウェーデン、フランスのPACSみたいなああいうもの。それによって独身者だけではない社会的マイノリティも包摂していく。社会で独立して暮らせるように。財源としては税金頼りみたいだから税金がその分高くなるけど。


平等主義や自由主義を求める時、倫理や「(彼らが家父長制と暗黙かつ雑にイコールしてるぽい)専業主婦モデル打倒!」といった根性論以前にまずそういった現実的で構造的な条件の改正を考えるべきだと思う。あるいは倫理とともにそういった具体的なものを勝ち取っていこうとする。対立する相手が合理的配慮が示せる程度の対話の余地を残して。そういうことが必要なように。

家父長制の話ついでにいうとあれは字義的には「一家の家長が父であること」「そこから発せられていた権威主義」ということだろうけど家長が父(男性)であることと権威主義的であることはそのままイコールではない。たとえば母が家長でも権威主義的な家族はある。うちみたいな母子家庭とか。そして大家族でも権威主義は踏襲されていただろうけどそんなに問題なものでもなく平和に共同体が運営されていたりもした。もちろんそうでもなく不満が溜まっていたところもあるだろうけど。まあとりあえず家父長(すなわち一家の長が男性)であることがそのまま権威主義になるわけではないし、権威主義だったらそのまま悪いということにもならない。家父長制≒男性中心主義としても男性中心主義というのは人類の一定の期間、一定の場所において最適とされたモデルだったのだろうし、男性が中心になったから社会的に変なになっていったというわけでもない。急進する近代の速度が個人にも同様の速度を要請し、結果的に黒いイナゴと化した男性たちが家長としてその権威をトリクルダウンしていっただけともいえる。つまり国家→社会→(男性を家長とした)家族への影響。ゆえに「家父長制と資本主義」の見立てが出てくるわけだしあの見立てではまだ未完成だったりするのだ。


権威主義ばっか敵にするのもどうなの?という話ついでにいうと彼ら「りべらりずむ」を自認する人々のやり方も権威主義といえるだろう。上記してきたように、彼らのりべらりずむの価値規範である自由・平等について、彼らは往々にしてそれを思想的、本源的に思考することはなくお題目的にそれを唱える。それがゆえに彼らのセイギはともすると教条化してオーバードライブして他者を傷つける。公正性や公平性は「平等」の価値にも関わるものに思われるけれど彼らは目の前の「平等」を説くあまりに公平や公正の原則をしばしば忘れ度外視する。結果として、最悪の場合彼らの倫理題目と相対する人々に暴言を浴びせたり暴力行為を行ったりする。あるいは言論の「自由」をかかげつつ仮想敵の言論の機会そのものを潰したり。そういうものの何が「自由」なのか…。

それらは本質的な意味での平等主義・自由主義、あるいは人道主義とは違って単なる題目なのだろう。彼らが教科書的に教えられた題目を権威主義的に踏襲しその権威をもって(自分とは違った考え方を持つ)他者を圧しようとしているだけなのだ。

それが「わたしはシャルリ」運動(イスラム系住民やマグレブの排除)であり、Twitterで異論を唱えた子供芸能人へのクソリプ暴力であり、(中道左派≒リベラリズムを掲げるはずの)民進党による人権侵害的なマッチポンプへの鈍感の正体だった。




なのであらためて思う。そういう人々は宗教なのだ、と。りべらりずむ(あるいはその反対のネトウヨ的なお題目への教条的な盲信なのだ、と。そしてそれは日本という直系家族系からすると正しく権威主義なのだろう。

まあ「宗教の人」というのも揶揄的に思われるかもなのでエクスキューズしとけば本来宗教が機能してていた/現在も求められているような空白にああいう教条主義的な「良いこと」価値観が求められ帰属されていくのだろう。たとえばフランスのシャルリ運動の担い手がパリ中心部の人々ではなくその外縁部の直系家族系の人々で、彼らは元々カトリシズムを信奉していたがその空白に共産主義を報じるようになり現在はりべらりずむを奉るように。そういう人々には良心の拠り所としてそういうものが要るのだ。そういうひとたちって異化するだけではなくたぶん自分たちにも。


んでもそういう宗教の人たちと接すると言葉も通じなくて疲弊してしまうことがママあるのだろうからある程度の線引がデキたら良いなと思う。たとえばライシテのような。Twitterなんかはブロックとかミュートとかフィルター機能である程度アーキテクチャ的に排除できそうだけど、社会的にももうちょっとなんとかならないかなあって。まあ実際社会的にそういうものを設置するとなると暴力的な切断処理も生じるだろうから自分たちの心の境目的なものとしてなんとかデキないかなあみたいなのは思う。そういうわけでライシテについてちょっと調べてみよう。

















































































問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書) -
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シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書)) -
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家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫) -
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フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ) -
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世界のなかのライシテ; 宗教と政治の関係史 (文庫クセジュ) -
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2017年07月09日

「こうしてわたしたちは負ける」?


さいきんTLを賑わせていた性表現についてのPC系の話題。2つ同時になっていて両方とも「自粛しろ!」と当該表現元にうんたらかんたら。自分的には最初そんなに乗り気でもなく両方共そんなに取り立てるほどの話かなあという感じで見ていた。んでもなかなか鎮火しないのでまあこういうのはこの問題自体がほんとに問題というか、こういうのは皆さんのなにか語りたい欲を刺激しやすい話題なのだろうなあ、とか。いわゆる学校・教育問題だとみょーに皆さん口を出していく、みたいな。「それはしろーとでも強い立場で物が言える / 関心をもてる問題だから」みたいなことを誰かが言ってたけど、そいえばこれも子供の教育的な問題に属するのか。「自分のため」というより「子供のため」となると燃料が着火しやすいのかなあ。。あと自分ドリヴンでもないので落とし所が見つかりにくく際限ないというか…。漠然とした不安を感じてヒステリックにギャーギャー言ってくだけなのでいつまでたってもギロンが終わらない。落とし所を見出そうとしない。

その辺の心理、クレーマー的なものや「何かを損させられてるんだ」的な被害者と弱者意識?からのドリヴンみたいなのはまた別件で見ていこうかと思うのだけど(彼らはなぜあんなのに着火していくのだろう?)、「落とし所がない」という言葉が出たのでついでにいうとこの話自体の落とし所は両方とも「ゾーニング」と「レイティング」ということだと思う。コミケや薄い本系のギロンの蓄積から借りると「性的表現で不快になる人がいるとしてもそれは個人(間)の趣味的なものでたのしむぶんにはよいはずで、その部分で留め不快に思う人には見せないようにする」みたいなの。「不快に思う人」あるいは子供のように合理的判断能力がまだ備わってない(と思われる)人のことを配慮して該当表現を愉しむ場所を囲い込み、そういった人たちの目に届かないようにする。コンビニのエロ本とか、あるいは電車のエロ中吊り広告とか。あるいはお笑い番組的なノリにもそういうものは見られる。直接には言及しなくても同業界のそのへんの倫理意識の低さは垣間見える。まあ倫理が低いっていうか世間並みなのだろうけど。それらはゾーニングとしては未だ甘くて、特に中吊り広告なんかは確信犯的ダダ漏れと言ってもよいのだろうからそういうのが「当然」としてまかり通ってるような社会においては今回話題になったCMなんかも「ちょっとした冗談じゃん?」ぐらいで済むようなものなのだろうけど。

そういったことを考えると今回の件程度のことよりもより構造的な、社会全体の意識変換が必要に思われるのだけどそういうことをいうと「まず見えたものを一個一個叩いていくこと、その場でプロテストしていくことこそがたいせつなんですよ!」とかいうひともいてまあそうかあとかも思ったりする。んでもその語り方が特に落とし所もなくヒステリックに怒ってるだけのように見えたら周りは引いていくだけのように思うのだけど。彼らが仮想敵とする人はもとより、特に関心のない第三者的な人もますます聞く耳をもたなくなるというか…。

ではここでいう「落とし所」とはなにか?というと、利益相反する二者が存在し紛争となったとき、相互の利益を尊重しつつ妥協できるような地点(を模索する)ということになるように思う。そういう紛争・衝突の場合、得てして双方が最初に求めた要求が完全に通ることはない、ので相互の妥協点を探る。双方が合理的に納得できる線を探って。

今回の件の場合、きちんとやるとしたらジャンプとか当該CM担当者との交渉ということになるのだろうけど、まあだいたいもう済んだことみたいな感じにはなってる。当たり前だけど。ジャンプとしては「今後の意見として参考に致します(ペコリ」程度だし、サントリーのCM担当としてはさっさと当該CMを取り下げたみたい。まあ後者は最初から炎上でバズるのが目的だったようだから目的は十分に達せられたのだろう。そもそも両方ともいち消費者としては「買わなければ良い」で個人的なゾーニングはほぼ達せられるはずだし。

「だったら買わなければ良い / 見なければ良いとかいったって目に飛び込んでくるんですよ?!公共的なものなんだから!」つってもジャンプのようないち週刊マンガ雑誌がどれほど「公共的」なのか。。あるいは当該ウェブCM。まあ後者はTLとかでボーッとしてて流れてきたら不快というのはあるだろうけど電車のエロ中吊り広告と同じく。んでもたとえばTwitter公式アプリなんかだと「この広告には興味がない」で見ないようにできるしなあ。。そもそもふつーに過ごしていてそういうものに遭遇したとしてもそんなに意識するようなものなのかなあとかは思ったりする。特に後者のCMについては。端緒となった「エロ表現だ!」という騒ぎ立てで既存の見立て(PC的にまずいとされるようなポイント)で焦点化されていった意識からすると「エロくてけしからん!」ということにはなるかもしれないけどふつーにみる分にはどうということのないCMのような。。「あれはあきらかにオーラルセックスをメタファーしてる!」つってもまあそういうのもあるんかもねぐらいでそのときそういうことを思った自分の心根を恥じたりするんだけど自分の場合は(「いやらしい!」というひとのほうがいやらしい)。前者のジャンプのエロ表現みたいなのの場合は奇形ともいえるおっぱいのほうが気になってその奇形さへの違和感からドリヴンしたのかなあ。。みたいなのはある。発端となった人もそういった自分の違和感と不安を既存の別のタテマエですり替え合理化したようなところがあるのではないか?直接聞いたわけではないから知らんし、そのように問えばすり替えと合理化が完成した人は「違いますよ!」というだけなのだろうけど。そして自分的にもあのマンガ表現の最初の違和感は持っていたわけだけど。「おっぱいがみょーに大きい」「画面に肌色が多い ≒ 安いエロ漫画みたいな表現だ天下の週刊ジャンプ様にしては」。

そういえば別件で燃えてる?北原みのりさんの件にも似たようなところがあるように思われる。最初の個人的な違和感、と、公共的な関心・ポリティカル・コレクトネスな倫理のすり替え、みたいなの。表現・言論の自由ガーという人たちではおうおうにしてそういうことが生じてるように思う。あるいは民主主義ガーとかいう人たち。自分たちに都合の良い時だけ「言論の自由ガー危機デー」とかいうけど対立する人の言論の自由は考慮せず、ときとして言論の機会をつぶしたりもする。それが彼らの「民主主義」なのか?とか思ったりもする。


まあそのへんは皮肉的な視点だからここまでにしておくとして、こういった問題ではやはり個人、あるいは少数の不快をどのようにほかの人々に訴えていくか?というのを考えさせられる。「バッドフェミニスト」でロクサーヌ・ゲイがいうように、問題を軽く扱いすぎて特に関心のない人たちから軽んじられたりしないように、かといって重く訴えすぎて聞く耳を持たないようにされるのも好ましくない。その中間を目指して。



「こうして私たちは負け」ないように



























































































バッド・フェミニスト -
バッド・フェミニスト -



posted by m_um_u at 23:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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