2017年06月28日

バニラエアのうんたらでノマノマv( ̄Д ̄)v イエイ


朝に昨今のクソリプやめろ的な空気と今井絵理子さんの「批判なき」うんたらについて日記でもしとこうかなと思ってたら別件で昼ぐらいにクソリプついて(#´ω`)…てなったので記念的に。増田に「アレは通常の『批判』て意味ではなく若者言葉でのdisを意味するのだ」みたいなのあったけど、実際のところどうなのかわからん。

元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言にネットで非難集中 | 独女 [DOKUJO]
http://www.dokujo.com/entertainment/62444.html

はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない
https://anond.hatelabo.jp/20170624022831

あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
これはもちろんおそるべき低知性・低学歴の表出と取っていいと思うけど
ディベートやディスカッションの訓練をしない日本の公教育カリキュラムの悪影響も合流してると思う。
意見をぶつけ合うことは異常事態であって悪いこと。



(あまり時間かけてブログするのもなんだからこういうリンクとか引用もなるべくやめようとおもったのだけど日記風にまとめてるだけだとしばらくたって読み直すと当時に当然と思ってた話題の詳細がわからんくなるのでアーカイブ的に)

今井絵理子さんの言ってることは昨今のついったーなどでの「クソリプやめろ」とか「年上男性による説教はマンスプレイニングにすぎないのでやめろ」みたいなのと同じことだと思うのだけど。単なるマウンティング的なクソリプがうぜえってのはたしかにあるけどFF(ふぉろーふぉろわれ関係)外からのリプのだいたいをクソリプとしてるようなひとたちもいてそれってどうなの?みたいな狭量さを思ったりもする。こういうのが昨今のfbなどでの閉じた世界とフェイクニュース的な「うちら」真実のエコー・チェンバー的な涵養の土壌になってるのだろうしなあ、とか。まあそのへんについてはもそっと現代若者論とか社会学とかからの詳細をもって相対化していく必要があるかと留保を入れるのだけど。それとはべつに「正しい批判と単なるdisの違い」みたいな話がある。

ただしい批判というのは研究界隈ではよくある「テーマそのものに対する疑義をもって対立意見を出し、対立した意見をもったものと一定の論拠を通じてテーマとなる事象自体の真実に近づいていこうとする」もの。「批判的(critical)に検証する」なんていうときの「批判」はそうだし批判理論なんかはまさにそういうのが前提じゃないと成り立たない名称だったんじゃないかと思うけど詳細忘れた。まあウィキペディア見れば載ってるのだろう(本件でそんなに重要な事ではないのでぐぐらないしりんくはらないけど)。

で、

そういった立ち位置をあらためて反省的に思い出したのでよぉ〜し、オレもff外からのクソリプとか喧嘩腰外交とかでもテーマに沿って対話につとめるぞーとかおもってたのだけど…。まあ下にまとめた該当ついーとのアーカイブをみても分かるように結果的にみょーに喧嘩腰に来られて、テーマ(の修正を通じた理解とか)は深まらず、なんだこのひと?みたいな不毛さと不快さのみをのこしてりぷらいの応酬は終了したのだった。まあついったーらんどではいつもの光景なのだけど。「野間さんにたいして、おれも偏見あったかもだからちゃんと話してみるかー」とか思った結果がこれだよ。。とか思ってアレだ。。まあいいんだけどテーマになった事案である障害者の生活とかバリアフリーの実際、その不利益とかに比べると大した話でもないし。

んでも、こういうご大層な?テーマを扱うときにそのひとがその大層さに酔って、目の前の、自分自身の暴力は看過するというのはどうにかならないものかなあとかおもったりする。まあ暴力というほどでもなくて失礼でありハラスメントなんだけど。じっさいに嫌な思いしたし。この件に関して、対象となった事案や障害者のひとにはとくになにも影響はせずたんにオレの嫌な気持ちが残ったというだけは現実であり事実なんだけど。


それにしてもなんで野間さんいきなりリプしてきたかな―。エゴサーチしてるんか―やっぱ、とかは思うのだけどエゴサーチはまあいいとして(自分はしないけど)、朝に小山エミさん関連の野間さん話をしてたのが一番ポイントだったのかな―とあらためて思った。『野間さんが影響受けたという小山さんによる差別の構造的問題な説明。「付け焼き刃な親切は却って構造的矛盾を助長するとこがある」というのは首肯できる面があるところもあるけどドブ板な現場レベルではマンパワーに期待されているのでまあ理想論だなと』あたり。「障害者排除などの構造(アーキテクチャ)的な矛盾が目の前にある場合は、ヘタに周りの人が親切してその溝を埋めてるといつまでたっても問題は解決しないので構造的欠陥は放置しておいて矛盾を訴えるべし」ということかとおもうけど、そんなこといっても実際にはたらいてる現場とか生活の現場でも上のレベルがアホで馬鹿だから進まない構造的欠陥があった場合現場レベルで対処していく(とりあえず)というのがふつーだからなあ。。そして、それとはべつに構造的欠陥をなおすように上に訴えるわけだけど、内部での訴えだけけだと潰されるので労基とか頼ったりってのはありつつ(労基に匿名で訴えてもびみょーだから退職時に最後ッペ的にやるかどうかはその人の良心次第みたいなのもあるけど)。


まあなので、野間さん自身はこのへんがカチンと来て彼のやり方の本質的なアレさを批判されたのかということでふっかけてきたのかと思うに、彼が「油断あり」と踏んだ箇所がそんなに鉄板で弱い箇所でもなかったので、って感じだったのだろうか。できれば彼の「目的のためには手段を選ばない(暴力には暴力(あるいは場外乱闘的手段)で対処する」なやり方の是非を聞きたかったけど。人となりはあらためてわかったのでこれ以上、話すこともないのだろうな。スパム報告したし。


そういったやり方が有効、あるいは必要とされてきたのは差別がふつーな昔、あるいは現在でも差別がふつーな環境では理性的な対話や要求そのものが通用しないという現状があるからかもだけど、んでも、だからといって最初から対話を飛ばして暴力的なやり方に訴えていたら単なる暴力な人になるだけのように思える。彼の場合は特に、大義名分をもとに己の暴力性を発散したいだけにもみえるし(あるいはそれはたんに偏見で、彼の中の『ただしい』『ただしくありたい』な公正世界的な規範がつよすぎて人を寄せ付けないだけなのかもしれないけど。


蛇足的にいうとさっきえねーちけーのニュース見てたら当該のバニラエア航空の件をやっていて、「(そもそも規定で乗せられないことになってるけど例外的に乗せたのは)タラップの乗り降りの際に付き添いのひとたちが『(身体を)抱きかかえて』乗せるという話だったかと思っていたのだけど、現地についてみると車椅子ごと抱きかかえて危ないと判断したので止めたところ…」みたいな話だったバニラエア側からとしては。帰りの搭乗でも車椅子ごと抱えて上がろうとしたらしい。まあたしかに車椅子に乗せたまま抱きかかえてたら不安定だろし、ふつーに搭乗だけが目的なら周りのお仲間に身体を抱きかかえられて登ったほうが穏便に済むはずだからなあ。。バリアフリー運動のひとつってことだったのだろうけど。これをもって「プロ市民m9(^Д^)」とか「障害者めいわくかけんなm9(^Д^)」とかいうのも違うだろうしそういうのに与したくはないのでモニョーンとしたりはするのだった。

できればふつーに要望と対話をつうじてそういったものが改善されていく社会が良いのだけど。まあデフレで不況ってのもあるからなあ。。それで格安航空だから予算なかったってのもあるし。








































posted by m_um_u at 20:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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